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大学の敷地の端っこにある3号館、その2階に紗良の専攻科が入っていた。
3階には、同じ学部の別の専攻科が入っていて、他の建物とかなり離れている条件もあり、そのふたつは交流も多かったと思う。
ちなみに1階は教官室と講義室だ。
佐々木萌絵というその学生について、紗良はほとんど知らない。
ただ、同じゼミの子とバイト先が同じということで、しょっちゅうゼミ室に入り浸っていたことは覚えている。
合同飲み会でも一緒になったし、よく雑談はしていた。
二人で出かけるようなことはなく、友人かと言われれば、即答はしかねる、といったふうだ。
ところで、異世界に来る直前の紗良は、散々だった。
自転車をこいで買い物に行く途中、急に歩道に乗り上げながら駐車した車をよけようとして転んだのだ。
自転車のフレームはひしゃげ、ハンドルは変な方向に曲がって戻らない。
ちょっと手のひらをすりむいただけで、幸い大きな怪我はなかったが、倒れた自転車にあたふたしている間に、その車はいなくなってしまった。
紗良は、落ち込みながら、変な方向に勝手に曲がろうとする自転車を引きずって自宅に帰った。
翌日、徒歩で大学へ行くと、友人たちに自転車はどうしたのかと聞かれた。
実はと説明すると、「病院行ったら?」と言われ、首を傾げた。
ちょっとすりむいただけ、他に怪我してないよ、と言うと、みんな、やれやれというふうに笑った。
そして、そうじゃなくて診断書もらっといで、と言うのだ。
何のために?
戸惑う紗良に、ことさら優しく、危険運転だからそのまま警察署に行って訴えるべきだったよ、と誰かが言う。
訴えるのに、診断書があるといいらしい。
そっか、でも自転車壊れちゃったし、バスで行かなくちゃ。
素直に肯く紗良に、誰かが、あんたその自転車クレカで買ってたじゃん、保険確認しなよ、と言う。
保険?
聞き返すと、「クレカには保険が付帯してることあるから、あんたのそれがついてるかどうかも使える事案かどうかも知らないけど、問い合わせて損はないでしょ」と友達。
知らなかった。
紗良は、ありがとうと肯いた。
津和野さんってさあ、末っ子?
思い出した。
冗談みたいな口調で聞く、その人が、佐々木萌絵だった。
彼女につられて、みんなが笑った。
嫌な感じではなかったけれど、紗良にしてみれば、現実に末っ子であることの何が面白いのか、分からない。
結局、クレカの保険、というやつは確認しなかった。
父親が飛行機で飛んできて、警察への届けも、壊れた自転車の処理も、新しい自転車の購入も全部済ませてしまったからだ。
それで、その次の日、紗良は急に思った。
大学、行きたくないな。
友達はみんな優しい。
あれからどうなったの、と、きっと尋ねてくれるだろう。
紗良は、全部父親が後始末をしたと伝える。
ふーん、で終わる。
多分。
何も困ることはない。
分かっている。
けれど、少しだけ、なんだか、居心地が悪い気持ちになる。
いつもそうだ。
誰も意地悪は言わないし、嫌な顔もしないし、いい人しかいない。
なのに、ほんの一瞬だけ、変な空気が流れることがある。
その瞬間が、紗良はとても嫌いだ。
ああ、大学、行きたくないな。
そう思いながら、朝、ドアを開けた。
目の前に川が見えたのは、そんな日だった。
そしてその異世界で、佐々木萌絵は、ぺったりと座り込んで泣いていた。
「え、え、佐々木さん? どうしてここに?」
慌てふためく紗良は、驚きすぎて動けないくらいだ。
さらさらの長い黒髪も、小作りの可愛らしい顔もそのままだが、着ているものは森の中に似つかわしくないひらひらの服だ。
彼女は、泣きながら言った。
「つ……津和野さんを道連れにしたの、私だから……」
それを聞いた紗良は、思わず言った。
「ああ、佐々木さんだったんだね」
「え。……あの、知ってたの?」
「ううん、じゃなくて、ちょっと知り合った人に、聖女っていう人も異世界から来た、って聞いてたから。
同じ立場の人がいるんだろうなって思ってた。
それって、佐々木さんのことだよね、きっと」
「あ、うん。私。聖女」
そう言った彼女は、涙にぬれた顔で、ちょっと皮肉気に笑った。
「おかしいよね、私が聖女なんて」
「いやー……分かんないけど、似合ってるよ、その服」
すると彼女は、泣き止みかけた顔をまたくしゃりとさせた。
「うっ、うっ……そういうところ、嫌いだったー!」
号泣する彼女を、紗良は黙って見ているだけしかできない。
泣きながら彼女が言うことには、ある朝、大学に行こうとバスに乗ったとたん、その入り口が異世界につながっていたらしい。
ぽかんとする萌絵は、跪く男たちに、自分が聖女だと聞かされる。
異世界に招かれ、その世界を安定させるために尽力してほしいと。
勿論、彼女は断った。
今までの人生を捨て、家族も友達も捨て、必死で勉強して入った大学のキャリアを捨て、なぜ見知らぬ人々を助けるために働かなければならないのか。
正論を述べる彼女に、男たちはひたすら頭を下げ、そして言ったそうだ。
『しかしもう、聖女様は元の世界には帰れません』
振り向けば、バスの入り口は消え、後に聖域と分かる森の中にいたらしい。
それはこことは違う森で、もっと王都に近い場所にあるそうだ。
泣いて喚いて元に戻せと言い募る彼女も、だんまりを決め込む男達にあって、もうどうしようもないのだと絶望した。
悔しくて悲しくて、腹立たしくて、怒りがおさまらなくて、泣いて泣いて、そして彼女は言ったそうだ。
「なんで私だけこんな目に! どうして私なの!
もっと幸せに生きてる他の人にしてよ!」
男たちの中でも地位の高そうな老女が、このままでは聖女の気が鎮まらず、とてもお役目を果たせまいと告げたそうだ。
そして、じゃあ帰れるのかと喜ぶ萌絵に、悲し気に言葉を続けた。
「女神さまは、一人でなければ心休まるのかと問うておられる」
萌絵は答えた。
「休まる訳ないじゃない! でも、私だけなんて嫌!」
そして──そして、紗良が呼ばれた。
「なんで私なの?」
「分からない、私が指名したわけじゃないもの。
でも……もっと幸せに生きている誰か、って言いながら、私はあなたを思い浮かべてた」
ぐずぐずと泣いて、萌絵は言う。
だよね、と紗良も思った。
小中高と、私立の一貫校に通っていた紗良は、周囲の友人たちとなにひとつ変わらない生活だった。
それが、大学に入って、ようやく自分がとても恵まれていると実感する。
家賃の高い、大学近くの広いマンションを借りてもらい、全てを仕送りで賄い、バイトの必要はなく、親名義のクレジットカードを上限なしで使い、散財はしないけれど節約もしない。
母の料理学校を姉が、父の会社を兄が継ぐため、好きなように生きなさいと、家族全員に自由を認められている。
面倒見がよく、優しい家族を持ち、愛されて育った。
そんな環境全てが、きっと、友人たちにたまに感じる居心地の悪さの正体だろう。
分かっていても、紗良には何もできない。
どうにもできないことだ。
そしてそれを、友人たちも、そして萌絵も、みんな知っている。
「なんで私、森の中なの?」
「前の聖女様が、私の我儘で津和野さんを呼びはしたけど、私のために傍におくつもりはないって、女神さまが言ったって言ってた。
よく分かんないけど、一緒にいないほうがいい、って」
「まあそうだよね、嫌いなのに傍にいたら、イライラするもんね」
彼女は、俯く。
「嫌いって、そういう嫌いじゃない」
「ああ、うん。積極的に嫌いじゃないけど、いけ好かないんだよね?」
「そこまでじゃないもん。嫌いっていうか……羨ましいだけ。
嫉妬だよ。
私があさましいだけ。
なのにこんなことになって……津和野さんも帰れないんだって聞いて、それで……ごめんなさぁぁいいいいい!」
紗良は困りつつも、遭難セットからタオルを出そうとザックをあさる。
「うぇぇぇん、うぇ……え……あ? あの、津和野さんそれ」
「え?」
「おにぎり?」
「え?」
彼女が目を丸くして見ているのは、アルミホイルをむいて持ったままだったおにぎりだった。
「ああ、うん」
「なんで?」
「え? 私が作ったよ」
「じゃなくて、なんでお米があるの? すごく高価で稀少なものだって言われたよ?」
じりじりと彼女が近づいてくる。
目は、おにぎりに釘付けだ。
「私、部屋ごと転移してきたから……」
「そうなの!?」
「佐々木さんは?」
「その時身につけてたものだけだよ」
「あの……食べる?」
ぺたりと座った状態でにじり寄ってくる彼女が怖くて、ついそう言った。
「食べたい! すごく!」
「まだ口付けてないから……どうぞ」
「ありがとう! 好き!」
調子のいいことを叫んだ萌絵は、飛びつくようにしておにぎりを受け取り、もぐもぐと食べ始めた。
「うわぁぁぁん、美味しい、お米だよぅ、美味しい、うわぁぁぁん!」
結局泣くんだ。
紗良は、取り出したタオルを手渡しながら、冷静に彼女を見ている。
悪い人じゃないんだよなぁ。