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出来上がったパン種を使って、甘味の少ないハードパンを焼いた。
酸味は感じられるが、むしろそれは紗良の好みだ。
スライスし、昨夜の残りのポテサラを挟んで食べると、我ながら機嫌が良くなる。
麦の香りと、ほんのりしたりんごの風味は、鼻に抜けても嫌なにおいを残さない。
パン種は、継ぎ足しながら3回はいけるだろう。
さすがに三日あれば、きっとシンクも完成する。
そう考えたその日から一週間ばかり、紗良は森へ入らなかった。
いや、入れなかった。
ずっと、河原で、がたがたするシンクと格闘していたからだ。
作っては潰し、作っては潰しの過程を経て、ようやくまともなシンクが出来るまでに、それだけの時間がかかってしまった。
ちなみに魔物はと言えば、パンしか出てこなかったのが不満なのか、三日目あたりから顔を見せなくなった。
目的が分かりやすすぎないか、と思うが、後ろでいつまでもクッションをこねられても困る。
まあいいでしょう、という気持ち。
そもそも、シンクの問題はがたがたすることだけではない。
接合部からの水漏れや、排水した水の処理、シンク内を流した時にうまく水流が排水溝に向かう傾斜角度など、改良点は枚挙にいとまがない。
材料は木と鉄とステンレス、そしてリセットで量産した蛇腹ホースだ。
部屋の洗濯機から、付属していた風呂水給水ホースを取り外して外に置き、リセットで再出現させる。
これを繰り返し、熱で接合した力作だ。
面倒だったが、なぜか、部屋にあるものは複製不可なので仕方がない。
野菜くずやゴミは排水溝の入り口でこしとり、川まで伸ばしたホースの出口には荒めの網をかける。
シンクを使うときだけ、この網に浄化をかけて、浄水して川に捨てる仕組みだ。
シンクから川まで、10m以上ある。
排水をどうするか悩んだ挙句の、苦肉の策だった。
さらにシンクの横に、注ぎ口の長い水瓶を高い位置に設置した。
ホースと同じように、使うときだけこれに流水をかけ、水を流しっぱなしにするのだ。
本当は蛇口をつけたかったが、仕組みが分からな過ぎて駄目だった。
それならばと部屋の蛇口をひっぺがして使おうとしたが、全然外れなかったので諦めた。
現代日本の力、おそるべしだ。
なんにせよ、その過程で飛躍的にレベルを上げた紗良は、シンクの下に引き出しをつけられるまでになった。
これで、部屋に何度も取りに往復していた、まな板や鍋をしまっておくことができる。
少し離れて、遠くから出来を確認してみる。
いいじゃないか、と、自画自賛した。
心から誇らしい。
自分で作ったなんて、信じられない。
全部同じ木材で作っているので、色も統一感があっていい。
かつて自分から何かをしようと考えたことのなかった紗良は、自分の変化を好ましく思う。
悪くない。
もしかしたら、紗良を妬み、かつ憐れんでいた友達も、見直して──。
突然、スマホが短く鳴った。
こちらに来て初めてのことだ。
びっくりして取り出すと、地図アプリに通知バッジがついていた。
開いてみると、紗良を示す青い点の他に、赤い点が表示されていた。
なんだろう。
それは、ゆっくりとだが、移動している。
目指す方向には、御神木がある。
「あの人かな。平民の」
またお供えを持って来たのかもしれない。
丁度、汚れ仕事用のジーンズとチュニックだし、ブルゾンを羽織ってザックだけ部屋から持ち出せばそのまま行ける。
紗良は、新たな食材の予感に、急いで森に入ることにした。
一週間ぶりに森に入り、周囲の景色が一変していることに驚いた。
すっかり色づき、紅葉が進んでいる。
自然の変化はもっとゆっくりなものだと思っていたが、あっという間に見たことのない光景になった。
紗良は、アプリを確認しながら、下草をかき分け歩く。
【戦士】のレベルが20を超えたせいか、歩き方が安定してきた気がする。
そもそも、リセット機能により、紗良の身体はいつも変化なしのはずだ。
なのに、魔法は使えるようになるし、料理も工作も上手くなるし、身体も強くなっている。
思うに、これは物理的変化ではないのだろう。
内面というか、メンタルということではなく、魔力の使い方が日々変化している、ということだと思う。
魔法とは、スキルとは、身体ではなく魔力を変えていくこと。
素敵だなと思う反面、これが元の世界になくて良かったなとも思う。
向こうの世界で、紗良はどんなに頑張っても、100mを10秒で走れるようにはならない。
それが生まれついての身体能力で、努力ではどうにもならない部分だ。
けれど、魔力が物理を越えるとしたら?
頑張れば何でもできてしまうとしたら?
頑張らないことがどれほど軽蔑されるだろう。
能力が不足していることを、どんなに馬鹿にされるだろう。
仕方がない、の通用する世界には、慰めがある。
もうすぐ御神木の足元、という所まで来て、なにやら騒がしいことに気づく。
生き物が立てる音は、久しく聞いていない。
黒い魔物は足音を立てずに歩くし、他に生き物は見当たらないからだけれど、今、前方から聞こえるのは、ひどく不穏な音だった。
争っている。
そんな気がする。
紗良は、足を速めた。
身体強化のおかげで、転ぶことなく到着したが、ようやく見えた光景に唖然とする。
黒い魔物と、あの平民だという男が、戦っていた。
折しも、今、男は剣を振りかざし、魔物に切りかかろうとするところ。
紗良は、気づけばその眼前に立ちはだかっていた。
「防御!」
怒鳴ると同時に、紗良の鼻先で、男の剣がはじかれ吹っ飛ぶ。
彼は反動で後ろに下がるが、器用に回転して勢いを殺し、片膝で前傾姿勢をとった。
「なにしてんだごらぁぁぁぁぁ!」
紗良は腹の底から怒鳴り、切断を放って男の剣を真っ二つに折る。
すると、男は険しかった顔から一転、困ったような顔で目を瞬かせた。
「……精霊様、その魔物は……」
そうだった。
男に背を向けて後ろを確認すると、黒い魔物は、四つ足でゆったりと立ったまま、しっぽを揺らしていた。
見る限り、怪我はないらしい。
いや毛足が長いので分からないとも言える。
紗良は、魔物の周りをとりあえず一周してみて、念のために癒しをかけておいた。
「申し訳ありません……精霊様が従えておられるアテルグランスとは知らず」
「別に従えてなんかいません。なんですかあなた、何かも知らずに攻撃したんですか?」
「……魔物は、人と見れば襲ってくる生き物でございます。
少なくとも、人里ではそのように教育を受け、常に全力で討伐すべしと教わるのです」
あ、そうか、魔物だった。
アテルなんとかっていうのは、呼び名だろうか。
「え、あんたこの人を攻撃したの?」
魔物は不満げにあごを上げた。
意味は分からないが、否定している気がする。
紗良は男の言い分にもなんとなく納得したが、だからと言って、いきなり黒いのを攻撃したのだとしたら許せないという気持ちもある。
ただ、それを言うのはやめにした。
自分だって最初は怖いと思ったし、魔物に殺される人もいて、その歴史があるからこその教育なのだろうから、言う立場にない。
複雑な心境で、分かりました、ともごもご答える。
「後学のため、他に精霊様の従えておられる魔物はありますか?
決して攻撃しないことをお約束するためにも、ぜひ明かしていただければありがたく存じます」
「いえ、だからこれも別に従えているわけじゃないです。
あと他の魔物に会ったことないですし」
「そうでしたか……しかしそうなると、そちらの魔物が人里に降りた際、やはり同じように攻撃されるおそれがございますが」
紗良は首を傾げた。
「結界があるんじゃないんですか?」
「えっ。結界は魔物には効きません。正確には、この森に張っている結界には、人を縛る効果しかありません。
魔物を縛る結界は、聖女様のみが操ることが出来、それは王都にて使われるものでございます」
世界が違うと、常識もここまで違うのか、という感想だ。
「じゃあ、それがルールなら仕方ないです」
「えっ」
「えっ」
「あっ。いえ。いえいえ。あの、アテルグランスは非常に強い種で、上位の魔物でございます。
簡単に討伐できるものではありませんので、それほどの心配はいりませんよ」
いいから黒いのを攻撃するな、と無茶を言うとでも思ったのだろうか。
心外だ。
そんな話をしていると、背中に感触があった。
見ると、黒いのが紗良のザックの匂いを一生懸命嗅いでいる。
非常食にと、ツナサンドをジッパーバックに入れて持って来たので、それ目当てだろう。
すごい鼻をしている。
ザックを降ろし、一つ出してやると、一口で食べられた。
残り二つ。
紗良は我慢して、もう一つあげた。
一口で食うなよ、もっと味わってよね。
ふと視線を感じる。
男はどうやら飛び散ったお供え物をかき集めてきたらしく、カゴを背負った姿で紗良の手元をじっと見ていた。
「食べますか? カゴの中身とこれ、交換してください」
はっとした顔をする。
自分が何を見つめていたか、今気づいた顔だ。
「あ、とんでもございません、こちらは捧げものでございますゆえ」
「あの、その大仰な話し方、なんとかならないんですか?」
どうも、芝居かなにかを見ているようで、居心地が悪い。
「精霊様ですので」
嘘をついているせいで、今度はばつが悪くなった。