17
紗良は痛みをこらえ、落ちてきた栗の実を10個ばかり拾い、男に向かって差し出した。
「あの、この実とその野菜、交換してもらえません?」
男は、何を言っているのか分からない、という顔をした。
それから、両手を目の前で振る。
「いけません、この森のものは、どれと限らず採取は禁止されております」
「採取したの、私ですけど」
「そういう……問題では、ない。ような。気がいたします……」
首をひねりひねり、男が言う。
紗良は、ケチだな、と思った。
だけど諦められない。
野生の野菜を摘んで暮らすのは難しいだろう、という大問題に、今、答えが出ようとしているのだ。
「この実、癒しの効果があるらしいですよ。お得ですよ」
「なんですって? それは……いやしかし……」
「葉物野菜を一株でいいです、それともそれはそんな高価なものでしたか?」
「いえ、普通の野菜です」
「わあ、じゃあ、ほら、お得ですね!」
ぐいぐいいく紗良に、男は困惑を深める。
紗良は、ダメ押しとばかりに、神木とやらに向かって叫ぶ。
「この実、この人にあげてもいいよね!」
うんいいよ!と裏声で答えようとしたが、そんな学芸会のような芝居をする前に、上からまた栗の実が落ちてきた。
紗良は慌てて、ビニール袋を広げる。
ストトトトトトト、と、20個ばかりの実が、狙ったようにその中に吸い込まれていった。
「ほら、いいって」
男は驚愕に目を見開いた後、跪いたままの姿勢で両手を組み、何やらぶつぶつ呟き始めた。
どうやら祈りの文言のようだ。
「なんという奇跡。お嬢様は、御神木様の、精霊様でございましょうか」
様が多いな。
「いえ、人間です」
「精霊様ということであれば、このお供物はそもそも御神木様への捧げ物でございますゆえ、どうぞお納め下さいませ」
「あ、はい、精霊様です」
紗良は小躍りし、男がずずっと差し出したカゴから、中身をねこそぎビニール袋に移し、代わりにビニール袋の栗の実をざざっと入れた。
「はい、交渉成立ということで」
「ありがたいことでございます!」
「えーと、また、お供えとかいうものを持ってくることはありますか?」
「はい、定期的に……」
「わあ、じゃあ、またここで」
「え、あ、はい」
ではさようなら、と紗良はほくほくしながら帰ろうとした。
「あ、迷子なんでしたっけ?」
「いえ、まさか聖域に立ち入っているとは思わなかったため、方向を見失ったのです。
御神木様が確認できましたので、帰る方向は分かります」
「じゃあ良かった。お気をつけてー」
マニュアルノートは、男の存在を感知できると言っていた。
方法は分からないが、まだ迷っていたらそれで分かるだろう。
紗良は、男と別れ、さっさと河原に帰ることにした。
すごい速さで帰って来た紗良は、お供物とやらの中身を出してみた。
贈り物を開くときみたいで楽しい。
マニュアルノートと見比べながら調べていくと、やはりひとつは小松菜らしきものだった。
それから、蝋で蓋をされた瓶。
開けてみると、ワインっぽい匂いがした。
ぶどうと、あとは小麦の穂がふたつかみばかりあった。
日本で、お神酒と生米を供えるようなものだろうか。
紗良は、小麦に興奮した。
急いで部屋に向かい、冷蔵庫から瓶詰りんごを取り出してみる。
蓋を開けると、しゅわしゅわと泡が立ち、しっかりと発酵していることが分かった。
いける。
外に取って返し、小麦の穂を錬金釜に入れ、全粒粉を生成した。
元の量が量だけに多くはないが、りんご酵母でパン種を作るくらいなら十分だろう。
部屋に戻り、密閉容器に、全粒粉を三分の一、同量のりんご酵母を注いで、蓋をした。
そのまま、部屋に放置だ。
パンだ。
パンが食べられる。
とはいえ、それはまだ少し先のこと。
期待感に胸を膨らませ、パン種も同じくらい膨らみますように、と浮かれて願った。
とりあえず、今日採って来たものの処理をする。
今日は、全部塩漬けだ。
保存瓶を煮沸消毒し、浄化の魔法で収穫物を全部きれいにする。
「もしかして煮沸消毒も浄化でいけた……?」
次回から試してみよう。
きのこを、保存瓶に塩と交互に入れていく。
瓶の口いっぱいまで詰めて、おしまい。
フキのほうは、軽く茹でてから、密閉ジッパーバックに入れ、これまた大量の塩に埋めるように入れていく。
その辺の石で重しをして、おしまい。
どちらも一年ほどもつはずだ。
紗良は、お供物に入っていたぶどうと、合わないと分かっていてコーヒーを落とすと、チェアに座る。
ウッドデッキはちょっと温かい気がする。
あ、と思いついて、部屋の中から人をダメにするクッションを持ち出してきた。
ファイヤーピットの横あたりを浄化で綺麗にしてから、それを置いて座る。
サイドテーブルには届かないが、床が平らなので問題ない。
直接カップと皿を置き、ぶどうをつまむ。
「すっぱ」
あの人は、農作物と言っていたから、これもきっと育てたものだろう。
やはり少し酸味が強い。
それでも、香りは素晴らしいし、みずみずしさもある。
採りたて、という感じ。
だとしたら、彼が住んでいる場所は、そう遠くないということだ。
紗良は、地図アプリを開いてみた。
多分、今見えている範囲が、立ち入り禁止の聖域とやらだ。
御神木の位置から、北に2kmほどの位置で途切れている。
供物を供える祭壇、というのが、このすぐ外にあるとすれば、人里までどのくらいだろう。
5kmとか?
10kmとか?
思った以上に近いが、マニュアルノートが今まで嘘をつかなかったことを考えると、他人が侵入してくる心配はいらなそうだ。
男の服装から考えると、やはり、紗良が以前予想した通り、文化科学レベルは元の世界基準でだいぶ時代をさかのぼる気がする。
ちらりとみた足元は、革を加工したもののようだった。
靴の形は成していたが、山に入るのにスニーカーではない、という微妙さだ。
いわゆる、脳内イメージ中世、といったところか。
それにしても、ジーンズにブルゾン、でかザックを背負った紗良を精霊と思い込むなんて、どうかしている。
いずれにしろ、御神木からたまたま実が落ちてきたせいで、お供え物をまるっともらえることになった。
ラッキーだ。
代わりに存分にお参りしておこう。
それにしても。
「やっぱ日本じゃないのかー」
男の見た目は、どう見ても異国の人だ。
まあ異国どころか異世界なわけだけれども、それはそれとして、自分と見た目が違う人の出現は、現実を突きつけた。
夜空が違う。
植物が違う。
知らない空と知らない植物に囲まれ、魔物に出会っても、どこか夢の中のような気持だった。
けれど、金髪のローブ姿の男は、まごうことなくリアルだった。
なにより──言葉が違った。
彼の言葉は、全く知らない言語だった。
日本語でも、少なくとも英語やフランス語でもない。
紗良にはその意味が分かったし、おまけに、紗良自身も日本語ではない言語で話していた。
魔法が使えるようになったのと同じ仕組みで、紗良の言語機能も変えられてしまっている。
身体のリセットには感じなかった、なんとはなしの不快感がある。
とはいえ、便利であることは間違いない。
これも、今までと同じように、紗良はただ受け入れる。
ここには誰もいない。
誰もいなければ、悩むことはない。
恐れも、コンプレックスも嫉妬も、およそ人の悩みというものは、人の間にしか生まれないのだなと紗良は思う。
コーヒーを飲み干して、立ち上がる。
かまどに火を入れて、置いておいた小松菜と、土から掘り出してきたさつまいもに浄化をかけておく。
へやからもろもろ持ち出してきて、その二つとベーコンをそれぞれ一口大に切った。
部屋から鍋を持ち出し、オリーブオイルをたらす。
にんにくでさつまいもとベーコンを炒め、油が回ったら少量の水と中華だしで煮込み、柔らかくなったところで小松菜と豆乳を入れた。
小松菜が食べごろになったら、溶いた味噌を入れる。
ちまちま椀に注ぐのも面倒で、でっかいどんぶりによそった。
今日はお酒はやめておこう。
ゆうべの寝落ちを反省するつもりだ。
ごはんとともにサイドテーブルに並べ、手を合わせる。
熱いスープに、さつまいもが少しだけ溶けだし、これぞコク、という味に仕上がっている。
小松菜には少しだけ、えぐみが感じられる。
「でもまあそれがお前のいいところだよ」
シャキっとした歯ごたえだけで、お前には十分価値があるからね。
ふと調理台を見ると、足元が水びたしになっている。
前々からちょっと気にはなっていた。
野菜を洗ったり、茹でたりした水は、その辺に捨てているせいで、いつも足元が濡れているのだ。
やはり、シンクが必要だ。
ちょっと難しそうだなとは思う。
とはいえ、【鍛冶】のレベルは31になり、【木工】とも遜色ない。
そう、もはや職人と言ってもいいだろう。
きっといける。
紗良は、明日はシンクを作ろうと決め、豆乳味噌スープを飲み干した。
穏やかな夜が来る。
心は凪いでいる。
寂しさもまた、人の間にしか生まれない。