16
朝の空気は、すっかり冷たくなった。
寝ぼけた頭に気合を入れてくれるような、爽やかな朝だ。
かまどに火を入れると、顔にふわりと暖かな空気が触れる。
木の匂い。
すっかり慣れたその匂いのなか、鍋に水をはり、出汁をとっておく。
玉ねぎと大根、豆腐、面倒なので油抜きなしの油揚げ、最後に卵を落として半熟を見極め、その鍋に投入する。
具だくさん味噌汁の出来上がり。
「うま……」
毎日ろくでもない食生活だなという自覚はあるが、全てこの味噌汁で帳消しの気分だ。
もちろん実際はそんなことはないわけで、健康体なのはリセット機能のおかげでしかないのだけれど、それはそれだ。
卵を最後まで残し、そこにご飯を投入して食べる。
お行儀が悪くて、他人がいたら絶対できないけれど、世間の結婚している人は一生これを我慢するのだろうか。
結婚したら他人じゃないからいいのかもしれない。
しっかり火の通った白身は味噌味を吸い、中の半熟の黄身がご飯に絡む。
「ごちそうさまでした」
食器と鍋を洗い、今日もジーンズとしゃかしゃかブルゾンに着替えた。
ザックの中にビニール袋をこれでもかと入れ、遭難セットとともに、探索に出発だ。
すっかりきのこ採りの魅力にとりつかれてしまった。
夢で地面一杯のきのこの世界を楽しんだくらいだ。
山菜採りにはまるお年寄りの気持ちが分かってしまう。
とはいえ、遭難の危険が高いことも、身を以て知った。
次の獲物だけ見て移動するからだ。
紗良はスマホをしっかり携帯し、マニュアルノートをおなかに挟むと、目印であるあの大木を目指すことにした。
「あっ、きのこ!」
鼻息が荒くなるほど、テンションがあがる。
中には毒きのこや、幻覚を見せるきのこといった馴染みの種類もあったし、皮膚が変色するとか変身するとか、異世界ならではの種類もあった。
安全なものだけ採っていくと、それほどの量ではない。
「あっ、……フキ?」
故郷の地方に生えているような、どでかい種類のフキがあった。
厳密には葉の形が違うような気がしたが、食材になった姿しか実際には見たことがないので、あまり分からない。
なんにせよ食べられるようなので、根元から切り倒し、30cmずつに切断してもちかえることにした。
切り口から水が滴り、とても新鮮な匂いがする。
そうやって歩いていると、やがて、あの大きな木の根元にたどり着いた。
さつまいもをまた10本ばかり掘る。
さて、引き返そうか。
そう考え、帰路につこうと振り返った時だ。
人間と目が合った。
紗良は立ちすくむ。
人間だということを認識するのに、とてつもない時間がかかった。
その間に、目だけは相手をじっくり観察することになる。
20代半ばくらいの男の人だ。
髪は金髪で、目の色はよく見えないが、黒くはなさそうだった。
着ているのは、壮大な親子喧嘩をする宇宙映画の登場人物が着るような、丈夫そうな生成り色のローブだ。
コーホー。
驚いて動けないのは、どうやら向こうもらしい。
紗良はまた、無意識に半歩後ずさった。
何度経験してもこの失敗は直らない。
こちらが不用意に動けば、あちらも刺激されて動く。
分かっているのに、退路を断たれる位置で立ち尽くす男が恐ろしく、無意識にさがってしまったのだ。
「お待ちください!」
身をひるがえそうとした紗良に、大声で男が叫ぶ。
焦ったような、困ったような声のあと、彼は、さっと跪いた。
もちろん紗良は、油断しない。
さすがに森で蛇に襲われた経験は、身体も心も覚えているからだ。
攻撃はあっという間。
紗良は、黙ってまた一歩、下がった。
「お待ちください、怪しいものではございません、私は近隣の平民でございます!」
ヘーミン。
すぐにはその意味が頭に入ってこない。
男は、黙っている紗良に、なおも言葉を重ねてくる。
「見慣れぬ道に入り込んでしまい、難儀しております。
もしよろしければ、ここがどこなのか……」
そう言いながら顔を上げると、男は急に言葉を止めた。
そして、ぽかんと口を開け、どこかを見ている。
視線を何気なくたどると、どうやら、紗良の後ろの大木を見ているようだった。
「なんということ……これは御神木様……」
男はそう言うと、そのまま黙り込んでしまった。
どうしよう。
紗良は、そっと、自分に安全地帯がかかっていることを確認してから、今度はちょっとだけ前に出た。
男は魔法が発動するエリアのちょっと外にいたからだ。
50cmばかり前進すると、男の身体がすっぽりと安全地帯に入り込むが、なんの変化もないようだ。
とりあえず、敵意はない。
多分。
「あのー」
「あっ、はい!」
男は、目が覚めたようにぴくりと動く。
「何か御用ですか?」
「……ええと。その。はい、いえ。
……ええと。お嬢様は、どちらの御方でいらっしゃいますか?」
「どちら? うーん、そ、その辺に住んでいます」
「こちらへは、よく?」
「そういうわけでは……」
男は、何かを考え込んでいる。
紗良は、ふと、彼の背中のカゴに目がとまった。
「あっ」
「えっ」
「あの、それ、小松菜ですよね?」
「え?」
しまった、小松菜ではなさそうだ。
けれど、見知らぬ男の前でマニュアルノートを開いて、こちらの世界での名前を確認するわけにもいかない。
紗良は、猛烈に困ったが、同時に、猛烈に期待もした。
「そのカゴの中の野菜ですけど、どこかで採ったものですか? この森ですか?」
男は、困惑したように首を振った。
「とんでもありません。この森は、教皇庁の定める聖域です。
神おろしの確認された数少ない場所で、植物の採取どころか、立ち入りが禁止されている場所でございます」
なんだって?
びっくりするとともに、今まで一度も人間の気配を感じなかった理由に、なんとなく納得もした。
入ってはいけない場所なのだから、誰も入り込むはずがない。
「いやでも、あなた、いるじゃないですか」
「そうですね……私も驚いております。
本来、教皇庁からの命で、領主様が結界石を張っておりまして、仮に入り込もうとしても入れないはずなのですが」
結界石ってなんですか、と尋ねる場面ではなさそうだ。
「私はただ、結界の外にある祭壇に、お供え物をお持ちしただけなのです。
この野菜などは、地元でとれた農作物でございます。
結界が不具合なのか、なんなのか……とりあえず領主様にご報告しないと」
「えっ、困る」
「えっ、いや、しかし、もし不具合なのであれば、こうしてまた間違って聖域に踏み込んでしまう者がでてきてしまいます。
お嬢様もお困りでしょう。
国の定めた法を、知らず犯してしまうということです。
許されることではありません」
そう言われると、そうだよね、という気持ちになる。
法治国家で暮らしてきた紗良にとって、犯罪は隠せば隠すほど罪が膨れ上がる、という事実が刷り込まれていた。
この場所と紗良について、報告されてしまうことは避けられないらしい。
困ったなぁ、と思っていると、お腹のあたりで何かが動いた。
マニュアルノートだ。
開いても大丈夫、という合図だろうか。
紗良は、一応そっと後ろを向いて、ノートを出してみた。
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<結界の存在>
この森は、人間の張った結界で守られています。
現在、魔物がそのうちの一つを破壊したため、一時的に機能を失っているようです。
事態に対処するため、神木の力を使い、こちらで改めて強力な結界を張り直しました。
以後、何人ものこの森に立ち入ることはありません。
ただし、現時点で結界内にいる人間は、その対象からはずれ、出入り可能となります。
こちらで感知することは可能です。
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ふむ、つまり、紗良の存在がばれたとしても、もう誰も入って来られないから大丈夫だよ、ということか。
ただし、目の前の男を除く。
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<森の恵み>
この森の恵みは、生き物に良い癒しの効果をもたらします。
特に、神木様の実は、生命の活性化を促します。
美味しくいただきましょう。
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さっと目を通した紗良は、お腹にマニュアルノートをしまい、男に向き直る。
「あのー」
言いかけた紗良の頭に、コツン、と何かが落ちてきた。
思わず見上げると、額にまた一つ、綺麗に音を立てて決まる。
「いでっ」
コツン、コツン。
「いてっ、いてっ」
慌てて俯いた紗良の上に、ザザザザッと音を立てて、栗の実が落ちてきた。
今日はまだ、お参りしてないのに。