11
固まる紗良に対して、獣はやけに落ち着いた様子だった。
腹を地面につけた座り方で、ゆっくりとしっぽが揺れている。
これは機嫌がいいのか、悪いのか、猫を飼ったことがない紗良には分からない。
そもそも猫科でいいのだろうか。
無意識に後ずさってしまい、悪手だと思い直す。
蛇の時にした間違いを、あっさり繰り返す自分に舌打ちしたくなった。
しかし、獣はこれみよがしにあくびをしている。
くわぁっ、と開いた口は、鋭い牙と真っ赤な舌がのぞき、眩暈がするほど恐ろしい。
埒が明かないとでも思ったのか、獣がぐっと伸びをしながら立ち上がった。
でかい。
怖い。
のけぞる紗良の前で、獣は少しだけ離れた位置に移動し、またのっそりと座った。
分からない。
何がしたいのだ、こいつは。
ひどくゆったりした動作ではあるが、獣の目は、じっと紗良を見つめている。
ぺろりと口の周りを舐めている。
とりあえず、紗良はそろそろと部屋に戻り、素早くドアを閉めてからマニュアルノートを開いた。
**********************************
<生き物との共存・敵対 1>
基本的な考え方は、元の世界と変わりありません。
野生動物との共生は難しく、特に肉食の動物はみな敵と考えておきましょう。
草食動物を愛玩することは種類によって可能ですが、この世界の生き物は部屋に入れられないため、外飼いとなります。
あなたにとって危険な動物がいると同時に、あなたもまた、彼らにとって危険な存在です。
あなたはいずれ、狩りをするでしょう。
恐れ、かつ恐れられる、それが生き物との生活です。
*新しい魔法を覚えよう!
手のひらを空に向け 安全地帯
*近隣の動物の種類はこれ!
**********************************
つまり、あいつは敵。
何ページも使って描いてある動物の絵は、とりあえずおいておく。
それより、呪文の方だ。
これは以前に紗良が聞いた時、レベル不足で教えてもらえなかった、獣除けの魔法だろう。
さっと外に出る。
「安全地帯!」
獣に向かって叫ぶ。
手のひらから、獣を含めて、紗良の周囲半径7,8mの範囲が一瞬ドーム状に光る。
そして獣からは、くああ、とあくびが返って来た。
「なによこれ! 効いてないじゃん!」
しかし、今までノートが嘘をついたことはない。
もう一度ノートを開いてみる。
確かに、獣除けとは書いていない。
楽園を意味する安全地帯という呪文はつまり、紗良にとって危険ではないエリアを創り出す、ということだろうか。
だとすれば、この獣は、紗良にとって危険ではない、となる。
まあ確かに、敵意がある様子ではない。
待つことに飽きたのか、前脚を伸ばして、そこにぺったりとあごをのせて寝そべっている。
まじでなんなんだこいつは。
開きっぱなしだったノートに、新たに文章が浮かび上がって来た。
**********************************
<生き物との共存・敵対 2>
野生の生き物という点において、元の世界との違いは、魔物の存在が大きいと言えるでしょう。
とはいえ、共生という点では野生動物とほぼ変わりありません。
魔物は攻撃力の高い肉食動物だと思いましょう。
魔物は野生動物とは違い、人間の食べるものはなんでも食べられる雑食です。
食料保存には十分注意しましょう。
*近隣の魔物はこれ!
**********************************
これ! じゃないんだよ。
魔物がいるのか、この世界に。
魔法があるから不思議ではないが、にわかには信じがたい。
紗良のイメージする、魔物が跋扈する世界とは、剣と魔法の世界だ。
確かに魔法はあった。
では、剣を持って戦うような世界でもある、ということだろうか。
そういえば、ジョブスキルらしきところには、【戦士】があった。
スマホを開いてみる。
【魔法使い】【賢者】【戦士】の他に、【召喚士】【弓術士】【暗殺者】と、いくつか並んでいる。
最初の三つ以外は、レベルがゼロだ。
「ガンナーとかない……機械系もない」
もしかして、紗良のいた時代より、ずっと遡った年代なのだろうか。
だとしたら、部屋ごと異世界転移したことがいかに僥倖だったことだろう。
もし部屋がなかったらと思うと、震えがくる。
いよいよもって、ここから離れる気が失せた。
やっぱり、ここで生きていこう。
決意を新たにしたところで、お腹が空いてきた。
昨日の昼頃に意識を失ってそれきりだし、魔力が枯渇したという点でも、何か食べたほうがいいだろう。
部屋に戻ると、炊けたご飯とフライパン、その他もろもろを持って再び外に出る。
すると、獣がすっと立ち上がった。
こいつのこと忘れてた。
それの目は、紗良の抱えているものに釘付けのようだ。
そうか、と合点がいった。
前回この獣は、紗良のホットサンドを半分食べて行った。
あれだ。
自然界にはない濃い味付けが、すっかり気に入ったのだろう。
「餌付けしてしまった……」
元の世界なら、炎上しているところだ。
野生動物を餌付けして生活圏に呼び込むなんて、あってはならないことだ。
ただ、ここには紗良以外誰もいない。
それに、魔法によって、敵意がないことも分かっている。
なにより、こいつは何か食べないと帰りそうもない。
紗良は仕方なく、かまどに火を入れ、フライパンをかけた。
サラダ油をたっぷりめに入れておく。
ねぎを細く斜めに刻み、ベーコンも細めに切った。
フライパンがしっかり熱くなったところに、ベーコンを入れる。
内釜ごと持って来たごはんに、卵を2個、直接割り入れてさっくり混ぜ、そのままフライパンに流し込んだ。
最初はあまり動かさず、火に近い部分が固くなり始めたら、底からこそげるように返していく。
全体がぱらぱらになりはじめたら、ねぎを入れる。
頃合いをみて、顆粒の中華だし、塩コショウと、ごま油を追加して、あおるように炒めたら、出来上がり。
木べらでそのまま、半分をどんぶりに盛り、紅しょうがを添えた。
少し迷って、残りの半分を、三個分のおにぎりにする。
「あっち、くっそ、あっつ……!」
ママが聞いていたら怒られるなと思いながら悪態をつき、必死で握ると、石のテーブルに載せた。
その手の甲に鼻息がかかるくらいの速さで、獣がやって来た。
何も言わないうちに、一つ目のおにぎりが牙の奥に消えた。
あ、ばかだな、と思ったが、止める間もなかったのだから仕方ない。
獣は、熱さに唸りだした。
ホットサンドで学習しなかったのだろうか。
そうは思ったが、ほんの数十センチの位置にいる重量感が怖くて、何も言わずにそっと離れた。
川で手を洗ってきてから、チェアに浅く座って、ねぎたまごチャーハンを食べ始めると、獣はすぐに二個目をぱくりと食べている。
続けて三個目。
あっという間にテーブルを空にすると、獣は、じっと紗良の手元を見た。
誰がやるか。
紗良が抱え込むように食べ始めると、不満そうにしっぽを揺らす。
それでも何も出てこないと分かったらしく、獣は、川へ向かった。
浅瀬で水を飲み、それから、悠々と山へと消えて行ってしまった。
紗良はほっとして、残りのチャーハンをかきこんだ。
さて、今日やらなければいけないのは、昨日の後始末だ。
意識を失ってしまったせいで、ハーブの採取場所に、全てを置いてきてしまっている。
最低限、ザックだけでも取りに行かなければ。
スマホはジーンズのポケットに、マニュアルノートはお腹に挟んでいたせいで、一緒に帰ってこられた。
マップ頼りで移動しているので、これは本当に良かったと思う。
三度目になれば、見覚えがあるな、という場所も増えてくる。
ずっとスマホ頼りも不味い気がして、一応、周りを見ながら進み、予定の場所にたどり着く。
靴の紙箱が四つ、そして土をぱんぱんに詰めた45Lゴミ袋が5つ、ちゃんと残っていた。
少し離れたところに、ザックも発見して、胸をなでおろす。
これがなければあとは、トートやショルダーバッグしかない。
失くしたら困るところだった。
全部まとめて、魔法で運ぶことにする。
箱の中のハーブは少ししおれていたが、コンテナに植えて様子を見るしかない。
根付いてくれるといいな、と思いながら、ザックをよいしょと背負った。
近くの食べられる植物とか、増えてないだろうか。
紗良はマニュアルノートを開いてみたが、最後のページは、近隣の魔物の絵が載っていて、どうやら新しい教えはないらしい。
「……ん?」
ふと、その絵の一つに目が留まる。
少し毛足の長い、黒ヒョウのような生き物が描いてある。
あらやだ、どこかで見たことがあるわね。