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結局、あんバターサンドを堪能した後、コーヒーを飲んでのんびりしてしまったため、ハーブ採取は翌日となった。
前回は北へ向かってからぐるりと三角形で移動したが、今回は真っ直ぐ採取場所へ向かう。
行って帰って、作業を含めても一時間といったところだろう。
それでも、ザックに遭難セットは入れて行くことにする。
分け入った森の中は、河原よりもだいぶ涼しい。
低木が多いが、それでも影になる場所は多いものだ。
しばらく進むと、記憶通りの場所にハーブが群生している。
まずは表面を根っこごと掘り、みんな大好きスーパーのビニール袋に入れる。
それをさらに、靴が入っていた箱に入れる。
四つほどになったが、これで積み重ねても潰れることはない。
さらに、今日は45Lのゴミ袋も持って来た。
掘り起こしたハーブの下、現れた土をごっそり持って帰るつもりだ。
【魔法使い】のレベルは32に達し、複数の荷物を20分程度運ぶことも可能になっている。
一度持って帰ってみて、足りなければまた来よう。
今日のところは、ゴミ袋5つ分にしておく。
あまり大穴を空けても良くないかもしれないので、左右に範囲を広げて掘っていく。
カサ、と草むらが鳴った。
紗良は動きを止める。
予想はしていた。
横目で見ると、案の定、見たことのある蛇がいた。
喉の赤さが、自分の足から流れた血を思い出させる。
今日はやる、と、決めていた。
森からの恵みで生きていかなければならない以上、今までの感覚では生きられない。
忘れられない足の痛みが、それを後押しした。
蛇と見つめ合う。
憎いわけではないけれど。
紗良は、指を三回振った。
そして呪文を唱えようとした。
だが、切断の一言が言葉になる前に、横から突然、大きな黒い塊が飛び出し、紗良の目の前に着地した。
そして喉から飛び出したのは、呪文ではなく、盛大な悲鳴だった。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁ!」
目の前にいたのは、黒いヒョウに似たあの生き物。
紗良のホットサンドを食べて行った獣だ。
大きい。
重量感が圧倒的で、心臓が縮み上がる。
その獣は、紗良の悲鳴に反応するように、耳をぺたりと後ろに倒した。
最悪なことに、反射的なその大声は、蛇も刺激した。
声がやんだ瞬間、その長いからだが躍り上がるように紗良に向かって跳躍する。
噛まれる、と、身体を固くした。
身構える紗良は、とっさに魔法で対抗することも出来ず、目を閉じてしまう。
風を感じた。
なのに、痛みはいつまでも襲ってこない。
そっと目を開けると、なぜか、蛇はまっぷたつにちょん切れて転がっていた。
うごめくしっぽの横にいたのは、黒い獣だ。
こいつが蛇を爪で切り裂いたようだった。
混乱する紗良の目の前で、不意に、獣が吠えた。
苦し気な声とともに、その大きな体がどうと倒れる。
足元に、もう一匹の喉の赤い蛇。
そうだ、この蛇は、二匹で現れる。
ペアなのかもしれない。
片方がやられたのを見て、反撃したのだろうか。
分からない。
けれど、紗良は、今度こそ迷わなかった。
「切断!」
二匹目の蛇は、獣に噛みついていた頭を残して、飛んで行った。
やがて、残った頭もぽろりと落ちる。
枝でそいつを突つき、完全に動かないのを確認してから、遠くに押しやる。
獣は、太く低い声で唸りながら、倒れたままだ。
相打ち、という言葉が浮かぶ。
紗良にとっては、二つの脅威が一気に片付いてくれたことになる。
獣は目を閉じてしまった。
ふさふさした毛で見えないが、おそらく、噛まれたところから皮膚が毒に浸食されているのだろう。
目の前で、獣はみるみる息が浅くなっていく。
「え……解毒!」
気づけば、そう叫んでいた。
獣の唸り声が止む。
しかしそれは、弱ったものの体力が尽きたかに見える。
目は開かないし、もはや息遣いもほとんど聞こえない。
「あ、あ、癒し! 癒し!」
仄かに獣の身体が光る。
それでも、目は閉じたままだ。
紗良は震える手で、マニュアルを取り出した。
おぼつかない指先は何度も滑り、ページをめくり損ねた。
なんとか開いた最新のページに、新しい記述がある。
*********************************
<魔力残量を意識しよう>
日常生活を送る分には全く問題のない魔力量ですが、大きな魔法を行使する時は、残量を意識しましょう。
魔力量がゼロになると、意識レベルが低くなってしまいます。
安全地帯でなければ身の危険があります。
*アプリにステータスを追加しました!
*注意するべき大魔法
右の拳と左の掌を合わせて 完全なる癒し
**********************************
今日使った魔法はどのくらいだ?
残量に対しての割合は?
全く分からない。
けれど、アプリを開いてステータスを確認するような暇はないのだと、本能が告げていた。
だから紗良は、握った右手を祈るように左手で包み、叫んだ。
「完全なる癒し!」
そのとたん、今までの仄かな光とは明らかに違う、眩しいような発光が目を焼いた。
思わず目を閉じる。
「あ、これは……やばい……」
閉じた瞼の暗闇が、とても心地よかった。
目が開けられないくらいだ。
開けなくちゃ。
そう思いながら、紗良はゆっくりと意識を落とした。
どのくらい気絶していたのだろう。
身体をゆっくり揺さぶられるような感覚とともに、耳が音を拾い始める。
最初に聞こえたのは、鼻息だ。
次に、足音。
草地を行く、何か重いのに軽やかな足音だ。
また眠りそうになるが、懸命に振り切って目を開ける。
うっすらぼやける視界は、身体の感覚通りに上下していた。
そして、首のあたりがやけに苦しい。
これは……何が起こっているのか分からない。
やがて、草の丈が短くなっていき、耳は聞きなれた音を拾い始める。
川だ。
せせらぎの音が、涙が出るほど懐かしく聞こえる。
そのあたりで、急に首が解放された。
同時に、ゴスッと地面に放り出された感覚があり、一気に目が覚めた。
「い、痛い……」
意識はあるが、身体は思うように動かない。
それでも、視界の端にあるのは、今では命綱といってもいい、我が部屋のドア。
紗良は、残った力を振り絞るように、這いずってドアに近づき、上半身だけ伸ばしてなんとかノブを掴むと、玄関に転がり込んだ。
ああ、生きている。
そして、そのまま、また眠り込んだ。
いててててて、と起き上がる。
玄関のたたきで目が覚める率、高すぎないか。
固いコンクリが単純に痛い。
それでも、体調はどうやら問題がないようだった。
頭が回らなかった昨日に比べ、思考もはっきりしている。
獣にくわえられて、ここまで帰って来た。
それしか考えられない。
気まぐれだろうか。
それとも、紗良が命を助けたことを理解しているのか。
とはいえ、紗良もまた、この獣に助けられている。
いやあれはさすがに、迫って来た蛇をとっさに叩き落としただけだろうけれど。
結果的に噛まれずに済んだのは確かだ。
今はっきりしているのは、紗良は生きているということ。
獣は紗良を殺さず、食べず、そしてここへ運んできてくれた。
次に会った時、向こうはどう出るだろう。
攻撃して来た時、対抗できるだろうか。
複雑な気持ちのまま、シャワーを浴び、少し気分転換をしようと外に出ることにした。
ドアを開く。
っていうか、昨日、出かけるとき鍵かけ忘れたな。
目を上げると、黒い獣が座っていた。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁ!」
紗良の悲鳴に、そいつは、耳をぺたりと倒してひげを震わせた。