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木切れからスプーンを削り出すのは、難しい。
その辺の雑貨屋で500円で売っているような、先が分厚くて何も掬えなそうなものでさえ、全く再現できなかった。
フォークなどもってのほか。
だから、紗良が作っているのは、箸だ。
少し太めの枝から削り出していく。
これで、スプーンにもフォークにもなる。
箸文化の勝利だ。
「でこぼこだな」
たかが箸、と思っていたのに、表面を真っ直ぐにするだけのことが難しい。
すでに枝が何本か無駄になった。
今度こそ、と挑戦した何本目かが、満足できるくらいの出来になった時、軽快なファンファーレが鳴った。
箸と小刀を置いて、スマホを取り出す。
【木工】のレベルが、1になっていた。
他には、【鍛冶】【料理】などがあり、いずれもレベルは0。
「なるほど?」
何も分かっていないくせに、とりあえず呟き、新しい枝と小刀を手にする。
枝を握った手元に刃を当て、押し出すように動かすと、するんと木の皮がむけた。
さっきまでとは手ごたえが違う。
「これがレベルアップ……」
紗良は呟く。
「……地味だ」
紗良がいる場所は、川べりの平地である。
下流らしき幅広の、しかし浅い川の水流でえぐれたのだろう石ころだらけの場所だが、すぐ脇には、柔らかな草地が広がっている。
その草地の真ん中に、ドアがある。
家ではない。
小屋でもない。
ドアがある。
見慣れたそのドアは、紗良の住んでいるアパートのものだ。
色も形も素材も、寸分たがわない。
表札はもともと出していないが、大学に入って以来二年間、ほぼ毎日出入りしてたドアは、あからさまに馴染みがある。
ある朝のことだ。
すでに暑くなる予感があり、半袖に軽い素材のマキシスカートで、大学へ行くために外に出た。
川だった。
「へぁ?」
きっと誰もがそうするだろうけれど、紗良も、一度ドアを閉めた。
部屋を見回して、ここがどこか連れ去られた見知らぬ小屋などではなく、狭いながらに住み慣れてきた自分の部屋だと確認する。
それから、そっとドアを開けた。
川だった。
「なん、なん、なななななな、なん?」
閉めて開けてを三回繰り返した後、仕方なく外に出て見た。
見回してもやはり見覚えのない場所だ。
おどおどしながらあちこち見ていると、自分がいる草地と、川の間に、何かが落ちているようだった。
自然ばかりの中にあって、あからさまに目を引く人工物。
紗良はつい、それに向かって足を進めた。
その途端、背後でバタンと音がする。
「あっ!」
慌てて振り返ったが、ドアはあった。
ドアは。
それ以外はなにもない。
自然の中に、ただドアだけがある。
よく分からない恐怖にかられて、急いでドアを開けたが、恐怖に釣り合わないほどあっさりとドアは開いた。
「も、戻れないかと思った……」
いや戻ったところで、出ればまたここな気がするけど。
それでも、この部屋以外、安心できる要素はない。
紗良は慎重に、玄関にあった傘立てを挟んで、ドアが完全に閉まらないようにしたあと、ささっと川べりに近づいた。
落ちていたのは、ノートだった。
中身を確認するより先に、また急いでドアまで戻る。
玄関に入ってから、ようやく手の中のものをじっくり見た。
「異世界マニュアル……?」
表紙には日本語が書いてあった。
日本語なのに、意味が分からない。
ページを開くと、まるで絵本のように、大きな文字が並んでいた。
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『ようこそ異世界へ!
あなたの部屋は、異世界へ移築されました。
どうぞ、楽しい暮らしを!
<はじめての異世界>
ここでは、基本の説明をいたします。
まずは世界に慣れましょう!
大陸の名前はオラストア、その南端にある国ドルマン、首都から最も離れたウォルハン地方の森の中の一角がここです。
あなたは、ここで暮らすも良し、街を目指すも良し、旅をするのも良し、何をするのも自由です。
とはいえ、まずはスキルを上げましょう!
あなたのスマホに、ステータスアプリを入れておきました。
現在、全てのレベルが0。
最低限、10までは上げてから森を抜けるのが安全でしょう。
もちろんそれもこれも自由なので、レベルを上げずにずっとここで暮らしてもOK!
その場合、あなたはあなたの部屋のものを利用して生活することになります。
現存するものは、持ち出して消費されても24時間で再生します。
ただし新しいものは現れません。
もし部屋にないものが欲しい場合、錬金術をお勧めします!
それでは、楽しい異世界ライフを!』
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日本語だった。
なのに相変わらず、意味が分からない。
次のページをめくってみたが、あとは空白が続くだけ。
紗良は何をどう考えていいのか分からなくなり、とりあえず言われた通りにスマホを出してみた。
確かに、知らないアプリが増えていた。
開いてみると、【ステータス】の一覧が出る。
全部0。
紗良は、立ち上がって、挟んでいた傘立てをどけて、ドアを閉めた。
開けた。
川だ。
閉めた。
開けた。
川だ。
ステータスアプリを閉じて、メッセージアプリを開く。
片っ端から助けてのメッセージを送るが、既読はひとつもつかなかった。
友達は多くもないが、少なくもない。
全員が無視というのはさすがにありえないのだが、よく見ると、右上に「圏外」の文字があった。
「オワタ」
あれから一週間が経つ。
最初の三日は、なんとかならないものかとあがいた。
ドアの開け閉めはメーカーの耐久試験並みの回数になったし、寝て起きたら目が覚めるかもしれないと意味なく昼寝をした。
窓は開かない。
そもそも、見える景色は、いつもの隣のアパートの壁ではなく、真っ白な空間だけだ。
仮令開いたとしても、怖くて出られる気がしない。
むしろ開かなくて良かったとさえ思えるほど、それは無の気配だった。
四日目に、初日に泣きながら開けて食べたはずの食パンが、未開封の状態であることに背筋がぞくりとした。
もっと色んな食材を使っていたら早くに気づいただろうが、ここから抜け出そうとするばかりで、ろくに食べていなかった。
あ、ほんとに、駄目かも。
初めて思った。
そして、紗良は──二日間、寝込んだ。
七日目に起き上がり、今朝。
教育実習で買わされた小刀と、ゼミ行事で使うからと買わされたキャンプ用チェアを河原に持ち出し、スプーンを作ろうとし、挫折して、箸を作る。