虚影㉑
男は汗だくになりながら街灯が照らす夜の住宅街を走っていた。
半袖のワイシャツとネクタイに、ストレッチタイプのパンツを履いた格好はサラリーマンそのものである。
しかしいつもならピッチリと着込まれたスーツ姿も汗で湿っている。
「……!はぁ、………はぁ!!」
背中に張り付く、重く濁った圧力が男を捉えて離さない。蜘蛛の巣に捉えられた虫が逃れようともがいているかのようだ。
息は絶え絶えで、肺は張り裂けそうな程に膨張して胸を圧迫する。
普段運動をしないツケが男を襲う。
革靴で走った影響か、気づけは足の至る所が擦れて血が滲んでいた。
しかしそれ以上に恐ろしいモノが背後から迫ってきているのだ。
足を止めてしまえばその時点で命が絶える。そんな気がしてならない。だから走る。
走って走って、ついに男はあることに気づいた。
「な、なん……!なんで着かねえ……!なんでだよぉおおお!」
肺の中の酸素を全て出し切るような咆哮。
それに気付いた瞬間に男は足を止めた。
死の覚悟はない。あるわけがない。
しかし体力的にも、精神的にも、なによりも状況的に逃げることができない。
倒れ込んだ男の目の前には、鞄があった。
結婚二十年の記念日に妻からもらった大切な鞄だ。
中には会社の資料や子供たちの写真が入っている。
容姿が優れず、あまり女性経験にいい思いの無かった学生時代の男を唯一平等に見てくれた女性。
それが男の今の妻であり、どれだけ時を重ねても愛は変わらない。
むしろ子供が産まれたこともあり増すばかりだった。
今日は丁度結婚記念日。
二十三年と中途半端だが、それでも妻を喜ばせようと小さな押し花の栞を会社でこっそりと作った。
そんな思い出が詰まった鞄が目の前にある。
あまりの死の恐怖から放り出してしまった鞄。
真っすぐ同じ道を走って、倒れ込んで、目の前にある。
「なんでなんでなんでなんで!!」
ループしている。どれだけ走っても景色は一向に変わらない。よく見れば道の先にも街灯はあるはずなのに、闇の向こう側の街灯はアスファルトを照らしていない。
ぞわ、と背筋に普段なら在り得ない程の汗が噴き出た。股からはジョワジョワと小便を流した。声にならない涙が溢れた。
来る、来るぞ、アレが来るぞ。と全身が男に警鐘を鳴らしている。
逃げろという気持ちが先行するが、既に腰が抜けてまともに立ち上がることすら不可能になった。
確実に後ろにいるのに振り返れない。
コオオオ、コオオオと冷凍庫から冷気が漏れるような冷たい息の音が聴こえてくる。
這い這いになりながらも鞄を手に取り、中から写真を取り出して、涙で滲む視界で見つめる。
クソみたいな人生は、途中で跳ね上がって最高潮になった。
そんな最高潮の中では上司のパワハラも耐えらえた。幸せ度合いは俺の方が上だと精神的に余裕が出来た。そのお陰で出世も出来た。
人生の幸福をもたらしてくれたのは妻であり子供たちである。
その最高潮は今日で終わる。あと何秒か、何分後かに終わってしまう。
「死にたくねえなあ……」
ジュクジュクと視界の端に黒い影が差す。
やがて恐怖は心を蝕んで、意識が途絶える。
その狭間に見たのは、光だった。
★
「こちら第二部隊、生存者発見。ついでに悪霊をぶっ殺したが、まさかこれが『虚影』な訳ねえよなあ、んん?」
「残念ながらそれはあくまで眷属みたいなもんだね。はい、次行った」
「人使い荒いねえ、今回の指揮官サマってのは……。
おい、新美と岩城。どうやらこっちはハズレらしいから三と四に連絡しといてくれ。斎藤は俺と前後の警戒な」
斎藤と呼ばれた眼鏡をかけた目の下に小さな傷を持つ女が、インカムにて報告と各員への指示出しをしていた男に背を預けながら問うた。
「隊長、その男性はどうするんですか」
「後で回収してもらう。早めに助けたとはいえ、流石に悪霊の領域に居すぎてるからな」
「最悪、生環者になる可能性もありますね」
斎藤は自前の武器である槍をギリッと握りしめた。
眼鏡の奥にある瞳は黒く深い怒りの炎が渦巻いているようにも見えた。
そんな様子を背中で感じた男……厚木が振り返って斎藤の頭に手を置く。そのままグリグリと撫でつけ、背中をバシンと叩いた。
「な、何するんですか……!」
「最悪を想定するのは大切だがな、それだけじゃ未来は明るくないぜ。今はこのオッサンの無事を祈りたいところだろ」
それだけ言い厚木はインカムに手を当てて救助要請を出し始めた。
インカムの向こう側には阿座上が待機しているが、一人では何人もの応答を行うことは不可能なためVeLSの自我とも言える存在である『リリス』が処理をしていた。
リリスが厚木の要請に応じると、その場で三分弱待機していれば救助専用の特殊班が到着することとなった。
リリスはAIとは思えない程に感情を露わにしており、まるで本物の命が宿っているかのうようである。
それは今しがた会話をした厚木以外も心の内に思っていることであろう。
「後三分このまま待機だ。オッサンを救助班に預けたら再度、俺達は西に向けて索敵範囲を広げる」
「「了解」」
斎藤と新美が各々警戒をしながら命令に応じる。
第二部隊は、第一部隊の『鉄壁を活かして着実に索敵する』コンセプトとは別ベクトルの索敵舞台で、『広範囲を高スピードで索敵する』を得意とする。
故にあまり戦闘には向いていないのだが、隊長に任命された厚木は違う。
何度も大規模作戦に参加しているベテランであり、状況で的確な判断を下せる人材だ。
参照できるレベルの違いはあれど、各霊能総の支部にて戦績等の実績を各個人ごとに見ることができる。事前情報として厚木の実力を知っていたからこそ、当日になって発表された部隊割りでもすんなりと指示に従うことができた。
命も厚木の名前は聞いたことがある。
神奈川支部は東京と近いこともあり、支部にある端末以外からもよく話を聞くことが多いのだ。
曰く、Cランク相当の悪霊から肝試しに来ていた大学生グループを単身で全員助け、説教の後無事に家に帰したとか。
曰く、腹に穴が開くほどの怪我を負っても殿を全うし、その上生還したとか。
命が聞いた話の中には明らかに嘘であるような内容もあったが、火のない所に煙は立たぬと云う。そのような嘘でも流れるようなレベルの名を聞く人物なのだ。
有体に言えば『お父さん』的存在で、背中を預けていれば安心する、誰もがそう思っている。
厚木は仲間想いであり、ほとんどすべてのリソースを自分よりも相手に振る。
だからこそ、この圧倒的恐怖感が渦巻く戦場でも周囲に気を配り自分のことは二の次に考える。
故に気づく、仲間の失踪に。
「……岩城はどうした」
「……?誰ですか?」
認識が狂う。
★
「……!みなさん、止まってください」
インカムから音が流れたことを確認した命が、歩みを進める第三部隊に声を上げた。
片耳を抑える様子を見た第三部隊の総員は部隊としてではな、く命本人に通信が来ていることを察し何も聞かずに立ち止まり命の様子を窺った。
現在、第三舞台が探索しているのは住宅街から少し離れた畑が多く並んでいる場所ではあるが、少ないながらも出現報告が挙がっている場所ではある。
夏の虫が騒ぎ始めている頃であり、周囲への危機感は若干薄れていた。多少でも聞きなれた大合唱が聴こえている方が無音よりもはるかにマシであるからだ。
「(命さん?急にどうしました?)」
他の霊能者と相対したくないと、ギリギリ脳内での会話が出来る範囲に留まる白菊から頭の中に問いかけがあった。
「(阿座上さんから僕宛への連絡だ。リリスを通してないってことは、緊急度が高いのかも)」
インカムを付けている方の右耳を抑え、通信の声に集中する。虫の大合唱も中々に影響して聞こえづらい。
「聞こえるか雪代命。全体報告の前に君に意見を求めたくてね」
「はい、聞こえてます阿座上さん。聞きたい事とは?」
「岩城……という人物に聞き覚えは?」
唐突に出された名前だったが、つい数時間前まで同じ部屋で同じ作戦内容を聞いていた人間だ。
配布された部隊分けの資料上にも見覚えがあった。しかし、顔までは覚えていなかったが聞き覚え自体はあったため正直に答えることにした。
「えっと、第三部隊の人ですよね。正直、顔までは出てこないんですけど……」
「そうか……。俺はな、岩城という人間を知らない。どころか、第二部隊では隊長以外は四人部隊であるということすら頭から抜け落ちていたようだ」
「……ん?」
命からすれば、信じられないような話だ。
阿座上囲、鋭い目尻と泣きホクロが特徴のイケメンで、霊能総屈指の切れ者。
北から南まで日本全国様々な除霊作戦に参加し、指揮官として遺憾ないスキルを発揮する人間である。
指揮能力だけが取り柄という訳ではなく、戦闘能力も標準よりはるかに高い。悪霊に臆することもなく、物凄く重宝されるため幹部候補としていつも名が上がる。
それほどまでに有能な人物が、普段の大規模編成である四十人を半分以下にまで縮小した本作戦で、名前を憶えていないなんてことがあるのだろうか。
有り得ない、そう言い切れる。そうさせるだけの実績が阿座上にはある。
更に言えば第二部隊は全員で行動をしているハズだが、いなくなったことにも気づいていない。
そのこと以上に、自分の部隊が三人しかいないことに違和感を抱いていなかったようだ。
それを踏まえて今回の除霊対象と自分の経験、そしてタイミングから推測すれば一つの結論に辿り着くのは必然と言える。
「………会敵したんですね?」
「察しが良くて助かる。正確には"第二部隊が"、"虚影の眷属に"襲われた一般人の救出を行ったという情報が来ている。
今回は四人×四部隊での編制だからね、一部隊三人になることは絶対にない。
故に事前に報告のあった『認識狂いの呪い』なのではないか、そう思ってね」
「阿座上さんが憶えてないないなら、まず間違いなく呪いのせいでしょうね……」
とはいえ、会敵したのは第二部隊であり作戦本部代わりとして使用している部屋から阿座上は一歩も出ていない。
それをいの一番に命へ提示していないため、呪いが伝播するものだと強調されている。
その推測を確実なものに変換するためには、それ相応の技術を持つ者でないと難しい。
命としては取りたくない選択肢の一つであったが、犠牲が出た今は躊躇っている場合ではなかった。
「浄の霊符は?」
「もちろん使用したさ。それで解決している問題なら既に全体に周知している。呪いの存在自体、そもそも作戦資料に書かれ……」
急に阿座上が押し黙った。
先までの饒舌な口調がなくなり、なにかあったのかと命は焦る。
「あ、阿座上さん?」
「…………今回は厄介だね」
はあ、と一つ溜息を吐く声が電話越しに聞こえてきた。
憂いに満ちた表情をしているであろうことは命にも容易に想像が出来た。あのルックスであるなら、きっと絵になるだろう。
「そもそも、俺は『認識狂いの呪い』なんてものがあること自体忘れてたようだ。これじゃあ作戦の指揮官として無能だな」
そういう阿座上の声のトーンが幾分か下がった。
命はこのままではどうあっても仕方ない、と考え電話を構えたまま第三部隊の皆に目くばせで戻るよう促した。
隊長である山岡は相手が誰だか察しているのか、第三部隊を率いる立場でありながらその提案に乗って歩き始めた。
そもそも今の会話の中で簡単な呪いを浄化できる霊符の[浄]を使用し、認識をし直したのが『呪いの存在』である。
しかし未だに失踪した岩城の情報は未だ
「僕含め第三部隊はこれから作戦本部に戻ります。本格的に呪いが伝播する前に解決しないと」
「そうしたいのは山々だけどね。呪い云々に関してはVeLSにも今すぐ解決できる問題ではない」
呪いという存在自体、霊能力者のような特別な力の一端であって解析が不可能な現象ではない。
しかし、霊力という未だに完全な解明にまで至っていないエネルギーを扱い起こっている現象である以上、解析にそれなりに時間を要するのだ。それこそ、年単位で。
「僕に考えがあります」
「俺だって雪代が何を考えているか、想像くらいできる。だが、いいのか?」
「ま、まあ本人の許可は必要ですけど……。どこまで知ってるんです?」
「澄地さんのファンなら大体知っているんじゃないか」
守護霊である白菊については霊能総では一部の人間にしか知られていないのだが、何代にも渡り守護霊を務める白菊のことだ。前代の雪代澄地をよく知る者なら白菊のことも多少は明るいだろう。
命の考えはお見通しとばかりに返答をしてくる阿座上の声は未だに暗い。
現状、虚影に辿り着くための足掛かりを呪いによって曖昧にされる可能性が高い以上、楽観視は出来ないからだ。
取り急ぎ準備をしてから帰還する旨を伝えて通信を切断した。
「皆さん、一度このまま作戦本部に戻らせて下さい」
「ふむ……。ではそれは阿座上からの指示ということにしておこう。理由は道中に聞きたいところだが、急ぎか?」
「出来れば」
「なら[迅]の霊符を使おう。一枚くらい消費しても問題ないだろう」
山岡の言葉に志藤と千賀も頷き、全員が[迅]を使用した。
足への強化が成される[迅]は主に速度の上昇の目的で使用されることが多い。km単位で離れている現在でも、全力でなくとも十分弱で到着できるくらいだ。
「その前にすみません、一人紹介させて下さい」
「ん?赤城……ならもう知っているぞ?飯田橋に絡まれていた時の女だろ」
「その赤城澪さんとは別人なのですが……」
ゆくゆくは紹介しなければならないため、衝撃を引きずらないように白菊の存在を公開しようと決めたのだ。
守護霊を人の前に晒す、それが霊能者であるならば本来危険行為にあたる。
白菊は防御力に特化しており、自衛能力が格段に高いため頻繁に命の周りを飛んでいるが実際にはとんでもないことではある。
「(白菊さん、お願い)」
「はーーいっ!」
ガサガサと音を立てて、田園横にある草葉の陰から勢いよく飛び出した。
白く、透き通るような肌と雪の結晶をあしらった京小紋の着物が優雅に舞い、女性である千賀も含めて命以外は見惚れてしまっていた。
「皆様お初にお目にかかります。分不相応の身ではありますが雪代家の……命さんの守護霊と務めております、『白菊』と申します」
登場とは裏腹にやうやうしく綺麗な所作でのお辞儀をする白菊に、若干命は恥ずかしさを覚えた。
まるで友達に母親を紹介するような緊張感があったからだ。
実際に中学生の頃から面倒を見ているのは白菊なのだ。第二の母と言っても過言ではないだろう。
「こ、りゃあ驚いた。本人じゃなく家に仕える守護霊か。更にここまでの円滑なコミュニケーションが取れるタイプだとは……」
普通、守護霊とは人に憑くものである。家に憑くのは特異例なのだ。
実際に事例がないわけではないが、所謂名家・名門でないと拝むことは難しいとされる。
更に守護霊に限らず人間と会話できるレベルの霊も多くはない。
言語を操るには、理解する能力と一定以上の知能指数が必要とされているからだ。
幽霊となった者は前世の記憶こそ持ち合わせていると言われているが、肉体である脳とは根本的に作りの違う『心』、魂が半実体化しているため、ほとんどが本能のまま行動を行う。故に知能が高い幽霊は珍しい。
そんな二つを掛け合わせたハイブリッドな上、人間に友好的である白菊は、その特異性に気づければこれ以上ない驚きだろう。
「彼女は長年の研鑽で様々なことが可能です。道中で説明はしますが、今回の作戦を遂行するためには白菊さんの協力が必要不可欠なので、先にご紹介させていただきました」
「あの、あのあのあの!」
千賀が浮遊する白菊に向かって、目をキラキラと瞬かせながら詰め寄った。
一方で白菊は何歩分か後退して、命の背中に隠れた。先までの優雅な姿勢はもう影も形もなくなってしまっていた。
「白菊さん、めっちゃお綺麗ですね!」
「!……で、でしょう?」
「なんで命さんが答えるんです?……それはそれで嬉しいですがっ!」
「わ!せいしゅーん!」
キャッキャとはしゃぐ千賀を見る限り、白菊を悪いものとしてみることはなさそうだ。
命は安心して作戦本部へと駆け出した。




