虚影①
気温と空が高くなり始める六月の早朝。
雪代命はあまり広くない境内の廃掃き掃除をしていた。
枯草も枯れ葉も落ちない季節ではあるが、どこからか風に吹かれて飛んできた草葉はところどころに落ちている。
それを毎朝掃いて掃除するのが命の日課だった。
もちろん三日に一度ペースでも大して見栄え衰えするものではないが、それが一日の始まりとして体に刻まれているのだから仕方ない。
約三十分ほど掃けば、境内には少し割れた石畳が鳥居を通じて参拝者を迎える準備が整った。
…まあ、あまりにも山の上にありすぎるので参拝客などここ数年十人も見ていないが。
掃き掃除で少し凝った肩をゴリゴリと回しながら納屋に向かい、竹箒を仕舞う。
そこでようやくふぅ、と一息ついて神社から歩きで五分ほど奥にある一軒家へ帰宅した。
完全に目が覚めたと思っていたが脳はまだ眠いらしく、あくびがでた。あくびと汗を流すために風呂場へと向かう。
冷水である程度汗を流し、髪を洗って、次は学校に行く準備の開始だ。
この家から命の通う海渡高校までは約一時間かかる。始業が九時なため、少なくとも八時前には家を出なければならないが今現在の時刻は七時二十分を指している。
若干の焦りを感じながらトーストに乗せる用の目玉焼きを焼き、その間に制服へとフォルムチェンジを行っておく。
これでどこからどう見ても立派な男子高校生の完成である。
…若干身長が平均よりも低いかもしれないが、命は高校の成長期を頑なに信じ続けていた。
とはいえ近辺には高校は二校しかないので制服を見れば高校生だとわかる。
ちょうど半熟に仕上がった目玉焼きをトーストに—————————……。食パンを焼いていないことに気づいたが、まあ些細な問題だ。焼いていない食パンに目玉焼きと塩コショウを乗せてかぶりつく。
その食事の間にスマホで昨晩来ていたメッセージに返信しておく。
友達登録されているのが一桁という悲しい画面をひらき、「商店街通りにできた新しいラーメンを食べにいこう」という旨のメッセージに対し、「何系?」とだけ打った。
今まさに朝食中だがラーメンの単語を見るだけでお腹が減る。
そんな腹の具合を気にしている平和な命に比べて、どうやら世間は今日も忙しいらしい。つけているテレビではニュースが流れ、やれテロだの、やれ事件が起きたのだと原稿が映像に合わせて読み上げられている。
人死にが出るのは大変よろしくない。
命は一応神職である。両親が死に、神社を守っていけるのは命ただ一人。曲がりなりにも神に信仰を捧げる身としては、どうしても自分とは関係ない死でも他の一般人よりは感情が表に出る。それ以外にも不幸な死を遂げた人間を見るのに嫌な気持ちになる理由はあるのだが…。
最近は他国のことを心配する余裕もなくなってきていた。現在日本では毎年かなりの行方不明者が続出している。
その数約三十五万人。ほんの二十年ほど前は約八万人が毎年の平均であったのに最近は特にその数が増えている。
有名な事件で言えば十二年前の『荒山小学校生徒三十五名失踪事件』や五年前の『九州修学旅行生行方不明事件』などが挙げられる。
この二つの事件は一度に消えた人間の数があまりにも膨大であったため固有の名称がつけられてはいるが、名前がなくともこういった人間が行方不明になる事例が多数起こっている。
そして人がひとり消えるたびにこう言われるのだ。
「また神隠しが起こった」と。
ふと時計をみれば七時四十分前。考え込むことは授業中にだってできる。一旦頭から忘れよう。
確かに始業は九時だが、命は少なくとも十分前には行動していたい人間なのだ。
急いで口にパンを押し込むと、もう一人の同居人が顔を出してきた。
「命さぁん、おはようございまぁす」
眠気眼をこすりながら、薄く雪の結晶があしらわれた白い着物の美人が挨拶をしてきた。
ついでに言えば、足先から床は数センチほど離れているのに加え生身の部分は少し透けている。
「おはよう、白菊さん。もう僕は出るから日中のお仕事は任せるよ」
玄関先で靴先をとんとんと打ちながら白い着物姿の美人————白菊に呼びかけた。
「ええもちろんですとも。私は雪代家の守護霊です、命さんだけでなくおうちもキチンと守り通してみせますよ!」
透き通るようなホワイトブロンドの髪をなびかせ、青い瞳をキラリとさせてそのあまり裕福ではない胸を張った。
あははと苦笑して命は肩下げのカバンを背負いなおす。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
普通ではない状況から普通の挨拶をして、さあ、命の一日は今日も始まる。
★
「とんこつ系らしい。意外とあっさり目だと中浦が言っていた」
七時四十七分。昇降口で外靴から中履きに履き替えてる途中、後ろから来たデカイ男に声をかけられた。
「なるほどね。で、春花。それ僕だからいいけど他の人はたぶん分からないよ」
きっと朝のメッセージで送られてきたラーメンのことだろうと察しをつけて小言とセットで返答してみる。
「命なら分かると思って省略しただけだ。他の人にはそれはもう懇切丁寧に説明しているとも」
こっちも見ずによくもぬけぬけと。
若干温い視線を浴びせながら足並み揃えて教室へと足を向けた。
この命と親しげにしている男は薄雲春花。命とは小学校からの付き合いで、親友である。
情報として付け加えるなら…。デカイ。身長は百七十八cmと割と高身長なのに加えてものすごく筋肉をつけている。
百八十cmは超えていなくともその筋肉でそれ以上に大きく見える。ちょうど十cm低い伸長を持っている命からすれば、話のたびに少し顔をあげなければならない。これでまだ成長の余地があるのだから理不尽この上ない。
一度脛を強めに蹴っておき教室へと入る。
席が離れている春花とは一度別れて命は自分の席に座った。授業が始まるまでやることをやっておかなければならない。
教科書とノートを広げてペンを持つ。今日は特別面倒な授業内容なので柄にもなく予習なんてしているが、普段からやっているわけではない。その弊害か全く集中できない。教室中の話し声が聞こえてくる。
その内容は高校生らしいものから深刻なものまで多数である。
「昨日のテレビで…」「今日は三十度近くまで上がるらしい…」「今日の一限の内容がダルくて…」「昨日来たガチャで出た…」「二組の赤城さんてやっぱり…」「ミカゲ親父さん、昨日から帰ってないらしい…」
会話の中に一つ気になる内容があった。
…ミカゲ君、美影優君。彼の父親が帰ってないらしい、と。これもいわゆる神隠しと世間が言う状態なのだろうか。
彼とは中学時代に同じクラスになったことはあるが、ほとんど話したこともなく接点は限りなくゼロだと言ってもいい。
少し長めの髪の毛で目にかかるように前髪を伸ばしていた印象だ。一部では童顔が可愛いとひそかにモテていたと噂を聞いたことがある。そんな彼の父親が帰って来ていない。
神隠しに関すること、身近な人死にに対して関心の強い命は、自分の机に広げてある教科書のことを置き去りに思考の海へと潜り始めてしまった。
「(そもそも美影君の父親は…、美影父は大人だ。仕事帰りに会社の人間と飲みに行き、飲みすぎて帰れなくなってしまって近くの公園かどこかで寝ていたりとかしているんじゃ?
酔っている、という前提条件が付くのなら家族への連絡も忘れることもある、と思う。
というかさっきの話していた男子は近松健司君、だったかな。僕と美影君と同じ中学の…。そうか、確かに近松君は中学の頃美影君と一緒によくいた。二人が友達なら相談を受けることもあるよね。情報のソースは本人か。
しかし、酔っ払っていなくてただ単純に何かがあって帰れてないという場合、どんなパターンがある?
いつもと違うルートから帰ってきて、道に迷った?人助けに奔走していた?…いずれにしてもスマホがあれば連絡くらいはできるし、そもそもそのスマホで問題解決自体できる。これ以上は本人に聞く以外に情報の入手方法がないな……)」
教科書の文字を文字としてではなく画像として認識しながら、情報を整理していく。当然内容は頭に入っているわけもない。
そして、いつも思考の海から息継ぎのために引っ張りだすのは周囲の人間である。
「あ、おはよう雪代君。ずいぶん難しい顔してるけどなにかあったの?」
時計を見れば八時四十五分。命の左隣に座る女子、沖山姫羅が話しかけてきた。
そんな沖山も命ほどではないが困った顔をしていた。
「おはよう、沖山さん。大したことじゃないよ。…で、沖山さんこそどうしたの?そんなに困った顔してさ」
細い眉をきゅっと寄せて、染めた亜麻色の髪の毛がふわりと少し舞う。
「それが、今日の四限の理後の課題やり忘れちゃって…。そうだ雪代君、毎回本当にごめん!終わってたら今日貸してくれないかな!?」
パチンっと軽い音を立てて手を合わせて片目をつむって命をみた。実にあざとい。
今は六月中旬。高校一年生として課題も多く出てくる時期ではあるが、この沖山のやってこない率はかなり高い。今のところ三割はやってない。
入学後一週間は名前の順で並んで座っていたが、席替えをしてこの席になって命が偶然課題を見せてからはずっとこの調子だ。
だが命はしかたないなぁ、と笑顔でファイルからプリントを出して沖元へ手渡した。
「はい、四限までには返してね?英語のあの先生怖いんだから」
「絶対返すよ!ありがとっ」
並みの男子ならそのウインクで光の彼方へ消滅させられていただろう。命も若干危なかった。
耐性の無いモンスターに効果覿面な例の呪文だが、そもそも命もあんまり人と関わるのが得意ではないので十分効果対象である。幸い同居人に規格外レベル美人守護霊、白菊がいるおかげで耐性はあった。
そんな魔法使い/沖山と入れ替わり立ち代わり、武闘家/春花が声をかけてきた。
「まぁた沖元に課題見せてんのか?いい加減なんか言ってやったらどうだ。何回目だよ!ってさ」
「いや、いいんだよ。別に課題見せるだけのことくらいさ。…で、春花はなんの用なの?」
「お前あの課題…。まあいいや。いやな?さっき命が考え込んでるのが見えたんで何かあったのかって気になってな」
沖元、春花と続いて思考しているところを指摘され、そんな分かり易いか…?と若干ビビる命。
それが顔に出たのか春花は種を明かす。
「お前が考え事してる時には段階があってな。一段階目はぼーっとしてる。これはあんまり何も考えてない時だな。
二段階目は一心不乱に何かを観察している時。そして三段階目がさっきの命、右手の人差し指を立ててこめかみに押し付けてる。ここまで行くと誰かが話しかけないと一生戻ってこない」
なんということだ。小学校からの幼馴染とはいえここまでの分析結果が出ているとは。若干のビビりが若干の恐怖に変貌した瞬間でもあった。思わず口も開く。
春花は命の顔をみて人差し指、中指、薬指とピンと立った指をそのまま命の机にトントンと打ち付けた。
「で、もっかい聞くが何があった?」
ぐむむ、と悩む。春花は命の色々な事情を知る数少ない一人だ。そして先ほどから考えて実行しようとしていることにはかなりの危険が伴う。それを大事な友人である春花に話してもよいものなのだろうか。
ぴったり十秒考えて、
「…昼休みでいい?」
と答えた。
「分かった」
それに対して分かったの一言。
このしつこくない感じが命に刺さる。ずっと友達を続けていられる理由は薄雲春花という人間の人柄にあった。
更に言えば春花はかなりモテる。
がっしりとした体形に加えて、三白眼気味だがキリっとした目。そして見た目の厳つさに反してかなり優しい。命が目撃したことがある場面だけでもかなりある。
例えば提出物のノートを係の女子に変わって職員室へ運んだり。
例えばいじめの現場を目撃した際にはその後悪化しないように解決したり。
どの場面をどのようにして噂が広まっているのかは分からないが、そんなカッコいいエピソードが繰り広げられて女子の間では彼氏にしたいランキング上位を保っている。
…本人は全く知らない事ではあるのだが。知らないだけなのだが、春花の漢を見せられた女子は更に噂にするのだ。
白い歯をニッと見せて、右手をひらひらとさせながら自分の席へと戻っていった。
さて、これで昼休みの命の予定は確定した。春花に事を説明し、その後美影優へ話を聞きに行く。
昼休みの事、この先のことを考えていれば命の学園生活1日の半分はすぐに過ぎ去った。
四限が終了したチャイムと共に英語の教師は授業を終了させた。
「キリがいいからここまでだな。…では授業を終わりにする。号令」
号令の合図とともに今日の当番が声を張る。起立、礼の後クラスの皆はそれぞれ重い空気から解放されるように溜息や深呼吸などで長い息を吐いて、それぞれ弁当を取り出したり購買へダッシュしたりと各々行動し始めた。
もちろん命は約束通り春花と合流し、それぞれ昼食を持っていつもの場所へと歩き始めた。
その場所は命たちが授業を受ける校舎とは別の部室棟にある教室の一室。三階の渡り廊下から部室棟へ渡り、二階へと降りてから左手にまっすぐ。
真っ白なプレートに何も書かれていない教室へと到着した。
命は朝コンビニで買ってきたおにぎり三種類とパン二種類、それに加えて野菜ジュースを。春花は妹お手製の弁当を取り出した。
「その体形で結構食うな、お前…」
「足りないんだよ。エネルギーが」
早速おにぎりに手を付けて食べ始める。それを見て春花も箸で弁当を食べ始めた。
およそ十五分後、完食する間際に春花が口を開く。
「で?」
相変わらず主語がない。だが昼休みに話すと言ったのは命の方だ。
「神隠し案件」
率直に、そのまま何も飾らずに言葉に出す。それに呼応してか少しだけ春花の目が細くなる。
三秒ほど経過したが春花の口からは何も言葉が出てこない。…続きを促されているようだ。
「今朝、盗み聞いたわけじゃないけど近松君とその友達との会話で美影君の父親の話が噂になっててさ。
その美影父だけど、昨日の夜から家に帰っていないらしい」
そこまで話して、野菜ジュースを一口飲んだ。
そして今朝あの考えた内容を考察を交えて春花に説明した。
「———というわけでさ。美影君に話を聞いてみようと思うんだ」
「…なるほど、なら話を聞くなら相手は近松だな」
「その提案の真意は?」
「ひとつ、この神隠しが横行する日本でその家族に直接聞くのは常識外れ。
ふたつ、そもそも肝心な美影は今日登校してきていない」
…なるほどと納得できた。
確かに、「お父さん、失踪したんでしょ?知っていることがあるなら教えて?」と本人に聞くのは良くない。それが中学の頃同じクラスだったことがある、程度の認知ならなおのことだ。人間としても良くない。
問題は二つ目の方だ。
「今日登校してきていないってのは?」
「そのまんまの意味だ。ほら、あいつ友達だから話そうと思って席行ったらいねえの。で、担任に聞いたら休みとだけ言われた。…まあ、そん時はなんとも思わなかったが、普通は風邪だとかで休みっていうよな。妙に答えづらそうだったのはそのせいか。納得がいった」
「同じクラスだったのか…」
家業に勤しむ命は他にあまり興味がない。…というのは言い訳であまり他人に興味が持てない性格で、それゆえにあまり友達がいない。
それくらいは把握しとけよ、というあきれと憐れみを含んだ視線が命を撃ち抜く。
ほんの少しだけダメージを受けた。
「じゃあどうしよう…。僕あんまり身近で起きたこういうの、放っておけないんだけど」
「放っておけないのは同感。そして解は簡単、噂にしていたご本人様の近松に聞けばいいだろ」
なるほどと手を打つ。確かにその通り。
と、ここまでで命は少しの違和感を覚えた。
「(なぜ、ここまで簡単なことを思いつかなかった?
まるでいつもの僕じゃないみたいだ。人の気持ちを最優先に考えていつも行動しているじゃないか。今回、動こうとしているのだって美影君と美影父を救いたいからだ。それなのに…。
加えて美影君に話が聞けないと分かれば次に思いつくのは近松くんに決まってる。だって発端は彼なんだから。
どうして、見逃した…?)」
右手の人差し指がこめかみを刺激する。
「…と、…こと!命!おい、考え込むな。時間がないぞ、昼休みのうちに近松に聞きに行こう」
「あ、ああ、うん。そのとおりだね、行こう」
命は袋へごみを回収し、春花は残っていた卵焼きを口に放り込むと弁当箱を片付けた。
自分の思考に若干の違和感を覚えながら自分の教室へとふたりで向かった。
しかし考えれば考えるほど、更に疑問は増す。
そもそも命自身、直ぐに考え込むタイプで短絡的な行動を起こすことはほぼない。そんな命が朝のHR前から昼休みまでの時間でそこまでの思考に至っていなかったことは、春花も少しだけ気になっていた。そんなこともあるだろう。程度にしか心配はしていなかったが。
教室まで戻り、ひとりで動画を見ながら弁当を食べる近松へ春花が声をかけた。
「なあ、近松。少し話いいか?」
春花に気づき億劫そうに黒いBluetoothイヤホンを外した。
「あ?おお、薄雲…と、えーと雪代だっけ?なんだ?」
命は意外にも近松というソフトモヒカンの金髪の男は関りがなかったのにも関わらず名前を憶えられていたことに驚いた。
命から相手の名前を憶えていることは多いが、憶えられていることは少ないからだ。
「美影父の件でな。…ここじゃなんだ、飯が終わったら屋上前の踊り場まで来てくれ」
近松は目を一瞬見開くと弁当に目を向け、片付け始めた。
きゅっと巾着の袋を結ぶと命たちの方へ向き直る。
「行こう。弁当は後で食う」
その声はいつも教室の端で騒いでいる声とは違く、静かだった。
ふたりの前を先行するように歩く近松。まるで何かに追い立てられているようだと命は感じた。
昼休みで騒々しい廊下を抜けて階段を昇る。徐々に生徒たちの声は消え、踊り場に到着した近松は屋上へとつながる扉に背中を預けた。
踊り場まで上がった春花と、その数段下にいる命を一瞥してから口を開く。
「美影のことで話があるって?なにか知っていたら教えてくれないか」
別人だ、と春花は感じた。
近松健司は大雑把にカテゴリ分けをするとしたら陽キャ、と言われる部類だ。更にあえて悪く言うとしたら不良。
遅刻早退欠席サボり、なんてことは日常で粗暴な言動も多く教師陣からもかなり問題視されている。
そもそもあのおとなしい美影とこの近松が友達である事があまり信じられることではないのだが、中学の頃はよく遊んだり一緒に下校したりしているところは何回も見かけている。
美影はそれに対して嫌な顔をしたりだとか泣いたりだとかしているのだとかをを見かけたことはないので、いじめをしているがそのポーズでオモテでは仲良くしている、という線も無い。
そしてこの今の近松の態度。粗暴な態度は全くと言っていいほど鳴りを潜め、暗い声で問いを投げかけている。
純粋に美影を心配している。
「すまん近松。俺たちも美影父に関して何か情報を持っているわけじゃないんだ。逆に俺たちが美影父に関して知っている事をお前に聞きたくてな」
金に染まった眉が顰められた。不機嫌さを隠そうともしていない。明らかにイラつき始めた。
「お前ら美影と仲良いわけじゃねえよな?なんで美影本人じゃなく美影父に関して知りたいんだ?」
それに対して命が返答する。
「実は僕はいわゆる神隠しってやつについて少し詳しくて。美影君とは友達ってわけじゃないけど、助けになるならなりたくて」
その言葉に対して更にヒートアップし始めた。
「そもそもなんなんだ雪代、テメェはよ。薄雲は分かる、交友関係が広いからな。なんでテメェが昭さんの事知ってんだよ」
「(昭…。美影君の下の名前は優のハズ。美影父の名前か?)」
まずは名前をゲット。しかしそんな情報に似合わない衝撃が命を襲う。
胸倉をつかまれた。咄嗟に反射に任せて階段下へ落そうとしたが、脳からの信号がギリギリ間に合った。
春花ならともかく、崩れヤンキー近松がこの高さから階段下まで落ちればタダでは済まなかっただろう。
この歳で前科持ちはかなりつらい。
「ご、ごめん。盗み聞きしたのは悪いと思ってるよ。でも放っておけなくて―——」
「盗み聞いた?誰にだ?この話を知ってんのは美影の家の人間と美影優本人に聞いた俺だけだ。他に知ってるやつがいるってのか?あ?」
朝確実にこの近松が友達と美影父の話題で話をしていたのは間違いない。
更に言えばさっきと今で矛盾とは言わないまでも、今日何度目になるのか、違和感を感じた。
ゆっくりと近松の手を胸倉から外して問いかける。
「ねえ、さっき知ってるのは『美影家と俺だけだ』って言ってたよね?それなのにその前に『薄雲は分かる、交友関係が広いからな』とも言ってた。それって少しおかしくない?」
ただ純粋に聞いておきたかったのかもしれないし、胸倉を掴まれて苛立っていたのかもしれない。命にしてはトゲが交じった言い方になった。
はっとしたのか細い眉尻が下がった。
「それとさ、話してたのは近松君、君本人だよ。ほら名前がちょっと分からないんだけど黒髪短髪の彼。その人と話ししてたじゃん」
追撃。強面に困惑の仮面がべったりと張り付いた。泣き出しそうな顔、とも言えるのかもしれない。
踊り場から一段下がったところにどっかりと座り、右手でぐしゃぐしゃと髪をかき乱した。
「そう、かもしんねぇ…。いや、確かにそうだ…。俺はアイツ…、倉重にその話をした。ああ、確かにしたよ」
そこで途中から聞き役に徹していた春花がピクリと反応する。
「お前、なに言ってんだ?倉重ってのはウチのクラスにいねえぞ?それに黒髪短髪で倉重って言やぁ、そりゃ中学の頃の倉重敦田のことじゃないか?」
ガンッ!と音がした。近松が顔を下に向けたまま横の壁を蹴った音だった。
「なんなんだよ…そうじゃねえか。なんでこんなにイカれちまったんだ俺はよォ…!」
ぽつり、と一滴水が緑の踏み板へ落ちた。
そしてまるでその場に神父様がいて、懺悔するようにひとつひとつ言葉を喉から絞り出し始めた。
「俺の親父はずっと働き詰めでよ、家に全然いなかった。お袋が死んでから男手一人で俺を育てて…。それでも寂しくなかった、昭さんが美影と一緒に俺も実の息子同然に可愛がってくれたから。死ぬほど怒られたし、死ぬほど殴られた。でも、そんなの親父からされたことなくってよ…。嬉しかったんだ、変だけどよ」
それから三回壁を蹴り、自分の膝を強く一発殴った。
「でも、昨日の夜美影から電話で『父さんが帰って来ない』って。夜通し探したけど結局見つからなかった」
涙で湿る声と視界を押し殺して、命と春花に呼びかける。
「なあ、何か知ってんだろ?昭さんは俺の第2の親父も同然だ。昭さんを見つけられるなら俺、なんでもする!教えてくれよ!」
泣きじゃくる近松。
当たり前だ。どれだけ悪ぶって、それだけ犯罪まがいのことをして校則を破ろうとも十五の子供。育ての親とも言えるべき人間が行方不明、それも近年行方不明者続出のこの現代日本で起こった事なのだ。
行方不明者は、文字通り行方不明。法改定が行われて今は行方不明から5年で死亡扱いとなる。
そして行方不明者から生存確定の報告が為されるのは約0.01%。年間三十五万人行方不明が出ていることを考えれば三十五人程度である。希望は、薄い。
神隠しについて詳細を知るものはこの世界にあまりに少ない。情報網が発達した現代でもあらゆる監視カメラ、音声記録であってもその
だがそんな神隠しに、命はケリをつけたいと考える側の人間である。
「美影父は僕が必ず所在を掴む。でも情報がない。だから君を頼ってるんだ、教えてほしい。近松君の知る全てを」
★
「さて、作戦会議です」
5限目、体育。本日の授業内容は二kmのマラソン。
8月の下旬にマラソン大会があるということで、その練習がてら一周四百mのトラックを5周走らされている。
クラスのほとんどの人間は「八月の暑い時期にマラソンはありえない」、と嘆いている。
合同授業であるため、隣のクラスの連中もおなじ顔をしている。
それは命と春花も同様の感想を抱いている。普通冬だろう。下手すれば死人が出る。
まだセミが鳴き始める前のこの時期に走らされるのはまだ良いのだが…。
身体が温まって呼吸がある程度安定した二周目と半分。命から話を切り出した。
「まず第一にこれは確実に"悪霊"の仕業とみていいね」
悪霊。害を成さず無害な善霊とは正反対に位置する醜悪なる幽霊。
歴史を遡れば遡るだけ悪霊と人間との対立は深く読み取れる。
例えば悪霊退治の専門家、もっとも有名な人物と言えば安倍晴明。平安時代に存在した陰陽師である。
例えば安倍晴明に名を連ねる呪術師と言えば芦屋道満。安倍晴明と時を同じく平安時代の人間だ。
記録に残り、世間一般にその名が知られているほどにこの対立関係は深いと言える。
また、とある記録では紀元前より幽霊の存在が確認できているという。
そして現代にもその対立の余波は届いている。もはや"余波"程度ではない。
これは命の勝手な予想…論理的思考に基づいた予測ではあるが、ここ20年で増え続けている行方不明者の続出は悪霊の仕業である、と考えている。
もちろん幽霊という万人が信じているわけでもない不確定なファクターを政府やメディアが通すわけもなく、ただ単に行方不明だと報じ、それを世界の八~九割の人間は信じている。残りの一部を除いて。
命は"霊能者"と呼ばれる存在である。
幽霊を視認でき、意思疎通を図ることも可能。それだけでなく、特殊な方法でそれを祓うこともできる。
悪霊を祓い善霊を安らかに成仏させる。それが高校生の皮を被った雪代命という人間の正体だ。
「命的には今回の悪霊はどのレベルだと見てる?」
「うーん、詳しくは霊能総次第だけど、確実に"B"以上はあるね」
「だいぶヤバそうだな」
そろそろ三周目に差し掛かるが、ふたりで並走しながら話していてもあまり息が上がっていない。普段から鍛えているおかげだろう。
体育教師の目の前を通過したとき、ジャージ姿のむさくるしい男から声が上がる。
「お前ら!赤城を見習え!もうあと半周で終わりだぞ、もっとキチンと走れ!」
今のご時世その声掛けはいかがなものか。普段から厳しい上にこんなところでも更に怒鳴られては、嫌いになるなと言われる方が難しいまである。
体育教師=生徒指導教員であるのは全国で義務化でもされているのだろうか。
命は幸い容姿で目立つわけでも、目立つようなことをしたこともないのでお叱りを受けたことはないが、春花は入学後早々に行われた荷物検査で鉄アレイが見つかり生徒指導を受けた。
そんな体育教師に名指しで褒められた?赤城と呼ばれた女子。
彼女はいわゆる美少女と言われる部類である。入学から二か月弱の今、男子の話題の半分を彼女が持って行っている。
勉強がものすごくできる、という噂は聞いたことこそないが、一番人間が(主に男子が)最初に惹かれるのはその容姿。
黒いストレートヘアーが特徴で、百六十五cmと女子の中では高身長に入る部類。身体能力が高いことは五月に行われた体力測定によって判明された。そしてその記録に裏打ちされた身体の筋肉。春花の様にゴリゴリのマッチョメンというわけではなく、必要な個所に必要な分だけつけられたスレンダー美。まるでとある一つの目的のために形成された機械のようだ。
筋肉の見分けなどつかなくとも、その圧倒的顔面偏差値で男子たちを一掃したのが赤城澪という命達の隣のクラスの女の子だ。
だが、その赤城はかなり硬い表情筋をお持ちである。
笑わない、嬉しがらない、悲しまない、泣かない。クラス会には参加はしたようだが、みんなでボーリングに行っても、カラオケに行っても、近所でちょっとウワサの美味しいお店に行っても、ほとんど表情を変えることはなかったらしい。
それゆえに告白に突撃する男子は二桁に届かずあっけなく消滅した。もちろん勇気ある男子諸君は撃沈されている。
「…命、お前アイツが好みのタイプか?見惚れてんな」
「………はっ、そんなんじゃないよ!ほんとに!すっごい速いなって思っただけで!」
命が見惚れた赤城はそんな言い訳をしている内に既に五周を回って、水を飲んでいた。息も全然切れていない。
校舎の上の方に設置された時計を見るに、約七分と少し。他のジョギングから徒歩くらいの速さで走るクラスメイトとは次元が違った。五十分授業のはずだが、あと三十分は余っている。かくいう命と春花もあと二周だが。
その後はずっと赤城に見惚れたことをからかわれながらも五周走り切り、残りの時間を自由時間とされ午後一の授業は終了した。
六限目は疲れて夢の世界へ旅立ったクラスメイトが数学教師から怒鳴られたくらのイベントが終わり、下校時間となった。
帰る前に近松に声をかけてから、目的の場所へ向かおうということになった。
「近松。一瞬だけいいか」
「…薄雲。昼休みに話した通りだ。あれ以上のことは何も教えることはない」
「ああ、そうじゃない。お前の情報は助かった、ありがとう。そうじゃなくてな」
そこまで話したところで命へバトンタッチされる。
「詳しいことは話せないんだけどさ、今回の件、どれだけの時間がかかるかわからないんだ。明日には報告できるかもしれないし、一週間後、下手すれば一ヶ月後になるかもしれない。でも、とにかくできることはする。ってのを言いたくってさ」
それまで一切振り向かず、机を見つめたままの近松は顔をあげ、しっかりと命を見据えた。
「雪代、頼む。きっと俺には分からないことなんだろ?それなら邪魔するわけにはいかない。昭さんを頼む」
「…うん、任せて。じゃあ、また明日」
「ああ、また」
ズキリと心が痛んだ。この痛さは頭を打っただとか、殴られただとか、そんなんじゃない。心臓に刻まれた傷に遠くから塩をぶちまけられているような鈍痛だ。
下駄箱で外靴に履き替えて、校門を出たあたりで抑えられていた言葉が漏れる。
「無責任なこと、してるよなぁ」
「そうだな」
ひとりごと、どくはく。言い方は色々あるがとにかく誰に聞かせたもんじゃないものだ。
それを拾って、痛み続ける胸にドストレートで返された。どうせ拾うならオブラートで何重にも包んで、包んで柔らかくしてから投げて欲しかった。
それでも自らこの事件に首を突っ込んだのだ。向こうから寄って来て、火の粉を払うためにしていることではない。
「神隠しと言えば悪霊、それを予想できないハズがないのに、わざわざ仲良くもない相手のために首を突っ込んで、更に希望を持たせている。お前が『今回は"B"以上はある』と言った以上、美影父は99.9%で死んでいる」
ぐうの音も出ないとはこのことだ。バウンドしたストレートボールをラケットで何倍もの威力にしてもう一回打ち込まれた。
本当になんで近松のために動いているのか、分からない。普段の命からは考えられないことだ。なぜなら、できるだけの事なかれ主義を掲げているからだ。余計なことはしたくない、知りたくない。
「…今日の朝から僕がなにかおかしいことは、自覚ある。普段の僕じゃないみたいだ」
「そうだな。それは薄々感じてた。近松も変なこと言ってたし、何かそこに繋がりはないか?」
「ない、と思う。記憶が間違ってなければ僕の方からも近松君の方からも、名前だけ知ってる中学校時代の同級生。くらのものなハズだよ」
これは確実。なハズ。どうしても今は百%そうであることが九十%くらいの確証に思えてくる。
気持ちの悪い感覚だ。何に対してもズレを感じる。思えば今朝からだ。
あまりいいことではないが、命は毎朝登校時に本を読みながら歩いている。前は注意して歩いているが。
今朝もそうだった。毎日歩いて、毎日本を読んでいた。
当たり前だがその日その日で集中力は変わる。暑ければ汗が滴り気持ち悪くて本を閉じるし、寒ければ手が凍えてページが捲れなくなり本を閉じる。
だが今日はどうだろうか。日中は気温が上がると言っても、朝は涼しかった。風も強風ではなくむしろ気持ちのいい風の強さだった。本を縁側で読んでいたら一日中入り浸っていただろう。
そんな中、ある住宅街を通った瞬間から急に集中力が途切れた。
「でも、霊力は感じなかったんだよなぁ」
霊力とは簡単に言えば幽霊や霊能力者の持つエネルギーのこと。
霊を祓う立場の命も霊力感知は基本なので、小さい頃から鍛えている。
まあ幽霊自体そこらへんをふよふよ漂っていたりするのだが。そういう霊は基本なにもしない、もしくはできない善霊に部類されるため意識的にしろ無意識的にしろ無視している。
ズレの原因と美影父のことは関係ないだろうが、悪霊じみた気配を感じればすぐに分かる。
だが感じなかったということは少なくとも命の行動範囲内にいることはないのだろう。
「参ったな…。結局霊能総まで行かなきゃダメかぁ」
雪代命行きたくない場所ランキングを発表しろと言われたら、堂々の第一位に輝ける栄誉ある場所、それが霊能総。
「行き先が決まったらさっさと行こう。事は早い方がいい」
もっともである。
とりあえずの行き先は美影家だったのだが、そこに行くよりも手っ取り早そうだ。近松に無責任に約束してしまった手前中途半端にはできない。
溜息混じりに進路を変え、最寄駅の方向へ足を向けた。電車でないとたどりつけないほど遠い場所だ。ぶっちゃけ県外である。