虚影⑯
七月に差し掛かって徐々に汗ばんできて、学校に来る生徒が清感シートをよく使う時期となり各教室から爽やかなにおいが漂ってきた。
先日望月森という調査員の女性から得た情報やヒントを活用し、命も独自に調査に乗り出していた。
あの夜以降命は白菊と話し合い、しばらくは春花や赤城へこのことを伝えるのは止めようということになった。
理由としては確実な情報がないまま共有し、今頼れる立場の二人がどちらも命と白菊のような状態になることを避けるためだ。
何を起因として、文字化けや頭痛の種になるか判明していないからだ。
と、そうなるとやはりコレを相談すべきは美影優になる。
だがその肝心な渦中の人である美影は、見かけても気づいたらいなくなることが多い。最近は特に。
顔の広い沖山には見かけたら命のところに来てくれるよう伝言を頼んだが、未だに進展はない。
次に当たるべきは、この事件が発覚したきっかけとなった近松となるだろう。
彼は認識狂いの呪いを受けた形跡もあるが、このことを相談するには避けられない人間だ。
そう考えて命は、近松に放課後に屋上に繋がる踊り場に来るようメモを渡した。その際に春花に見られていたが、何も見なかったことにして他の友人と話をつづけた。彼なりの気遣いである。
春花には悪いと思いながらもこれも解決のためだと割り切った。
午後の眠気を誘う授業を終えて、命は一足先に踊場へと足を運んだ。
踊り場はしんと静まり返った空気がある。目を凝らせば舞っている埃もゆらゆらと浮遊し、この空間だけ学校というくくりから切り離されたような感覚を覚える。
最上段に腰を下ろして一息ついたら、周りからは先までは聞こえなかった色々な音が飛び込んできた。
誰かを呼ぶ声、駆け足、風が窓にあたる音。
目を閉じて来客を待つ間は、そんな音にごまかされてそう長くは感じなかった。
生徒たちの声に紛れて、ひとつの足音が迫ってきたのが分かった。
外履きの靴とは違う、校内でしか履くことのない上履きの独特の足音が命の耳朶に響く。
「……やっぱ雪代か」
「近松君、久しぶり」
「久しぶりって……。毎日顔合わせてるだろ。挨拶はしてねえけど」
「あんまり仲良くないのに挨拶するのもなんだかね」
「そういう考え嫌いじゃない。……つか、手紙。名前書けよ、誰だか分からねえから一瞬喧嘩売られたかと思ったぜ」
「ええ……。思考がヤンキー過ぎる」
いつのまにか軽口をたたける程に関係性が進展したかと言われれば、そんなことはない。
互いが相手をそこまで深く想っていないからこそ、心の声が漏れ出たに過ぎない。
それでも周りから見ればフラットな関係のように見えるだろう。実際、命もよく春花と軽口を言い合っている。
と言いつつも、二人とも長く会話を続けるくらいの間柄でも性格でもないため、命は早々に本来の話題を切り出した。
そのきっかけとしてコピーしていた報告書の一部を近松に差し出す。
「これは?」
「美影君のお父さんに関することを調べてる。それに関係することでね。だいぶ進捗は遅いけど、着々と進んでいるから一応成果報告をしておこうかなと思って」
半分は嘘である。
経過報告はしておくべきだと判断したが、それに至るまでの経緯は一般人である近松に踏み入らせる必要もないからだ。
「これを一部だけ見せられて、どうだってんだ。俺が求めてんのはそこじゃねえ。昭さんは無事かどうか、そこだけだ」
事情を知らない近松からすれば現在頼れるのは命と春花だけ。
進展もないまま二週間以上が過ぎているこの状況は彼にとっては気掛かりだろう。
やっと声をかけられたかと思えば紙一枚を渡されるだけ。少々短気な性格も災いして苛立つのは仕方ない事かのように思える。
「その捜索のためにしてほしいことがあるんだよ」
「んな悠長なことしてる暇あんのか?流行りの『神隠し』だろうが何だろうが、二週間飯食わなきゃ死ぬんだぞ!」
「見つけたいなら協力してよ」
「やったら見つかんのか!?」
「確率は上がる」
激昂し掴みかかってツバを飛ばす近松は、命の冷静さを感じて更に苛立った。
自分の親代わりのような恩人が生死不明の状況で、任せた相手が悠長に構えている。その状況だけで沸点の低い近松は拳を振り上げることに躊躇はなかった。
肩より高い位置から振り下ろされた右の拳は命の頬を打ち抜く。
喧嘩慣れした近松のマウントポジションからの一撃はそれなりに重かった。歯は折れていなかったが、ジンジンとした強烈な鈍痛が左頬に染みる。
「いったぁ……!」
「てめぇが任せろって言ったから俺は何もせず待ってんだよ!紙っ切れ一枚渡して協力だ?ざけんな!」
追撃で二発。両の拳で命の顔に振り下ろされた拳には少しだけ血が付着した。
「もし、これで見つからなかったらてめぇを殺す。逃げても殺す」
怒号と拳に晒されても命は大人しかった。
親が怨霊に殺されてからはやり場のない殺意を振りまいた経験を持つ命だ。
復讐することも力もない当時、は裏山の木を手の骨が粉砕されるまで殴り続けた。それでも晴れることのなかった復讐の炎。それはまだ心の中で燻っているが、今は『骨肉の怨霊』へ全復讐心を向けてるため精神を保って居られている。
近松は訳の分からない状況で親代わりの人間が行方不明で、状況的に死亡している確率が高い。
そんな中大人しくしていたのは命に任せていたからで、不安は蓄積されていた。
それを分かっているからこそ、命は大人しく殴られた。
「探し出すよ」
「…………ムカつくぜマジで」
殴っても表情はほとんど変わらず、むしろ殴る前よりも冷静な言葉を放つ命に若干の恐怖を覚え、体を退けて階段を三段降りた。
口の端から流れる血をティッシュで拭きながら近松に再度紙を見る様に指を差す。
今のやり取りでくしゃくしゃに丸まってしまったが文字を読むのに支障はない。
「その内容を読んで、どこかにおかしいと感じるところはない?」
「あ?……ねえよ。……てかなんだこれ。お前何してんの?ぜってぇお前個人で探してるわけじゃねえだろ」
「そこは秘密。ってか本当に違和感覚える場所ない?」
「しつけえ。ねえよ。んだよ『調査報告書本編の項番七』って!ペラ紙一枚じゃなんも分からねえだろ殺すぞ!」
「……え!」
手の中で丸めて命に報告書をぶつける近松には、ぶつけられて嬉しそうに驚く命が不気味に見えた。実際はそこに驚いているわけではないのだが。
「項番、七……!?」
丸められた紙を広げて、もう一度同じ場所を見てみる。
するとどうだろうか。先までは"■"にしか読めなかった箇所は"七"に変わっていた。
頭に走る認識を阻害するようなノイズも消えている。
「どういうこと?やっぱりカギは霊能者ではないこと?それとも呪いにかかったことがあることが条件?分からないけど、これは大きな一歩だ……!」
「ブツブツ何言ってんだキモチワリィな」
ほんの数分前に殴り掛かった相手がいきなり自身の持つ紙を奪って、その上笑っているのだから近松からすれば気味が悪いだろう。
「もういいのかよ、俺は帰る」
大きな舌打ちをして、命を恐怖の混じった目で見ながら踊り場を去って行った。
近松が居なくなったことでその場はあるべき空気が戻りつつあった。静かで、放課後は誰も寄り付かない雰囲気に。
反対に命の心臓は鼓動を早くし全身に沸騰するような血を送り続けた。耳元でドクドクと脈打つ感覚だ。
「そうだ、電話」
ポケットからスマホを取り出して、ラインを開く。画面には上から望月、春花、霧雨……の順番に過去メッセージの一番新しい文言だけ記されている。
ここで手が止まる。報告すべきは望月か霧雨か。
少々の逡巡の末に望月とのメッセージに指を伸ばした。
最後にやり取りがあったのが初めて会った日の夜中二時。命が帰ってから寝る準備をして床に就いた時に突然送られてきたチーズの写真を皮切りに一時間ほど他愛もない会話をした。
望月森という女性は晩酌が好きらしい。
あまりにも辛い訓練を乗り越えたのは酒とツマミのお陰だ、とメッセージにて知らされた。
『そろそろ白菊さんが怒るので寝ますね』
『うん。こんな時間まで悪かったね。おやすみ』
『おやすみなさい』
これがあの日最後のやり取りだった。
命が寝息を立てるまでの数分は、そんなやりとりのことばかり考えていた。信頼できる大人、そういったものに久々に触れて、心の中では安心したのかもしれない。
そんな安心感を打ち壊すように、画面上部の受話器マークを押す。
軽やかなメロディーと共に相手のアイコンが表示されて呼び出しがかかる。
しかし十コールしても電話には出ない。
「お仕事中かな」
放課後とは言え時刻にしてみれば十七時近く。いち社会人としてみれば望月も立派な働くお姉さんである。
「とりあえずメッセージだけ入れておこう」
文字化けが消えたこと、項番七とはどんな内容だったのか教えて欲しいこと。少し長文になってしまったが、望月は苦い顔をすることなく読んでくれると命は確信していた。
送った文章にはもちろん既読はつかない。
メッセージでの報告は済ませたが、直ぐに解決へ乗り出したい気持ちが前に出た。
「帰りに寄ってみよう」
屋上からの階段を降りて下駄箱へ向かう。
途中の渡り廊下で夕日が差してきて目を細めたが、その日差しも今は自身への脚光のような気分に浸る。
悩みの種が一つ消えただけでも心に余裕が生まれるものだ、と命の心臓が送り出す冷たい血液が物語っていた。
いつもの場所で履いてきた外靴に履き替えて、ポケットから音楽プレイヤー取り出しイヤホンを耳にはめる。
アップテンポな曲が耳朶を叩くなか、夕日が照らす道を歩いてこれからのことを考え始めた。
具体的にはどうやって祓うか、である。
霊能総が"ただ被害者が最近多い"だけの悪霊を早急にネームドとして登録するのには必ずしも意味があるからだ。
この世に意味のないことなどひとつも無い。
意味がないことなら最初から存在しない事と同じだからである。少なからず、何かしらに影響を及ぼしている。
そもそも、ネームドとして登録される以前にネームドそのものになるには、祓うためのランク付けが必須になる。
しかしこの虚影の怨霊はほとんど痕跡を残さずに『神隠し』を引き起こしている。
逆に痕跡が残らなすぎて他の悪霊と差別がついているから被害の把握が出来ているとも言える。
無名の悪霊にしては聞いたことのないほどの被害規模、だからこその特定だが逆説的に言えばこれからは名を聞く悪霊になると想定してのネームド入りなのだろう。そう、命は推定してる。
そうなるとランクはSと言えど戦闘能力、または除霊何度としてはS相当に満たないと考えても良い。
登録がされてからランクが変動することなど偶にあるからだ。
だとしてもこれは低く見積もった場合だ。
「Aランクは霊能総幹部と認められた霊能者二人以上いて勝てるレベル、だったかな」
歩きながら独りごちる。
命はつい最近、初めて霊能総幹部の一人と相対した。その際に手合わせをしたが、霊力で強化した肉体でも生身で手玉に取られるレベルであった。
その煙霧言ノ葉ですら肉体派の霊能者ではないと云うのに。
なら化け物と称される土井雹牙とはどのレベルの生物なのか、命は想像するだけでも恐ろしく感じた。
何年か前に神奈川支部で一度だけ見たことがあった。
その風貌を一言で表すなら"歪み"。命にはその周辺だけ空気が歪んで見えた。蜃気楼のように。
それが出で立ちというか、隙の無い警戒によるものだとは、未だ気付けてはいないが。
本来であればもっと各地を転々とする煙霧がここにいる、ということはこの先予定されるであろう虚影の除霊作戦にも加わってもらえるはずだ。
ネームドなら他に無数にいるのになぜ虚影が直ぐに除霊の対象になるのか。
それは今が一番いい状態だからだ。
言わば食事の始まり。コース料理で言うなら魚料理が出始める頃。あと少しでメインディッシュの肉料理にありつける寸前だ。
欲望に動き人間とは違う思考レベルである悪霊怨霊からすれば、機会を逃すわけがない。
メインであれば飛びつく、魚釣りのようなものだ。
無論、後何人かは犠牲になる可能性はある。だがその犠牲者は疑似餌でもあり針についた餌でもある。
霊能総の人間のほとんどはこれ以上の犠牲は望んでおらず、もしできるのであれば次のターゲットが狙われた時点で作戦を実行したいと思っている。
この仕事をしているのなら今ある命を守ろうとするのは至極当然だからだ。
「あと一人、幹部相当の霊能者……か」
命の脳裏にチラつくのは赤城澪。
クラスは違えど同じ学校の霊能者で、今は『友達』である彼女。
赤城澪の力を測るために山に登り、共に除霊を行ったあの日。
彼女は明らかに尋常ではない力を発揮した。
「体に沈み込む霊刀、零、か」
命が知る限り、そのような性質を持つ刀など聞いたことがない。
ただ一部の例外を除いて、だが。
命が知るその一部は、使用すれば生命を蝕むものだ。あのように常用できるものではない。
しかしあの時赤城が言葉にした桎梏解放という言葉は分かる。
霊力解放の一種だ。何かを犠牲に生み出す禁忌とまで言われる業。
あの時に何かしらを赤城は失ったのだ。
それが分からない以上、赤城をやすやすと前線に立たせて何かを失わせるわけにはいかない。
あの後疲労が見えながらも話したり歩いたりしていたし、今も学校に来ていることから身体欠損を伴う霊力解放ではないことは確かだが、使用しないのであればそれが一番いい。
「でもやっぱり赤城さんは貴重な戦力だしなぁ……!どうしよう」
「戦う」
「うわっ!」
独り言だと思っていたのに、後ろからイヤホンを外されて命は心臓が跳ねた。
振り返るとそこには制服姿でイヤホンを摘まむ赤城が立っていた。
「びっくりした。何やってるの?」
「それはこっちのセリフ。雪代君ここ最近ずっと変だから」
「そ、そうかなぁ」
春花と赤城には秘密にしていたはずだが、雰囲気で漏れていたようだった。
若しくは異変に気付いた春花が赤城に話したのかもしれない。
「詳しく聞かせて」




