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虚影⑮

望月森(もちづきしん)

霧雨から紹介され、命の読んだ報告書の一部を書き連ねた調査員の人間。

霧雨の口調から女性らしいが、二十時半を回っているが話を聞きたいという要望により家にお呼ばれしてしまった。


招かれた家は霊能総から雪代家の最寄り駅の途中の駅が近いということで、結果帰り際に寄るような形となった。

電車の中で白菊に入念に調べてもらったが、やはりと言うべきか命も呪いの類は受けてはいなかった。白菊も万能ではないので何かしらを見逃している可能性もあるが、望月に話を聞いてからでもいいだろうと一旦落ち着いた。


そんな電車の中でも複数体幽霊を見た。

虚ろに立っている者、女性に寄り掛かる者、男性の足にしがみつく者、床を這っている者、天井から首だけ出ている者。

これらの行動になんの意味もない。この幽霊たちは何をしていても何も影響を及ぼすこともない。精々見せるものを驚かせるくらいにしかならない。

命はそんな霊を可哀そうと思い、霊符での苦痛なき除霊をして回っていた時期がある。

しかし意味はなかった。


全国で、毎日何千の命が消えるのか。県単位で見ても二桁以上は死人がいる。

無論全てが霊となり命の目の前に現れるわけではない。

それでももしかしたら、と思い始めた。だが積み重ねには敵わない。


幾日の時も、死は重ねられたのだ。命が産まれた時からではなく、ずっとずっと昔から。

それに気づいた時に察した。

「僕のやれるべきことは違う」

やれるべきこととは、悪霊を祓うこと。

悪霊から死に追いやられた人間は幽霊になり易い。それ以前に、老衰以外の死は悲しい。外部的要因なのだから。それを排除したいと思い、心にとどめた。

以来、こういった霊は全て無視している。


命より年下の、中学一年生になった霊能者と会ったことがある。東京支部に赴いたときにだ。

その時の少年の顔は希望に満ちており、将来の展望を話していた。命に直接話したわけではなく、それを盗み聞いただけだが。

少年は世界に溢れている霊全てを天国に送ってあげたいと話していた。

しかしその半年後に命を落とした。

年末に行われる霊能総全体で黙祷を捧げる日に、スクリーンに映っていた。


死因は圧死。

大した戦闘能力も持ち合わせていないながらも、ネームドに戦闘を仕掛けたらしいと風のうわさで聞いた。


この話から学ぶべき教訓は、自分の手の届かないことをしないこと。

自分が出来ることを、出来る分だけ、着実に確実に。


自身は、八大怨霊が内一匹を祓おうとしているのに。


白菊はそんな危うい綱渡りをする命が物凄く心配だったのだ。だから行動できるときはいつでも一緒にいる。

そうでもしないとどこまでも走って行ってしまう。

無邪気な子供のように、見えなくなる。


白菊の心配は、電車の中で無視を決め込んだ命をみて思い出された。

無視しようとしてする無視は、見えていないからこその無視とは毛色が違う。無理している。本当は祓って救ってあげたいはず。でも、行動に移せば二度と今の命の精神境地に至ることは出来なくなる。


だから、話す。気を逸らすように。目一杯話しかけて、気を逸らしてあげる。辛くならないように。


「(今日のお夕飯はどうしましょう?)」

「(明日こそ私とゲームで勝負です!)」

「(お勉強ははかどっていますか?)」


命はそんなことも露知らず、白菊の思いやりに乗って楽しく時間をつぶした。

そう、白菊は思っていても、命には全て通じていた。

どれだけ二人は対等な関係だと命が言っても、主従関係にあることは崩れない。


子と親が戸籍から離れることが出来ないように、命が生まれた瞬間から主従関係が構築されてしまった。

だからこそできるテレパシーのような脳内会話であり、だからこそ白菊の想いは何となく命に伝わってしまう。

互いに想い合い、この関係は成立している。


色々な会話をし、目的の駅に到着して二人は電車から降りた。

ICカードを通して改札から出て、スマホの地図アプリで渡されたメモの住所を打ち込み道順を確かめる。


「ここから……ほんの数百メートル程度だね」





着いたマンションはめちゃくちゃ高かった。

ここに住んでるの?と二人して口を開けて見上げてしまったくらいだ。


開いた口を何とか閉じてエントランスへ向かい部屋番号を押すインターホンを探す。このタイプのマンションは中から開けてもらえないと二つ目の自動ドアは開かないものだ。

「失礼、お客様でしょうか。訪問先のお部屋までご案内しますか?」

「うぇ!?あ、結構です大丈夫ですありがとうございます」

タジタジになりながら早口で答えると、会釈して定位置と思われるところへ戻っていった。


「びっくりした、ホテルマンみたいな人いるんだね……」

「以前ネットに書いてありましたが、現実にいるとは……」

普段とは違う世界に足を踏み入れたみたいで心臓の鼓動が早まる。


「ええと805、呼び出し。と」

数字を入力し呼び出しのボタンを押すと、ピンポンと軽い音が三回流れた後ガチャンと音が聞こえた。

そして銀色のスピーカーから静かに声が聞こえた。


「どちら様?」

「僕、雪代って言います。先ほど霧雨さんからお話があったと思うんですが」

「…………ああ、あの電話の話ってキミのことだったのか。いいよ入んな」

言葉と共に目の前の自動ドアが開いた。コンビニにあるようなものとは違い大きく、そして静かだった。


中に入ってからエレベーターで八階を押して乗り込み、頭にかかる重量感を感じながら到達した。

エレベーターが開くとそこは本当にホテルのようで、橙色の電球が淡く廊下を照らしている。

このまま奥に進めば双子の十歳くらいの女の子が手を繋いで笑ってそうだ。


「なんか緊張します……」

「だね」

ふよふよと漂う白菊も命の肩に掴まっている。幽霊なのに恐怖に似た緊張への感受性が高いのだからこれまた不思議である。

エレベータから少し歩けばすぐに805号室についた。


部屋の前のインターホンを押す。

エントランスで響いたものと同じ音が鳴り、鍵の開く音がした。インターホンからも入るよう促された。


「お邪魔しまーー………」

扉を開けた、その瞬間。

「すッ!?」

命の額に向かって細長いものが異常な程に早く飛んできた。


緊張のせいだろうか。いつもより警戒心が高くなっていた。だから、掴めた。

掴んだものを手のひらを広げて見てると、それは、

「ボールペン……?」

黒のボールペンだった。それが、扉を開けた瞬間真っ先に飛んできた。

なぜ、ボールペンが。その疑問は直ぐに解けることになる。


「あああああ貴女!命さんじゃなかったら死んでましたよ!」

白菊が扉の先の主へ叫ぶ。

ボールペンに気を取られて前方を見ていなかったが、そこでようやく目の前の人間を目視した。

そこにはダーツを投げる様に指の間にボールペンを挟み、紫色のネグリジェに身を包んだ女が立っている。


そしてにやりと口元に笑みを浮かべてノーモーションで二本ボールペンを放ってきた。

だが来ると分かっていれば対処は容易。いくら早くてもあくまで人間の投げるペンだ。霊力で強化した命にはキャッチボールの球を取るようなものだった。


意趣返しをするとばかりに先に掴んだペンで二本を撃ち落とした。こんな芸当も出来るんだ、という見せしめのような部分もあった。

それを確認し、再び女は歯を見せる様に笑った。


「八ミリのボールペンで死にはしないさ」

「そもそもペンは投げるものじゃないですが」

「違いない。さ、入りなさい」


違いない。そう認めたのになぜさっきはペンを投げたのか。疑問を解消できぬまま靴を脱いで部屋の中にお邪魔した。

ちょっと長い廊下を抜けてリビングに案内されると、そこにはまるでバーのような空間が広がっていた。

少し暗めの照明で照らされたリビングルームは拓けており、部屋の端にはジュークボックスすら置いてあった。


「暗いだろう。すまないね、寝る前の三時間前にはこの暗さでないと寝つきが悪いんだ」

「いえお構いなく。お話を伺いに来ただけなので」

「そんなことより!攻撃してきた理由を教えてください!納得できない理由なら殴りますよ!?」


ワインセラーを漁る女性に白菊が憤慨し声を荒げる。

それを意にも留めないように一本を選んで、キッチンのガラス棚からからワイングラスを取り出した。


グラスに注いで、一口含んでからゆっくり時間をかけて飲み込み、声を発する。

「理由は、そうだね。ウワサの雪代君があの程度対処できないのであれば話は聞かせられないと思ったからさ」

また一口含み、飲み込む。

所作が一々艶めかしい。先の投擲は間違いなく普通の人間なら死亡、ないしは大けがを負っている。それを忘れさせるような仕草だった。


大人の女性の色気が部屋を満たすようだ。暗い照明も相まって、命も白菊がそばにいなければ心に邪な感情が芽生えてもおかしくない空間。命は密かに白菊に感謝した。

女性は立ったままの命達をソファに座るよう目くばせし、それに従い大きなテレビのある前のL字型のソファに腰を下ろした。

ちなみに座ったのは命だけで白菊は命の後ろに浮いて背中から手を回していた。


女性はワイングラスとチーズの入った皿を持って命の斜め前に腰を下ろし、目の前に鎮座しているガラスのローテーブルに持っている二つを置く。

そして揺れる髪の毛を払い、白菊の猛追の講義の目に答えるように口を開いた。

「当たり前じゃない?追っているのはネームド。不意打ちにすら対応できないなら、大人しく低ランクの悪霊で日銭を稼げばいい。それが身の丈に合った能力の発揮の仕方。違う?」


当たり前と言えば当たり前。背伸びすれば、飛び出た杭の様に打たれるなら最初から飛び出ないように、死なないように生きればいい。死ぬよりはマシであり、それでも多少裕福は出来なくとも普通に生活できるのだから。

「一理あります。というか概ねその考えに僕は賛成します」

答えを聞き、またニヤリと笑う。


「いい考えだね。自己紹介が遅れた。私は望月、望月森。隊長候補の超有能調査員だよ」

「こちらこそ遅れてすみません。僕は雪代命です、霊能者です。で、こっちの人が僕の……雪代神社に仕えてくれてる守護霊の白菊さんです」

「……どうもです」

「うん。礼儀正しくていいね。さっき玄関で靴もちゃんと揃えていたし。親御さんの教育がいいんだね」


うんうんと頷きチーズとワインで口を湿らす望月。彼女のお眼鏡に叶ったようだ。

そしてネグリジェからスマホを取り出し、画面を命に差し出した。そこにはIDが映っている

その画面を見せられて、現代人で意味が分からない人はいない。

無言で命もスマホを出して、IDを自分のスマホに登録した。


双方の画面に「友達追加しました」の画面が確認できると、望月は素早く画面を操作し、命に何かを送信した。

バイブレーションによってそれに気づいた命は画面を確認する。

「これは?」

映っていたのはウサギが手を振るスタンプと、三十ページほどのPDF。


「ある程度は霧雨さんに聞いたから。それあげる」

中身を開いてみると、それは報告書の全文だった。最初から最後まで、余すところなく全ての情報が送られていた。


「霧雨さんから機密扱いだからファイルで渡せないと聞いていたんですが」

「そうらしいね。でもキミがばらさなきゃ誰も気づかない」

「見返りは?」

即刻言葉を返す命。機密を漏らせば望月の立場が危うい。それなのに初対面の命に、それも会って三十分も経っていない相手に命運を握らせるようなことを行うのには、何か取引の材料になったからではないかと考えたからだ。


その返しに若干瞳を大きくした望月は、ふぅと吸い込んだ息を吐いて苦笑する。

「疑り深いね。そういう子供らしくないのは、可愛げなくて好きじゃないけど、そういうことをさせるような環境に置いた人間も好きじゃない」

グイっとワインを煽り、中身を全部飲み干した。先までの妖艶さは少し薄れたようだった。

命の疑問に答えぬままキッチンへ足を運び、次はグラスを三つ抱えて戻ってきた。


「アップルジュースは飲めるかい?」

「はい」

「ありがたく」

二人は答えた。三つの江戸切子のグラスにアップルジュースを注ぎながら、望月が話す。


「もちろん見返りはいらない、私は"いい大人"ってヤツに憧れているのさ」

「機密を漏らすのは"いい大人"ですか?」

「会社や組織のルールに従うのは大切だし、大事で、守らなければならない。でもね」

火照る頬を冷やすようにアップルジュースをグラスの半分飲んだ。


「でも、それは"正しい大人"であって"いい大人"じゃない。三者三葉捉え方は様々だけど、私にとっての"いい大人"ってヤツは他人のために子供のために動ける大人のことさ。決して大人のルールに巻き込むことじゃない」

「それは霧雨さんを"いい大人"じゃないって言ってるのと同義です」

望月の持論に切り返す命。少しの怒気が交じっていたのかもしれない。渡せない、と命に行ったのはほかでもない霧雨なのだから。

だが、望月の声色に変化はない。


「霧雨さんは"強い大人"なんだよ。と言っても、腕力があるだとか喧嘩が強いとかそういうことじゃない」

「……わかります。口にするのは難しいけど、霧雨さんは強い。端的に言うなら、心が」


霧雨快晴と云う男は悪霊を祓う能力はない。しかし、霊を祓う霊能者である。

つまり、善霊(ぜんりょう)を祓う。力量は多少あれば問題なく、霊符による除霊を行う。

善霊を祓うのは心が苦しくなる。未練を断ち切るために動くからだ。


そして善霊の八割の未練は家族関係。

喧嘩して出て行ったら交通事故で死んだ、謝りたい。

子供を預けて出かけた旅行先で事件に巻き込まれて死んだ、謝りたい。

将来を誓い合った矢先に不治の病に侵され死んだ、謝りたい。

そんな思いが大半を占める。

それを一身に受け、更に遺族と面会し成仏させる。


並みの精神力じゃやっていけない。

それを行うのが霧雨快晴なのだ。全国でも数少ない、おそらく二十人もいないであろうことをすることの出来る人間だ。

だからこそ命は、腐った神奈川支部の大人たちの中で輝いて見えた霧雨を信用し慕ってる。


「私は絶対に霧雨さんを否定なんてしていない。そこは分かって欲しい。あの人をバカに出来る人間なんてこの世にはいないハズだよ」

「分かりました。望月さんと霧雨さんでは考え方が違う。そういうことですね」

その答えに納得し、チーズを一かけら摘まんだ。

それを見て命と白菊がアップルジュースを口に含んだ。


「「美味しい……!?」」

「でしょ。それ高いのよ。500mlで一万円しないくらい」

部屋の景観を崩さないくらいの値段が飛び出てきて目を丸くした。そんなものを一瞬で飲んでいたのかと思うとちょっとだけ胃が縮んだ気がした二人だった。


こんなことがあってか、少しだけ緊張もほぐれて改めて斜め方向から見る望月は淡く輝いて見えた。

ショートボブでふわふわとした紫紺の髪も、下手すれば女神のように見えた。

身近に白菊という絶世の美女が居なかったら、もう恋に落ちて溺れているに違いなかった。


「……ということでちょっと試したくなったのさ。って聞いてる?雪代君」

「き、聞いてますよ。聞いてます」

本当は少し聞き飛ばしていた。だが概要は掴めた。


「というか本当なんですか?神奈川支部での一番の強さを持つのは僕だって」

「もちろんさ。高校一年生、十五歳であの除霊実績は感服するよ。ちょっと異端のようにも感じるけど、西には土井雹牙(どいひょうが)なんてバケモノもいるし、最近は高校生の三人組で八大怨霊の一角を崩したって話も聞いたからね。全然常識の範疇の異端さだよ」

その常識の範疇を越えなければ、復讐の対象である八大怨霊の『骨肉(こつにく)の怨霊』には手すら届かない。指先で触れることすら叶わないかもしれない。軽く心が燃えた。


「評判通りだった。私には霊力で悪霊を祓う力はないけど、これでも頑張って指先に霊力を込めることが出来る様にはなった」

そういうことか、と納得した命。先の人間離れした速度でペンを投擲できたのは、努力のお陰なのだ。

その努力がどれだけ大変だったか。

霊が見える、感じれるレベルの霊能者が自身の霊力を自覚し、応用できるようになるまでには途方もない時間が必要だ。それに指先に集中させるのは至難の業。


命はこの望月森という女性を信頼できる人間だと、心のどこかで思い始めていた。

血の滲む努力をした大人を見たのはいつぶりだろうか。一番大人と接する場の多い霊能総ではほとんどがろくでもない人間だった。

そこに足を踏み入れたのが中学一年生の頃。大人に絶望して拒絶するには十分な精神年齢だろう。

その拒絶の心を溶かしつつある。

命の変化は白菊にとっても望むべき変化だ。


「さて。本題がまだだった、キミの聞きたいことってなんだい?霧雨さんはなんにも教えてくれなくて」

それは霧雨が二人を出来るだけフラットな状態で出会わせるためのちょっとした策略だった。


「えっと……」

本懐を忘れかけていた命は、さっそく先程スマホに届いたPDFから該当の箇所を示した。

相も変わらず命の目には"■"が映るし、白菊にはモザイクが映った。

それを眉をひそめながら見る望月。


ほんの少し見て、考えた。

「この『その結果については調査報告書本編の項番■を参照』のどこかおかしい文言があった?」

「んん?あれ、なんでしょう。久々に頭痛ってものに襲われた気がします」

発音が変。

正確に比べることも出来ないし、きっとどれだけ聞いても耳には残らない発音。そこだけは一致している。


「そっか、白菊さんは聞いたのは初めてだったよね」

「ん?なにかおかしかった?報告書自体は問題なく通ったはずだけど」

「どちらかと言えば少数派なのは僕達なので、もしかしたらおかしいのは僕達の方なのかもしれないのですが」

そう前置きして現状を望月に話して聞かせた。


見えているモノが違うこと。発された音が分からないこと。でも呪いではなさそうなこと。思いつく限りの違和感を覚える点を話した。


「そうか、■が聞き取れないのか。そうだな、これを別の言葉に置き換えて説明するとしたら」

考える様に一呼吸おいて、顎に手を当てて話す。

「ヱ繧ソ繝シ繝ウ怜喧縺代嵂ス、ア・」

「「うわぁッ!!」」

突然放たれた呪詛のような言葉に耳を塞いで叫んだ。


今この瞬間の命と白菊の脳内にはとてつもない程の疑義が溢れた。

数学の難しい問題に直面し、参考書や答えを見ても意味が分からないまま心にしこりを残すあの感じ。あれを数倍に濃縮した感情が脳内をとめどなく埋め尽くす。

アイスを一気に食べた時に来るような、耐えがたい鋭い頭痛。

頭痛と眩みに頭がおかしくなりそうだった。


ふらつく頭と歪む視界の中、ポケットから散乱させるように霊符を取り出して[浄]の霊符を発動させた。

しかし変化なし。

発動しなかったのではなく、効かなかった。

「どうした雪代君!」

「あ、頭が……!」


だが数秒もすればその痛みは急激に冷めた。

汗だくの身体から熱は奪われ、冷却水を浴びせられた気分だった。

霞んでいた視界の端に映る紙の束。そこには例の文字が。最悪の気分で、これ以上追及しようという気分には到底させなかった。

「それが狙いかよ……ッ!」

なら負けられない。頭痛程度で止められると思うな。


頭痛には襲われたくはないが、ここで諦めれば解決への糸口を失うかもしれない。

望月の言う通り、神奈川支部では随一の戦闘能力を誇る命。ならやれるのは自分だけではないか、と奮い立たせた。


「大丈夫?急にどうしたの?守護霊さんも、尋常じゃないくらい汗が……」

「はぁ、はぁ……。大丈夫、です」

心配をする望月に絞り出すように応える。大丈夫なわけなかったが、ここで折れるわけにはいかなかった。

玉のように浮かぶ汗を強引に袖で拭い、立ち上がる。命の目の端にいた白菊は宙に浮いて目を瞑っていた。霊力を体内で循環させてあるべき状態に戻しているのだ。


そんな様子をみて、望月もまた大丈夫ではないと判断したのかもう一度ジュースを酌んで渡す。

ありがとうございます、と一言呟いて一気に中身を煽った。

清涼感のあるリンゴの酸味が脳を冷やして、今の状況から冷静な位置へと二人を戻した。


「拭きな」

出されたタオルを、ちょっとした躊躇と共に受け取り目に見えるであろう顔を拭いた。

恐ろしく手触りのいいタオルで、汗をグングン吸収した。上物で間違いない。


「守護霊さんは、大丈夫?」

「……ええ、何とか落ち着きました。ご迷惑をおかけしました」

「いいよ。原因は分かってるし」

白菊は人間とは違い発汗する機能はないので霊力が漏れてしまう。結果悪霊を呼び寄せることに繋がるので謝った。

あくまで白菊は明かすことはないが、主人の状態によって守護霊もその影響を少なからず受ける。

頭痛を感じれば1.5倍くらいの痛みが襲ってくる。主人の危機に対する感知もこの現象から来ている。


「でもどうしましょうか。直接的な視認や言葉は認識が出来ませんし、説明をしようとすればそれを抑制するかのように呪言に成り果てる。これでは解析のしようもありません」

そんな白菊の言葉にややあって望月が口を開く。

と言っても独り言のような音量だったが、しんと静まった部屋では良く聴こえた。

「そういうことなら、試してもいいかもしれないな……」

「試す、とは?」

「第三者を頼ろう」


独り言に反応した白菊に、ためらいもなく答えた。

口に出す事で結論として自身で決定づけたのだろう。


「だいさんしゃ?」

馬鹿みたいにおうむ返しをして口を開ける命に、望月はチーズの一かけらを放り込んで立ち上がった。

そして人差し指を立てて教鞭を振るう教師の様に命と白菊の前で右往左往し話し出す。

部屋の薄暗さと、彼女の大人びた表情で形はかなり凛々しいのだが、恰好がネグリジェなので目に毒だった。


「私や霧雨さんには"■"として理解し、発音もしているつもりだけど、何故か雪代君と守護霊さんは目で確認することも耳で聞きとることもできない」

一つ一つ確認するように、聞かせるように、自分の中で整理するように羅列する事実。

「説明しようとすれば呪言に聞こえて激しい頭痛に襲われる。けど、なんで私と君たちで違うのかはハッキリしない。でもおおよその共通点はある」


「共通点?」

「なに、簡単だよ。"霊が見える"。霊力があると言い換えてもいいね」

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