虚影⑪
颯爽と登場し、女子であるとはいえ高さ二十メートルから落ちてきた人一人を苦も無く受け止めて見せた作務衣姿の男。
作務衣を着ているだけでなく、履物も草履のようであり、この男だけまるでタイムスリップしてきたようである。
先ほどまで死闘を繰り広げていた三人にとっては、逆に警戒心が強くなった。この一時間にも満たない戦闘で怪しいものに対する警戒心が二段飛ばしで高くなった気がする。
しかし、先のセリフの通りその男は雪代命を知っていた。
だが逆に命はその男を知らなかった。一歩通行な知人関係である。
「えと、助けてくれてありがとう?ございます?」
「なんや歯切れ悪い」
「……どちらさん?」
作務衣男について訪ねる春花。
「えーと……」
「……マジ?ボクの事覚えて………ないんやな!わかる!わかるぞぉその反応!うんうん、まあこーんな小さい時のことやもんな。しゃーないわー」
返答に困る命を差し置いてあくまであっけらかんと話す作務衣男。その間にもいつも間にか赤城に対して[癒]の霊符を使っていた。少なくとも敵ではないらしい。
度重なる疑問点はとどまるところを知らないが、その怪訝な目線に作務衣男は自己紹介を始めた。
「ボクは煙霧言ノ葉。由緒正しき煙霧家のお坊ちゃんで、君たちの大いなる味方やで!」
そう名乗りを上げながらサムズアップする煙霧。器用に片手で赤城を抱えている。
少々の沈黙があった。
「スベってないで」
いやいや、と心の中で思っても口には出さない良識は春花にはあった。
「……まあともかく。君たち、よーやったわ。どうも薄気味悪い空気は感じとったけど、いかんせん山ん中だったし見つけんのにえらい苦労したわ……。あの霊力ビームがなかったら見つけられんかったで」
やれやれと肩をすくめながら自然に近寄ってきた白菊に赤城を手渡す。
「最後の方しか見れんかったけど、アイツはBランクの最上位、下手すりゃAランクに片足突っ込んどったくらいの霊力やった。君たち、マトモに戦えんの二人だけやったのに祓えたのヤバイで」
その言葉に少し引っかかるものを感じた春花は、カーブボールのように湾曲した言い回しではなくドストレートで突っ込んだ。
「マモトに戦えんのが二人……?命もそこの嬢ちゃんも……赤城も霊力量的にはもう俺と大して変わらないくらいに消耗してるよな。なんでこの状況で戦闘を行えたのが二人だって言いきれんだ?あんたまさか……」
考察や予想など、頭を使って打開することが嫌いではない春花だが、危機を乗り切った今の状況では悠長に相手に合わせて無駄に体力は消費できない。
この煙霧という男からはひょうきんな外面を構えている割には、その内側から漏れる別の感情が顔を出している。
それを隠そうとして隠れていないだけの大きすぎる内面なのか、それともそもそも外面だけ取り繕っていて春花たちには特に関心がないのかは判断がつかなかった。
その証拠に白菊は一切警戒を解いていない。赤城を抱えに近寄ったのだって、素直に渡さなければ力づくでも奪うつもりだったのだ。
「そりゃあ…………うん、まあまさかその通り。ボクは結構途中から近くおったんやけどな」
「なら助けてくれても良かったんじゃない……ですか?」
「は?面白い事言いよんな兄ちゃん!……名はなんて?」
なにも取り繕うことなく認め、更には質問で返してくる肝の太さに仰天する。
更に深まった笑みをして見せる煙霧。戸惑いつつもペースに飲まれないよう毅然とした態度で、更に言えばちょっと上から圧をかけるように言い返す。実際身長は春花の方は上だ。
「薄雲……薄雲春花っす。……で、直ぐに出てこなかった理由ってなんだ?」
一瞬敬語で話すべきか、と思ったが目を見てやめた。こういうタイプは敬語でもタメ口でも気にしない。
春花の経験上、煙霧のような人間は結果を重視したがるタイプだと予想できた。過程がどうであれ楽しむが、結果は残さなければ意味を見出さない。基本スタンスが自由人である。
だからこそ命は褒められたのだ。戦力不足ながらランクの高い悪霊を祓えたその結果を。
これが他の人間なら称賛はすれど、多少叱ることはするだろう。命含め、今回のメンツは全員未成年であり、無茶をする年頃ではないからだ。
だが煙霧言ノ葉は叱らない怒らない。「何とかなったし問題ない」という豪胆な考えではなく結果として生き残っているのだから叱る道理はない」と云う考えである。
「うん、薄雲春花クンな、憶えたで。そんで質問の答えやけどそれはモチロン、君たちの強さを知りたかったから。まあ、霊力はあれど主戦力が二人っちゅーのは予想外やったけどな!ボクは範囲型の攻撃手段が多いんや。弱い子たちがおったら危うく殺してしまうねん」
答えと共に、明確な、それでいてドロドロとした煽りを受けた春花の頭に血が上る。
「弱い、弱いね……。ならあんたは強いのか?」
「当たり前や。ボクはこれでも霊能総の幹部なんやで?」
幹部。
霊能総には、本拠地である京都含めてそれぞれの支部長クラスの「幹部」と呼ばれる人間がいる。
その選定基準は明確な実力主義。……だけに留まらず、指揮能力や柔軟な対応力、人を見る目などが秘密裏に採点され見事基準値を超えると通達がある。その通達に従い、試験をクリアすると幹部へと昇格する。
幹部は各支部の支部長の様に(例えば神奈川支部長の田上些末など)名ばかりの役職ではない。創設者である出雲英知の意思を最大限に汲み取った、いわば霊能総の支柱である。
今現在、全国に点在する支部に最低一人ずつ配属されてはいるが、幹部は一癖二癖ある変人ばかりである。放浪している者も少なくはない。
それは幹部になった際に与えられる、いわゆる特典のような権限が関係している。
多様な特典の中の一つに、要約して「一定期間(事故や故障、悪霊との戦闘による負傷を除き)悪霊を祓わなければ、除籍処分とする罰を受けない。また、一ヶ月毎に歩合外の定期給与を支払う」と云う内容がある。
つまり、死ぬか自身から抜けない限りは永久所属でき、働かなくても永久的に金が入ってくる。
世界中を旅行しまわっても、特に苦労することなく毎月自分の口座にそれなりの金額が入ってくる。
それが実現できるほどの実力を持つ霊能者、それが霊能総の幹部である。
「まあ武術はあんま得意やないけどな。ボク、頭脳派やねん」
それを聞くが早いか、春花はガントレットの装着されていない右腕で顎を狙って攻撃した。
霊力が少ないながらも、フィジカル面だけで比べれば命に比肩しうる程である。
実際には出場していないし、春花自身ルールも知らないながらも総合格闘技にエントリーすれば日本でも五本指に入る程に強いのでは?と本気で命は考えている。
そんな、重りの無い右腕で放つノールックアームショット。常人であれば喰らった側も、周りで凝視していたとしても何をしたか分からない威力と速度だ。
春花は確実に"入る"と思い打ったのだ。誰であってもそうだろう。
しかし、その後の奇妙な"空き"によって拳が煙霧の顎を撃ち抜くことはなかった。
煙霧が避けた。言葉にすればただそれだけである。しかし、避ける前に"言葉"を発したのだ。
「怒れる拳、笑顔に当たらず」
音にして十五音。とても後出しで発せる言葉であるはずもないのに、その言葉は春花の耳朶を打った。
そして、当たらず。
「「「…………。……!?」」」
「当たらんかったのビビったやろ」
ククク、と笑う煙霧を春花は……春花に留まらず命も白菊もあっけにとられて見ていた。
その真意を懇々と話し出す。懇々と言っても、命には"ただ話しただけ"で、意味の分からなさは変わらなかったが。
「ボクは「一瀉千里」ってコトバを知っとってな?メチャクチャ速く話せんねん。文字通り"音速"で。流石のその拳も音速は超えとらんかったな。音速超えるんはマンガの中だけってことやな」
命の頭には「?」の一文字しか浮かんで来なかった。
今の説明は、煙霧が四字熟語を知っていて、言葉を発したせいで春花の攻撃が当たらなかった。そう言っただけである。
説明?が終わって春花を一瞥したのを堺に更に拳を打った。だが当たらない。
「あー、無駄やで。言ったやろ、「怒れる拳、笑顔に当たらず」って」
「言ったからなんだってんだ、よッ!」
唐突な回し蹴りが炸裂。
「あっぶな」
これには煙霧も上体を逸らした。
「蹴りはダメやで蹴りは。パンチしか効果ないねんコレ……」
その言葉を受けて白菊は頭の中でポンと手を打った。
「あ、エンムって……。まさかあの煙霧!?一家相伝の術を持つあの!?」
「ボク最初に自己紹介したよね?」
煙霧の呆れ声には反応せず、命と春花に語った。
「煙霧と云えば、言の葉を霊力によって具現化させる能力を持った一族の家名です!その歴史は長く、既に四百年近い歴史を持つ霊能力の中でもかなりの実力を持ち続けるとされています。過去の功績だけを挙げれば煙霧に勝てる一族は片手も埋まらないとか……」
「ええ、ちょっとすごい人だったりする?あの人」
「多分、きっと、おそらく……」
「おーい、人を霊力の総量だけで判断するんはアカンで。ボクひとりでも君ら皆殺しにだって出来るんやからな?」
一瞬だけ立ち昇った霊力に咄嗟に構えた命。春花は人間としての本能でそれ以上攻撃することはなかった。
あっけらかんと構えた風貌ではあるが、ある程度の実力差がある、と認識させられた一瞬だった。
「……ふぅん。一応アホの集まりって訳でもなさそうやな。特に……そこの嬢ちゃん」
「……え、赤城さん!?」
白菊の手から離れ、地に寝かせられていた赤城澪が刀を振り切った状態で膝立ちのまま肩で息をしていた。
「その反射神経、どないしてんねん。僅か一秒も殺気発してないで」
「天火が、効かない……!」
「なんやすまんな。抜刀したってことはなんかしたんやろうけど……。ボク今「怒れる拳、笑顔に当たらず」のコトバ継続中やねん。拳と剣は読みが同じ、ってな」
にこやかに赤城を見つめ、ポケットから鍵を取り出した。
「とりあえず、霊能総に行こうや。赤城チャンの傷は[癒]の霊符で完治できるほど浅くはないで」
★
煙霧言ノ葉の車は今埼玉に差し掛かった辺りを走行中だった。
レクサス LC クーペ。それが煙霧が操縦する車であり、夜間の田舎を走る様は爽快感に溢れていた。
ヨロヨロと赤城に肩を貸しながら歩いた命と白菊は、あまり車に詳しくないこともあってかあまり驚きはしていなかったが、春花は身長の関係で肩を貸さずに歩いていたこともあり、直ぐに反応を見せた。
ちょっと前までは一触即発の雰囲気が漂っていたにも関わらず、車を見た瞬間に興奮冷めやらぬ状態となった春花に若干煙霧も引いていたが、同じ趣味を持つ者として笑顔で車の魅力を語り合っていた。薄ら笑いだった時とは大違いである。
それが約一時間前のことである。
「――ってこともあって、命さんったら凄く成長したと思いませんか!」
「うーん、凄いな命クンは……守護霊サンの熱量も凄いケド……」
今は白菊のターン。
煙霧はまだ命が齢三つか四つに差し掛かる頃に雪代神社、果ては雪代家に訪れたことがあったそうだ。
その時とは風貌がかけ離れており、記憶も曖昧な命はともかく白菊も完全に誰だか分からなかったようだ。
それでも何日かは雪代家に滞在していたこともあり、十数年前のことと言えど白菊にもその頃の記憶が蘇ってきたようだ。
今では数少ない小さい頃の命を知る人物であり、命については一切遠慮がない白菊はここぞとばかりに煙霧と昔話に花を咲かせていた。花を咲かせた、と言っても流石に煙霧は数日しか会っておらず、そこまで熱心に語ることも無かったため八割は白菊による命に関する成長記録だったが。
そしていつの間にか、煙霧はちゃっかり全員(白菊は除き)名前呼びになっていた。
赤城は未だに警戒が解けないのか、必死に眠気を抑えて迎撃に備えている。
「澪チャン?もうそろそろボクが敵じゃないって分かって貰えないものです?」
「無理」
「あちゃー。アレは悪手だったかも知れへんな……」
即刻否定されて心の内で傷をこさえた煙霧。
「煙霧さん、赤城さんは……その、神奈川支部長に色々と嫌な思いをさせられてまして……。霊能総側の人間の警戒心が大変なことになってるんですよ」
「あんのクソデブまぁたやらかしたんか。……命クンも命クンやで。なんでアソコにこんなメンコイ子を連れてったん」
「一番近いの神奈川支部でしたし……東京支部に行こうとはしたんですけど、流石にあの時間だと」
「だとしてもや。クソデブは数ある支部の支部長でも特にヤバイ方やで?」
ハンドルをコツコツと指で叩いて不快感を示す煙霧に対し、少しだけ溜飲が下がった赤城だった。
赤城が神奈川支部長田上から受けたあの言葉は、周りに白菊以外男性しかいなかったこともあり、かなりきた。
女性体として根本的な恐怖を見せられた。親を失って以来感情を抑制する生活をしていた赤城には久しぶりに思えた『恐怖』の感情だった。これはきっと男には理解できない。そう思って誰にも話していなかった。神奈川支部には近づかないと決心させるほどの出来事だったのだ。
「本拠地、東京支部に移し替えたらどうや。ボクもしばらくは東京に居るつもりやから。なんなら明日案内しよか?」
「そう、ですね……。正直赤城さんのことを考えると、あそこはダメな気がします」
「俺もそうした方がいいと思うぜ。男の俺ですら背筋を氷漬けにされるような思いだったぜ」
その理解できないであろう感情について真剣に話し合う者たち。
赤城にはその光景が逆に異様に思えた。
そもそも赤城は人間関係を構築するのが致命的に下手である。感情を表に出しすぎないため笑わず泣かず。まるでロボットでありキレイなお人形さんだ。
それ故に痛みは理解されない。
ただ赤城が投げかけられた言葉としては、ただ気持ちの悪い笑みと共に容姿を褒められたことと、高校を卒業したら私の元に来ないかという下世話な誘い文句だけだった。
露骨に気持ち悪がっていたため多少オーバーなリアクションだったが、アレが素なのだ。人間関係が構築されていないイコール対人スキルの欠如。これが挙げられる。
多かれ少なかれ、容姿端麗である人間なら下卑た視線や言葉など投げかけれることもあるだろう。それに対しての耐性がほぼゼロに等しい。それを赤城は自覚している。
「(それを乗り越えなきゃ、強くなれない)」
自覚し、判っており、改善もしようとした。だが、心がついていかない。
赤城澪の心は繊細で、復讐を決意など出来ようもない小鳥のようであった。それさえも自分の無表情さで「強い人間である」と周りを誤解させる。
ニワトリと卵状態だ。
しかし命達は優しい。その負のループから抜け出せそうである。
今まさに田上の話をしている男三人を見て、警戒が消え失せつつある赤城だった。
「ね、赤城さ……。澪さん、大丈夫ですよ。きっと命さんは貴女を見捨てません。だから今はゆっくりとお休みになって下さい」
背中を押されるように赤城にだけ聞こえる声で白菊が呼びかけ、赤城は眠気に身を投げた。
「ところで、澪チャンはどこで降ろせばいいんや?」
「あっ」
一旦、春花や煙霧も含めて全員雪代家にお泊りとなった。
★
土曜日。
一般的であれば二連休の始まりの日であり、全人類が待ち望んでいたと言っても過言ではないゴールデンでスーパーなスペシャルデイ。
日本人に限定すれば土曜日と言えば何をするだろうか。
日曜日に備えてゆっくり休む。逆に、日曜日の休みを最大限活用するために遊びに行く。
土曜日にはバイトに出る学生もいるだろうし、会社に出る社会人もいるだろう。
どんな事情があれ、土曜日は日曜日にはない特別な感覚を備えた休みであるし、それを最大限活用しようとする人が大半であるはずだ。金曜日に飲みすぎてダウンして、午後まで起きることの出来ない人間もいるだろうが。
そんな全人類のオアシスたる土曜日の雪代家の朝は早かった。
朝五時半過ぎ、命はランニングに出掛けていた。他の面々は別部屋で寝ていたため、いつものように一人で行う日課だ。このランニングの後には境内の掃除が待っている。
階段を駆け下り、昨夜煙霧が乗っていたレクサスを横目に見ながら大きい公園に向けて走り出す。約三十分をかけて四キロメートル弱のスローペースのランニングである。
日によって走るコースを変えているのだが、今日は緑の多い木々が生い茂る道を走ろうと思った。
久々の激闘を繰り広げた昨夜の疲れは未だに身体に残っているが、このランニングと境内の掃除はもはや命の一日を始めるルーティーンと化していた。
しっかりと行った準備運動によって手足は違和感なく動いて、いつもの走りをしてくれている。
軽く息を吐きながら、ちょっと汗ばむくらいの季節を走るのは非常に気持ちのいいものだった。
眼前には命よりも遅いペースで走るランニングウェアを着たおじいさんが居た。一度も話をしたことはなかったが、ここ数年毎朝見かけるため二人は既に互いの顔を見知っていた。
おじいさんを見かけると毎度毎度「おはようとあいさつすべきかな」と思うのだが、ランニングペースを崩してはいけないと考え直して声をかけることなく走り抜く。そうこうしている内にタイミングを見失ってしまった。
いつものように声をかけずに走り抜き、公園の中心まで到着した。ここで一度水分を取り別ルートで帰るのが命のお決まりだったのだが、どうやら昨日の疲れによって頭が働かず自動販売機に入れるはずの小銭を忘れてきてしまったらしい。
「まあ、別にいっか」
独り言をつぶやくと踵を返す。ちょっとだけ疲れた脚を手で揉むと肩をぐるりと回す。これもまたルーティーンの一つであった。
その間に、さっき抜かしたおじいさんが来て自販機でガコンッ、ガコンッと二本飲み物を買った。
「ほれ」
「え?……いいんですか?」
取り出した一本を命に差し出すおじいさん。
ニカっと笑うその前歯が一本欠けているが、毎朝走っているからか歳不相応な生気が漲っている。
「おう。ダメなら最初からしねえさ。……いつも飲んでるソイツで大丈夫かい?」
「では……。ありがとうございます、コレがいいです」
「遠慮しなさんな。今からの時代を作るのはキミみたいな若いモンだからな」
若干大げさな言いようだが、豪快に笑うと手に持ったコーラをがぶ飲みした。そしてものの数秒で飲み干してまるでビールでも飲んだかの様に大きく息を吐いた。
「やっぱコーラは美味い!日本の未来は明るい!」
「すっごいすね」
「この歳唯一の特技と言ってもいいな」
ガハハと笑い、缶をゴミ箱に入れるとまたなと手を振って走り出していった。
結局命はこのおじいさんと関わりを持ってしまった。これから会う時は挨拶が必須になる。それもまた悪いことではないなと、手に持った冷たいココアを飲んでおじいさんとは別ルートでランニングを再開した。
爽やかな朝である。
誰も心に傷など抱えていないかのように世界の時間は回っている。
深呼吸をし、息を吐くとなぜか自然と笑みが零れた。
世界が自分を祝福しているかのようだった。
それを許さない自分もいる。
黒い影が背中に張り付いて寄生虫の如く体内で蠢く。「忘れるな」と。
あの日からこの復讐の影が消え去ったことがない。
今はまだ両親のかつての優しさが、白菊の温もりが、春花の強かさが命の心を守っているがそれもいつ瓦解するか分からない。それを理解もしない命自身がいる。
そんな命の心が復讐の影として憑りつく。いわば自身の声ということになる。
「忘れるな、か……」
誰に言われた訳でもない。
この言葉自体はきっと学校の先生辺りに「テストに出すから忘れるな」と聞いたことはあるだろう。
だがそれ以外ではない。自分が自分に課す使命や義務のようなものだ。それをしなければならない、しなければ死ぬぞ。と言わんばかり狂気的までの自分への戒め。
「……帰ろっ」
無理矢理声のトーンを上げて命は走るペースを上げた。
そのままほど経てば神社の石段前に到着する。
高い石段を一定のペースで駆け上ると、今まで外を走っていた以上の疲れがドッと体の内側を突き抜けた。
鳥居をくぐり抜け、クールダウンがてらいつもの納屋へ竹箒を取りに歩いた。
その途中賽銭箱の前を横切るのだが、そこには作務衣を着た男が賽銭箱に財布の中身をバラ撒いていた。
「ちょ、何してるんですか煙霧さん!」
「ん?ああおはようさん命クン。昨日泊めてくれた分のお礼やで」
明らかに量がおかしい。所々に栄一先生が見える。それも何枚も。
「多い多い多い!」
霊能総に所属し、悪霊を祓って[空]の霊符に染み込ませ、その霊符をカタに霊能総にて金を受け取る生活をしていればある程度の金は手に入る。命にしても実践を行ってから今までで稼いだ額は、一介の高校生では到底及ばないほどである。
しかし、それは生活のことであったり除霊のための道具購入と色々物入りだったせいだ。金銭感覚は世間一般の高校生と変わることはない。
「ボク金だけはあんねん。直接だと絶対受け取らんから知らんうちに入れたろーって思ってたんや。にしても朝早く何してたん?ランニング?」
「え……はい、ランニングですけど……」
「お、そんなら身体温まってんな?ボクが少しだけ修行つけたる。ステゴロでかかってきぃ」
少々寝癖をこさえて、大あくびをかましながらそんなことを言ってのける煙霧に、命は静かに闘志を燃やした。
少し引っかかっていたのだ。
フィジカルにおいては地元最強と言ってもいい春花の拳が通用しないどころか児戯の如く扱われていたことが。春花程根に持っているわけではないし、実際それに対しては文句はないがもう少し早く助けに入ってくれれば赤城は怪我せずに済んだのではないか、とか。
いい感じに体に熱を持った命は、寝起きから今が一番絶好調である。
そして、昨晩言ってたコトバもきっと今は通用しない。
「行きますよ」
「ええよ」
軽く霊力を纏い突進。対して煙霧は作務衣の中に手を突っ込んでいるままだ。
利き足の右で地を蹴り、一歩で離れていた距離を埋めて殴り掛かる。
それを空いた左手の掌で軽くパシンッと受け止めて、流れる様に下へ振った。それだけで拳のベクトルは移されて石畳を
殴ることとなった。
眼前は完全にフリーである。煙霧から喉元へと蹴りが吸い込まれた。
人間の急所である喉は重要器官であり、その分ダメージも大きい。来る痛みに耐える様に頭部を霊力で固めた。と、同時に命の身体は宙に舞った。
痛みはない。まるでブランコに乗る子供の背を押すかのような、痛みを伴わない衝撃。
ふわりと数メートル浮いて何の苦も無く着地した。直ぐに体勢を整えて煙霧を見れば、「まだまだ」というように命を見ている。
真正面からの拳が通用しないなら、考えるべきはいかにあの左手に防がれずに本体にダメージを与えるかだ。
対人戦を想定したことは無いと言えば嘘になる。しかし悪霊相手を想定した命にとってはやりづらい。基本的に悪霊は攻撃を捌いて受け流すことはほぼしないからである。それをしたとしても、出来たとしても実践するのはAランク以上の悪霊以外ないと言っていい。前世が格闘家の魂の寄せ集めのような悪霊だった場合は別だろうが、そんな悪霊がBランク以下に落ち着くこともないだろう。
対人において相手が格上であること且つ、カウンタースタイルならどうすべきか。
「答えは意表を突く以外にないっ」
足払いからの上段への蹴り。しかしいくら補助しているとはいえ、あくまで素人の蹴り技。足払いは軽く避けられて、続く逆足の上段蹴りも左手でパシンと軽く止められてしまった。
「ボク程度の、体術も使っていない程度のボク程度にやられてるようでは甘いで」
しかしまだ止まらない。
霊力で強化された身体はまだ動く。左足が掴まれているなら、それを軸に開いてる他の四肢で攻撃をすればいい。
身体を全力でひねって右の膝で煙霧の顔を襲撃する。だがその膝は顔に届く前に引き戻された。
「うわっ」
「そら誰でもこーするわな」
持たれた足をそのまま地面に投げ捨てるように落とせば、当然軸は無くなる。
地面に落下し、後頭部を打つが霊力のガードは間に合った。
そこに追撃の煙霧の一撃。それも素早くガードして伸ばされた腕に組みついた。打撃も奇襲もダメなら組みつくまで!と考えた故の行動。だがそれも素人行動。春花の組付きの練習を見ていただけの『劣化』とすら呼べないリストロック。
打撃技とは違い、関節技は仕掛ける側の練度によって効果がかなり変わる。
「まーつまり、これじゃ極まらないってことやな」
見た目の細腕に反して力強く組み付いたままの命を持ち上げた。霊力による強化をさほどしているようには見えない。それでこの力の強さである。
「組み付いたままじゃ、またこーなるで?」
「いいっ……!?」
先とは違い"叩きつける"というプロセスに重きを置いた、完全なる攻撃だった。咄嗟に霊力を後頭部に回すが、それでも脳は揺れる。
何も考えられなくなるほどの朦朧とした意識で、視界が揺らぐ。命は経験したことなかったが、限界まで酔いつぶれた状態に似ていた。
思考が纏まらないが、直ぐにすべきことは分かった。
すぐさま離れる事。
この回答は概ね間違っていない。防衛手段の一つである。
「けど、追撃されるんを想定しないのはマイナス点やで」
相手の攻撃射程圏内から逃れ、追撃に備えて警戒する。それが答えだ。
低い姿勢のままの命に蹴りは絶好の標的にしかならない。
「ぐっ!」
腕でガードしていても衝撃は身体を伝う。
霊力で強化された肉体での攻撃は、霊力で強化した肉体を以てしても結局は相殺されてダメージとなる。単純だが、対霊能力者戦においてはどれだけ先を見ても変わらぬ事実だ。
勝機はそこにしかない。
「その諦めん目ぇは、プラス点や」
霊力を集中させた右アッパー、防御や回避に余念のない煙霧には当たらない。
「そんで冷静なのも更にプラス」
アドバイス通り、アッパーをした瞬間に更に後ろに逃げて、警戒のために右腕に霊力を集中させた。追撃には守りながら反撃出来るし、様子を見られているなら回復に専念できる。攻防に優れる良い選択だった。
徐々に回復して思考が冴える。脳の揺れももう収まっていて、あと抑えるべきは吐き気のみだがこれは数分経たないと治らないだろう。
牽制にでもなるだろうかと考えてファイティングポーズを取ってみる。あくまで漫画からの参考だが、自身が相手と対峙した時に一番落ち着くのが最良らしい。
命の場合は自然、右腕を引いて左手を眼前に出すようなポーズになる。霊刀・流星を持つときの癖が出た。
しかし意外にも様になっていると煙霧は踏んだ。
煙霧も修行の際に土井雹牙という人間に強制的に武術を叩き込まれたのだ。期間にして約半年、痣を作らない日はなかった。だがその半年でメジャーな武術の基礎は出来上がってしまった。とてつもなく暴君だがとてつもなく教えるのが上手かったのだ。
それからも研鑽を積み、悪霊相手に通用するほどではないものの技術面では指折りの霊能力者となった。始めて命達と対峙した時に「頭脳派である」という旨の発言をしたのも、謙遜でもなんでもなくただ単に土井を基準と考えてしまっていたからである。全体で考えれば上の下と言っても差し支えない。
そのレベルの煙霧が、構えとしては悪くないと考えている。
実際のところ、完全な半身ではないところを除けばおおよそ問題ない。左手で頭部は守れるし、ジャブ打ちの牽制にもなる。右手は引いているのを見るに重たい一撃用になっており、警戒をせざるを得ない。無意識化で意識をする部分を構えだけで増やせるのは熟練者を相手取る時にはかなり有効だった。
本格的にCQCをしようとしている訳ではないので、対人戦には十分だと判断できる。
しかしそれはあくまで防衛に関してのことだ。
攻めとなれば話は変わる。
「(今は花を持たせてやるか)」
迎撃態勢に入った命へ、防御を崩すために掌底での圧をかけていく。いまだ作務衣には右手がしまわれたままで、明らかに手を抜いることが分かる。流石は幹部というべきか、左手一本だけでも攻撃を差し込む余裕のないくらいの連撃だった。
バチンという手を打ち鳴らした時に出る音が煙霧の手と命の肌から奏される。一撃一撃はゆったりとしているのに、避けられる気も、反撃出来る気もしない。
「うんうん、よく防ぐ。ボクがキミくらいの頃はここまで動けんかったで。独学にしては強いから安心しいや」
「その程度の強さじゃダメだ!」
煙霧の言葉にカッとして激昂に任せた右手の突きは最初の一撃と同じ結果に終わった。掌に受け止められ、地面に逸らされ、喉元を蹴り上げられる。まるで再現VTRと言わんばかりの既視感である。
ただ異なったのは蹴りの強さ。もし、喉元への霊力ガードが間に合っていなかったら確実に半分が消し飛ぶくらいの威力だった。
「カハッ……!!」
「ちょっと煽っただけでそれはアカンで」
大きく飛んで石段に落ちて転がる命。息を吸うことも吐くことも困難な状況で、何とかそこまで転がり落ちるのを阻止しようとして石段を掴む。ガリガリと爪先から嫌な音がしたが、体の回転は止まった。
喉の痛みと空気の循環が上手くいかない肺の痛みで、石段を落ちた痛みはあまり感じなかったのが幸いだ。
このままでは終われない、男の意地として立ち上がり鳥居を背に立つ煙霧を見上げた。
「ぁ、だ、だ!」
「ま、だ、だ?いんや終わりや。今日は休日やで、朝からこんな運動したらお昼寝してしまうんと違うか?」
そんな煽り文句は効かない。
効いたのは蹴られる前、親を馬鹿にされたと感じたからだ。実際、煙霧もその意味を込めて言葉を発したのだ。「親がいれば独学ではなかっただろう」と。
「いや堪忍堪忍。ボク、どーしても人をおちょくってしまうクセがあんねん……。本来は、ボクが強くなるためのセンセイって奴を紹介してやろうってことを伝えたかってんな」
目を瞑って天を仰いで、ついでにピンッと[癒]の霊符を命に向けて弾いた。
命はヒラヒラと落ちた霊符を掴むと喉元へ押し当てる。直接当てていたため、直ぐに話せるレベルまでに回復できた。
「……その真意は?」
「八大怨霊の討伐。それしかないやろ」
一言に集約された、全霊能者の悲願。
相手は格上に格上を重ねたバケモノ共である。そんなバケモノを相手取るにはこちら側も強者を集めなければならない。しかし霊能者の数は限られており、戦闘が出来る者も数多くはない。更に言えば、最近は『神隠し』の影響で見込みがある人材すら吸い込まれていき、霊能者社会にも逆ピラミッドが建設されつつある。
ならどうするか。答えは才能ある者を徹底的に鍛え、十人の霊能者よりも、百人の霊能者よりも一個人で勝る戦士を作り上げれば良い。
「やるかい?」
「やります」
ノータイムで答えた命に、軽薄だった笑みが心からの笑みに変わった。
「(この少年のことだ、どれだけ険しい道かくらい想像してるんやろな)」
もちろん一朝一夕で到達できるほど甘い道であるわけがない。誰だって想像できるが、命には覚悟の光が瞳の奥に見える。
「よっしゃ、もうオシマイは撤回や。ボクに一撃入れるまで朝飯食えると思うんやないで」
「おす!」




