町中華まで|出張《でば》ってきたラジオ
中華食堂にはまだ暖簾が下がっていた。
こうした店は昼営業が終わっても暖簾をそのままにしてるのが多いから、ガラリと開けて初対面なのに悪役俳優になりきった店の主から「ひるは終わったよ」の声をいきなり浴びせられたくないので、引き戸を少しは開け、隙き間を覗く。
カウンターだけの店内には同じような白い格好のお客が6人、麵を啜っていた。
器も客も同じなのに注文は皆んなバラバラだったようで、器の汁の上のはみでた様子から酸辣湯麵に広東麵、タンメンに担々麵、普通の中華ソバにトッピングでモヤシ大盛り、チャーシュー大盛りした様子がうかがえた。
器に張った汁の上はこんなに賑やかなのに、汁の下の麵は沈んだままで、箸に掛かる細長い紐状のものはけれんも見えない。中身に麵は入ってないのかもしれない。それなのに啜る音ばかはが店内に響く。
きっと、汁の上の賑やかな具材は、そんな白びょうたんなお客を見かねた店主のおもんばかりのお節介なのだ。
「いつもいつも汁ばっかしじゃなー・・・・・こんな暑い時は、酸っぱいもの摂って、温っためた野菜摂って、滋養つけないと」「・・・・わかった、わかった。だから、チャーシューだけは2枚多めに入れとくよ」「それでも、こっちへ戻った時くらいは、たいがいは血の気がさしてきてんのに・・・・あんただけだよ、こんな暑さでもそんな青白い顔したまんまなの、・・・・・そういえば、モヤシだけは好きだったよねぇ、あんた。これなら一袋丸ごと入れたって、腹を下したりしないから別に炒めて乗っけてやるよ」などと鍋をふりながらの大将にほだされ、言うがままに啜っている感じだ。
大将は、思った通りの面構えだった。
いつも時代劇のゲストヒロインを手籠めにする悪役俳優の広いオデコに山伏が被る頭襟みたいな黒マジックで厚塗りした毛房が乗っているところまで思った通りだった。
「はーい、こちら中継車。自分でも誰かでも、腕でもいいから触っていた方がいくらか冷たいんじゃないかって思うとくらいのクラックラッの暑さの中、湯気がもうもうとしてる町中華から中継してます。・・・・・・こんな日に中華なんか食べにくるお客なんているのかねェ・・・・あっ、つい地声がでてしましました。わたし、こうしたことには不慣れなもので、大変失礼いたしました・・・・・・いました、6人も。カウンターだけが1本の狭い店内は満席です。大将がふった北京鍋から差し出される羹を皆んな黙々と渇いた喉を潤すように食してます。啜っているけど箸に麵は絡んでいません。レンゲもないのに、皆んな器用に器の中身をぐんぐん減らしていっています。モグモグの様子が見えないところを見ると、6人とも皆んな歯の持ち合わせはないのかもしれません。そこまでのパーツは、来るとき、用意できなかったのかもしれません。それでも、こうして年に一度の寄り合いに誰一人欠けずに集まれたのはよかったよかったと、黙々の黙食顔は、穏やかであります。・・・・・・・正面に回らなければ拝見できなせんが、きっと、また、来年も、皆んな、無事に、一列に並んだ汗をかかない瘦せたスキンヘッドを見せてくれるのでしょう。」
いつもなら、壊れたエアコン横の棚にあがっているのは12型のTVなのに今日ははなぶさ電気商会にあった虫干ししているラジオと同じものが置かれている。機種が同じなのではなくてまったく同じものが置かれている。あれだけ眺めていたのだから間違いはなかった。
ー こんな所まで出張ってきて。
と思ったが、それは引き戸の隙間から覗いてるわたしを指して言われてることでもあるので、黙っていた。いまさら解説の必要はないだろうが、通りに止めた中継車から町家の土間顔した路地まで引っ張ってこなければならない放送ケーブルはどこにも見当たらない。インタビュー用のマイクに放送局の腕章を掛けたそれらしき人物もいない。わたしが覗く隙間から見えてる光景だけを大袈裟に盛って伝えて呉れている。
ラジオが聞こえてるはずの6人のお客たちに目立った変化はない。頭襟みたいなあたまの大将の中華鍋ふる動きにも衒いはみえない。
お客と大将に目線を向けているわずかにラジオは模様替えをしたようだ。姿を変えて今度はFMの電波を流している。オーク材に茶色系のニスを塗った一番重厚そうなフォルムのラジオだ。細長い雫のような銀色の少し冷たいスイッチを人差し指が下からオンしてくる。
町中華であっても昼下がりにはアンニュイは必要だ。
こうした時の人差し指は、二十歳前後の髪をアップの瓜実顔した女でないと。
「・・・・あい らぶ はう ゆう らぶ みぃ・・・・わすれたいのに、わすれられない・・・・あなたが・・・・」
中継車のDJから曲名までは伝えなかった。
けれど、わたしはしっている。海を越えたアメリカで、アメリカ人が海を越えたヨーロッパへの憧憬を背景に、女性3人グループが発する甘酸っぱい匂いが流行っていた時代のことを。酢豚に入ってる豚の脂とカタクリのとろみでコーティングされたパイナップルを嚙んだときのあの感じ。いますぐ半世紀前に戻って3人の横に立ってやれといわれれば、サビのリフレインだって務められる・・・・・
鼻歌でなく口真似までしそうなときだった。
戸口が開いて、わたしは店から出るそのお客とぶつかるのをよけるのが精一杯だった。きっとこの通りのどこかの商店主なのだろう。暑くても、それでもお客の手前、白い長袖のカッターシャツを着ていて、折り曲げていた袖を元に戻しながら遅い昼飯を食べに来たあとの爪楊枝を加え、私とすれ違う。
自分の遅い昼食をずっと背中越しに覗かれていたことなどつゆ知らず、たったいま店の前に辿り着き、まだやっているかどうか確かめようとしているひとり客としかわたしを見てないようだった。
流れに逆らわず、その男と入れ替わりにわたしは店に入る。さっきまでのそのお客のものだろう。チャーシューか中華丼か。ご飯ものを載せる少し楕円の平皿が置かれていた。そこを除き、他のカウンター席は今朝からのほこりだけが積まれ、乾いている。
「お客さん、遅めの午飯、それとも早めの晩酌かな」
時代劇のゲストヒロインをさっき手籠めにしたばかりの悪役俳優の大将は、見た目と違い初めから愛想を振りまき、何もまだ決めていないお客の注文を探りに来た。
「そうだねぇー」と、大将から目を外すために、さっきはラジオの乗っていたTV棚に目を移す。
TVは大相撲を映している。画面に出たふたりの力士の番付から十両の取り組みが始まったばかりの様子だった。
「まだ早いけど、ビールもらおうかな。それと、酸辣湯麵の麵抜きね。その代わり、湯通しした餃子の皮を三枚ばかり乗っけてもらおうか。まだお腹くちくするには早過ぎるからね」
隙間から覗いてる間に品書きは何度も読んでいたからこの店にワンタンスープが置いていないのは、いま見なくても分かっていた。
「お客さん、町中華の昼飲みに慣れたおひとだね」
おひとって言いようが何か時代劇がかっていて、大袈裟に笑ってしまった。その大袈裟には大将の愛想もついて来れなかった。
さっきまで店の裏で島田に結った黄八丈の町娘を手籠めにしたいたくせにと、卑下た顔で歪めるのは止そう。ひとには、それぞれ、生きているのが今だけでない事情というものがあるのだ。たまたま、こんな暑い日の巡り合わせに、どこだかの蓋が開いて、出会わなくてもいものが混ざり、逢わなくてもいいものが本人たちのご都合なんて構わないままこうして一つどころに集まってくる。
これだって、日が落ちるまでの辛抱だ。落ちなくても、風が変わり、少し海風が潮を持って巡ってくれれば退散してくれるのだ。
「ごちそうさま、お勘定してくれる。この暑さで濃く煮詰まってたのが、ビールと酸辣湯でさっぱりといい心地にしてくれたんで、こんどは清酒と魚のある店に河岸を変えてみるよ・・・・あー、そこまでの親切はご無用。こっちの足で探してみるから。昼下がりのこんな時間にそんな店が見つからなきゃ見つからないで、そうした流れはなかったんだなってあきらめるから」
さっきまで、着ぐるみ着てる力士ばっかりだと嘆きながら大相撲のはなしを挟んでいた大将の顏が遠のく。間を外され、二の句が浮かばないそんな顔はほっとき、わたしは勝手に帰り支度を済ませる。
おひとの大袈裟によりも、もっと付いて来れない顔で大将はお釣りの750円を渡してくる。あまり関わらない方がいい手合いなのだなと品定めが終わった顏がアリアリだった。わたしはこうしたことには慣れている。きっと向こうもこうした手合いには慣れているはずだ。
清酒と魚は早めに店を切り上げる方便なのだが、湯船でゆでダコが出来上がる前に浮かんだその流れはは魅力的に思えた。わたしは、はなぶさ電気商会をもう一度振り返るための口実と悟られないように極めて自然に来た道を戻ってみせた。