ワンタンスープでも
テレビのお散歩番組のような旅行が好きだ。
遠くても近くても泊まっても泊まらなくても、流れは一緒。リュックかショルダーバックにその間の身の回り品を入れて、電車を降りたら、そこから一筆文字を書くように独りぶらぶらする。こんなとき、駅から離れ、電車沿いとは無縁に出来てた離れ小島のような街場がいい場末感を出してくる。
そうした辺りを探すのにもっぱら役立つのは銭湯の煙突だ。
銭湯なんて今じゃ営業してない方が多くなってるんだが、廃業したあとのことを考えて建てた銭湯なんてひとつとしてないから、まだまだ街場になる前の表通りから一歩奥まった長細い路地ごとすっぽり銭湯が建ったら、皆んな安心してうじゃうじゃ好き勝手に固まって、囲まれて、いまじゃミニのユンボひとつ入れやしない。抜け殻みたいな残骸はそのまま捨て置かれる。
真夏の炎天下、ひとの消えた隣のコインランドリーのドラム式洗濯機だけがセミみたいにブンブンいって、いい場末感を醸し出している。
それでも5回のうち、一度くらいは今でも生きている煙突が見つかる。
そんなのをみつけたときは、日の高い一番風呂に一目散に入り、湯船に浮かんだ年寄りのあたまを眺めつつ、ひととおりの探索で唾つけといた暖簾かけっぱなしの食堂か町中華なんかをスライドにして、このあとのプランを練っていく。
・・・・・・こんな暑い日は、すぐに泡が消える生ジョッキじゃなくって、瓶ビールをビアタンに半分づつ注ぎながらワンタンスープでもすすっていたいなぁ。これだけ暑いともう油膜のついた食い物なんてベロがうけつけてくれないもんなぁ、定番の餃子やチャーハンで一杯って感じじゃないもんなぁ・・・・ワンタンスープが置いてなかったら、酸辣湯麵か天津飯の麵少なめかゴハン少なめにして頼んでみよう・・・・・大将には、このあともう一軒、刺身でも焼きものでもいいから魚と清酒でもう一杯やりたいんでねって、言いわけ云ってさぁ
そこで中華鍋ふってるオヤジの海坊主みたいな禿げた顔が、のっそり出てくる。
禿げてるくせに狭い額のうえだけ、山伏が被る頭襟みたいな黒々の、つや消し黒のマジックで厚塗りした丸いものまで見えてくる。厚紙を重ねたハンドメイドを誤魔化すために紙の段差に油性ペンをゴシゴシ押し当ててを繰り返し、つや消しの黒が漆塗りの少ぉし照りを盛って光って・・・・・・
ザぶザぶ、ザざぁー
と、ひとひとりぶんが抜けたお湯をこぼして、湯船を出た。
日が落ちぬ平日の昼間の銭湯だから毎日が日曜のジイさんばかりかと思っていたが、若いとまでは言えないが私程度の年かさばかりうようよしている。数えるでもなく数えたら、わたしを除きちょうど6人だった。
朝からずっとひとり黙り続けているもんだから、妄想がお喋りしすぎて湯あたりしそうだ。山伏の頭襟ばかりを凝視してたらギザギザ金属した大きな歯車で頭を締め付けたような暗闇に落ちそうになった。
あぶない、あぶない。何も知らないこんな場末の銭湯でマル裸のまま救急搬送されるところだった。
それでも、扇風機ひとりじめしてるヨークシャーに似た真っ白くて四角い若年寄りの背中から申し訳のチロチロ風を浴びて、いったんは薄暗がりまで潜った視界は元に戻った。やっぱりおが屑で沸かした一番風呂はいけない。ガスと違って入ってすぐの熱っちっちじゃないから、肌に張り付くいい湯だなんて温泉気分だして瞼とじてると、見も知らぬ土地でとんだ不始末をしでかすところだ。
そんなこんなは誰一人しる由はないので、「さぁーて」と、自分に声のない掛け声かけて湯で磨いた真新しい身体を通りの風に晒す。
入いるまでは気にもとめなかったが、表通りより少し奥まって入った銭湯の出入口を今度は反対に出ていくと、左右それぞれれの屋波が店屋構えの造りで並んでいる。半分は看板を下した大きな引き戸ばかりのしもた屋で、他の2軒はかろうじての店構えだが開けることを忘れた頑丈さで降ろしたシャッターが昼下がりの西日を反射している。舗装はなく砂利も敷しかず地面を足踏みしただけの顔のない路地は町家の細長い土間のようだった。
が、1軒だけ、少し開いた引き戸から炎天下を逃がれたような薄暗い灯りが点っている。
「はなぶさ家電商会」
ガラス戸にペンキ文字で綴った店名がなければ中で何を商っているのか分からない。立ち止まってすぐに首を中に差し入れ覗くが、炎天下の日中では仄暗い灯りが暗闇になって中の様子はさっぱりうかがい知れない。何が気になるかは分からないが、脚はひとつも前に進もうとしないと言っている。両脇を2間ずつに割った家並が並んだだけの土間のような路地がとてつもなく長く広いものに思えてきて、そこから先の世界と隔絶してる。また、湯あたりしたときの暗がりが迫ってきたようだ。
真夜中の森でテントのランプに吸い寄せられる無数の虫が群になって近づいてくる。
無数の羽音がジリジリしたセミの鳴き声に聞こえる。
ジジジジ、ガガガガ、ゲゲゲゲと擬態の音はつまみを回され、様々に憑依していく。
ゲゲは解夏の表意を現わしてくる。僧侶の夏修行の安居が明けたときの、暗闇に籠もっていた昨夜までの己れの前が、パぁーと一気に開けた一陣の光のような・・・・・
大きな蝶類や甲虫に混じって小さなカナブンがいる。
黄金色だけが自慢のその小さな甲虫だけが拡大してきて、わたしに何かを教えようとする、吹き込もうとする。そんなくすぐったい真似は嫌なのだが、わたしはどうすることもできない。彼もどうすることもできないと言い訳しながら近づいてくる。
ー 明るいからでも、熱いからでもないんだ・・・・・・第2節と第3節のさかいにいままで知らなかったスイッチがあって、それをオンされて、どうすることもできずに、・・・・・こんなとこまでやってきてしまったんだ・・・・・・
薄明かりの戸口を、気づけば、わたしはさっきまでの半分が泡で膨らんだビアタンやワンタンスープを置き去りに、戸口を曳いて中に入っていた。