21-1
膝の上で、気持ちよさそうに真っ白な兎が寝ている。
ふさふさで柔らかい毛並みを撫でながら、ゆりかごのような椅子に座っていた。身体の重心がずれれば椅子は前後に揺れて、居心地の良い揺れを感じる。
「気持ちよく寝ていて、羨ましいな」
くすりと笑みを零したが、そこに亜莉香の意思はない。
まるで別の誰かの身体の中から景色を見ているようで、勝手に口は動いて身体の自由はない。誰かが顔を上げて、壁に掛けられた時計を見た。
時刻は夕方。そのまま真っ白な雪の降り積もる窓の外を眺める。
「今日は遅いのかしら?」
寂しそうに言って、部屋の中を見渡した。
見慣れた茶の間は、暖炉の火が灯って温かい。ソファはないが、真っ白なカーペットと長方形の木製のテーブルは変わらない。テーブルの上には美味しそうな食事が三人分並んでいて、壁に飾っている花の絵画が増えていた。
誰かが、食事を眺めてため息をつく。
「早く帰って来てくれればいいのに」
「…それなら迎えに行って来ればいい」
「あら?目を覚ましていたの?」
「少し前からな」
大きな欠伸を零して、兎は誰かを見上げた。
真っ赤な宝石のような瞳に、亜莉香そっくりの女性の顔が映る。兎と目が合って微笑んで、少し年上にも見える女性は兎の頭を撫でた。
「あの人が心配性なのは知っているでしょう?私が家の外に出て敵に襲われたら、もっと過保護になっちゃう」
「お主なら一撃で倒せるではないか」
「倒せるとか、倒せないとか。そんな問題じゃないの。あの人は私に戦って欲しくない。その願いを知っているから、私もその願いを叶えてあげたい」
あの人、と言う度に、女性の声が柔らかくなる。
愛おしいと、声に出さずとも伝わる気持ちを読み取って、兎はぴょんと膝の上から飛び降りた。小さな身体が歩き出せば、女性はゆっくりと立ち上がる。
まるで兎の行動の意味を知っているように、女性はその場から動かないで見送る。
扉の前まで進んだ兎が振り返って、呆れた声で言う。
「何百年経っても、あの男が心配で過保護なのはお主の方ではないか?」
「あら、もうすぐ千年よ」
「時間の問題じゃなくてだな――」
「何百年でも、何千年でもいいの。私の気持ちは変わらないし、あの人が私を見つけ出してくれるから。今だけでも、あの人と幸せな時間を過ごしたいだけ」
「…惚気を聞きたかったわけじゃない」
深いため息を零した兎に、うふふ、と口元を隠して女性が笑った。
「何だかんだ言って、貴方はいつも迎えに行ってくれるのよね」
「お主がそれを望んでいるからだ。儂はあの男なんて嫌いだ」
「あの人は嫌っていないわよ?」
「ふん、どうでもいいことだ」
楽しそうな女性とは反対に、兎は不機嫌な様子。話していても埒が明かない、と言わんばかりに兎は女性に背を向けた。
「ちゃんと飯を温めて置け」
「はい。気を付けて、いってらっしゃい」
「…行って来る」
ぶっきらぼうに言って、兎はぴょんと跳ねた。
淡く赤く光ったように見えた兎の姿が、一瞬で消えていなくなる。
女性は驚きもせず、椅子にかけてあった着物を羽織った。大きな窓を開けて、窓の外の空を見上げる。雲間に見えた大きな月を見ながら、両手を口元に持って行った。
「早く仲良くなってくれないと…また私がいなくなった後が心配じゃない」
今にも消えそうな声で呟いて、白い息を吐く。
「私だって、いつまでも今の私でいられるとは限らないのに」
女性は身に付けていた簪を外した。
右手の上に乗せたのは、桃色の牡丹の花の簪。絹のような大きく薄い花びらを幾重にも重ねて、毬のようにまとまっている小さな牡丹の花の、花びら一枚だけが真っ赤な色に染まっていた。
簪を見下ろした女性が、悲しそうに何かを囁いた。
「お前こそ、勘違いするな」
身体の上に乗っている重みも痛みも変わらず、淡々とした兎の声がした。
「儂がお前の傍にいるのは、あの子の願いとお前の願いが同じだからだ。対等な協力関係ではない。あの子の願いがなければ、儂はさっさとこの土地を去っている」
それに、と兎は言葉を続ける。
「この娘が、これだけ大きな力を持っていて今日までルグトリスに狙われていなかったと、本気で考えているのか?」
「そうは思わないが――」
「そうだろうな。精霊達が騒いで、この娘の話ばかりしていた。ルグトリスにだって何度も遭遇している話だ。強すぎる力を持って、もしも悪用されるなら、この場で殺してしまった方がこの娘のためだろう」
断言した兎もシンヤも、亜莉香が意識を取り戻したことに気付かない。
浅い呼吸を繰り返して、目を僅かに開けた。灰色の景色のまま、お互いの姿しか見ていない兎とシンヤの会話が、亜莉香の耳に届く。
「そうだとしても…頼むから、それくらいにしてくれ。彼女に何かあれば、私は妹だけではなく彼女の友人も敵に回すことになる」
「それがどうした。儂が本気を出せば、それぐらい造作もなく殺せる」
「簡単に殺すなんて言わないでくれ」
悲痛なシンヤの気持ちは、兎には届かない。
亜莉香から引き気がない兎に、意を決した顔になったシンヤは一歩踏み出した。落ちていた日本刀を拾い、鞘から抜くと、両手で日本刀を構えて焔が宿った。
兎の瞳の中で、焔が揺れた。
何も言わなくなった兎に、シンヤは話し出す。
「お前がこの土地の誰かを殺そうとするなら、俺はお前を止める義務がある」
「止めることは許さぬ」
「許されなくても、それが俺の務めだ。お前の本当の主の力が弱まって、暴走しそうになったら止めると、それは――我が一族の役目」
駆け出したシンヤが、途中で日本刀を振り上げた。
刀は亜莉香の近くに突き刺さり、兎はその体型に似合わず、軽く飛び跳ねて攻撃を避けた。亜莉香のすぐ傍に立ったシンヤの瞳に迷いはなく、再び駆け出して兎を襲う。
ゆっくりと起き上がった亜莉香は、痛む身体を動かして戦いを見つめた。
兎の方が圧倒的に素早いのに、その身体に血が滲む。
「はは。儂の本当の名前さえ知らないお前が、儂を止められるはずがない」
「関係ない」
「関係なくない!!」
空気を切り裂くような声が響き、兎の鋭い爪がシンヤの頬を掠った。
お互いに距離を置けば、真っ白だった兎の身体が足元から徐々に真っ黒な毛並に変わり始める。兎とシンヤの戦う地面は禍々しい黒に染まって、灰色の世界が変わっていく。
頬の血を拭ったシンヤに向かって、兎は吠えるように叫ぶ。
「名前を呼んでくれるあの子だけが儂を止められる!あの子が殺してくれるまで、儂は死なない!死んではいけないと言われた!!」
浸食していた黒が一時的に止まって、シンヤが少し瞳を伏せた。
「その人はもう――」
「五月蠅い!お前の役目なんて知らん!!」
叫んだ兎の毛並が、半分以上黒く染まった。
もう数分もすれば、兎の身体は真っ黒に染まってしまう。
身体は傷ついて、血が流れて。
「もう、戻れなくなる…」
両手で心臓を押さえるように蹲り、亜莉香の声は無意識に零れた。
兎とシンヤの戦いを止められない。灰色の世界から一人で逃げることも、真っ黒に染まってしまう兎を助けることも、何も出来ない。
「助けて」
来るはずのない人物を思い浮かべて、涙が頬を伝う。
「助けて…トシヤさん」
亜莉香の涙が地面に落ちた直後に、ガラスの割れる音がした。




