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Last Crown  作者: 香山 結月
第1章 月明かりと牡丹
95/507

20-4

 揺れる馬車の中で、亜莉香は現状を把握する。

 出来るだけシンヤから距離を置くため、対角線上の反対側に亜莉香は座った。シンヤは窓側で、亜莉香は扉側に座っても、馬車の中はそこまで広くない。シンヤ以外に誰もいなくて、密室のような空間に二人きりで会話はなし。

 シンヤは機嫌よく、窓に肘をついて外を眺めていた。

 僅かに開いている窓には薄い布が備え付けられていて、亜莉香の位置からは外はよく見えない。窓が開いているおかげで風が入り、天井の小さなガラス窓からも光が入って馬車の中は明るい。

 馬車が揺れる音がその場を支配して、視線を下げる。


 どうして、こんな状況になったのか。


 あのまま店に居ては、店の中からも外からも注目を浴びていた。落ち着いて話が出来るわけがなくて、周りの視線が怖かった。

 何より問題だったのは、話していた本人を目の前にしてイトセの思考が停止したこと。曖昧な返事しか出来なかったイトセは、挨拶と言う名の手の甲に口付けをされて、頬を赤らめて今にも倒れそうだった。

 騒がしい店の中で会話が出来ないと判断したシンヤに誘われ、馬車の中に手を引かれた。あの場でシンヤが差し出した右手を拒否することは、その場の空気が許してくれなかった。今更ながら、何としてでも拒否すれば良かったという気持ちが芽生える。

 ユシアだけでも一緒に付いて来てもらうべきだった。

 どこに向かっているのか、考えたところで答えは出ない。てっきり昨日のように人通りの少ない路地裏で話をするのかと思っていたが、そうではないようだ。馬車が動き出してから数分は経過して、実際にどれだけの時間が流れたのか。

 黙っていても仕方がないので、顔を上げた亜莉香は遠慮がちに言う。


「あの…シンヤ、さん?」

「ん?」

「今はどちらに向かっていますか?」


 無意識に膝の上で両手を握りしめて、肩に力が入った。

 亜莉香の緊張は伝わらず、シンヤは首を少し傾げる。


「まだ言ってなかったかな?」

「はい…場所を変えよう、と言われただけですので」


 段々と声が小さくなった。

 首をかしげた仕草すら上品で、堂々とした振る舞い。全てを見透かしているような、真っ直ぐな瞳を見返すことは難しい。

 対応に困った亜莉香から視線をまた窓の外に戻して、シンヤは軽く言う。


「今、向かっているのは我が家だ」

「我が家?」


 繰り返した言葉に、驚きが混じる。


「…つまり、領主様の家ですか?」

「そうだな。昨日も話した通り妹の友人だと聞いていたので、妹に会って話して欲しい。それが建前上の理由だ」


 建前上、と亜莉香は口の中で呟いた。その意味を理解するのに数秒かかる。


「え…本当の理由は別に?」

「そうだ。あの場では本当のことは言えなかった。それに建前上の理由を一つでも言わないと、君の友人は納得しなかっただろう?」


 あはは、と笑い声を上げたシンヤは、昨日のことを思い出して顔が笑えていない。

 ルイとヨルの行動を振り返れば、むしろ本当のことを言わなかった事実を知った後に、何で言わなかったのかとまた怒る気がする。特にルイは、こんな風に馬車で領主の家に向かっていることを知ったら、シンヤに対してだけではなく、安易に付いていった亜莉香にも怒りそうだ。

 トシヤとルカが味方に付いてくれる可能性は、どちらかと言えば低い。

 家に帰る前に対策を練らなくては。

 問題を頭の隅に寄せて、亜莉香はシンヤの真意を知るために質問を重ねる。


「では、建前上ではない本当の理由は何ですか?」

「それはまだ言えない。こんな馬車の中でも、誰に聞かれるか分からないからな。用心をして、その話はもう少ししてから話したい」

「分かりました。後で理由を話してくれるなら、それで構いません」

「案外、あっさりと引き下がるのだな」

「もっとしつこく、質問をして困らせた方がよろしいですか?」


 冗談交じりに亜莉香が言えば、シンヤは少し驚いた顔をした。

 それから口元を隠し、肩を震わせながら笑いを耐える。


「話には聞いていたが、意外と強かな女性のようだ」

「…え?」

「いや、何でもない。それにしても、アリカ殿はリーヴル家とも関わりがあるようだが、どこで知り合ったのだろうか?」


 よく聞こえなかった言葉を聞き返すよりも早く、シンヤは話題を変えた。


「どこで、と言われましても…半年ほど前に出会ったばかりで、大した出会いでもないのですが――」


 亜莉香は窓の方を見た。

 外の景色は見えなくて、もう遠い昔に感じる日々を思い出す。

 初対面から武器を投げつけたルカと、目の前でルグトリスを倒したルイ。それだけを思い返せば大した出会いかもしれないが、出会いはそれだけじゃなかった。怪我を治してくれるユシアや、いつだって騒がしいトウゴ。知らない場所で初めて目が合ったトシヤとの出会いだって、忘れられない出会い。

 大した出会いでもない、と間違ったことを口走ってしまった。

 出会って、関わって、親しくなって。笑って、泣いて過ごした日々が、いつだって色鮮やかに心の中にある。その話を一から話す気はなく、簡単にまとめる。


「…この街で、ルイさんとルカさんには出会いました。ご縁があって一緒の家に住んでいて、ヨルさんとは温泉街で少し話をした程度です」


 それだけです、と亜莉香は無意識に笑みを浮かべて言った。

 全てを見透かしているようなシンヤの瞳と目が合い、今回は逸らさない。お互い笑みを浮かべて、先に窓の外を眺めたシンヤがぽつりと呟く。


「縁とは、怖いな」

「何の話でしょうか?」

「アリカ殿とトシヤ殿。二人の名前を妹から聞いた時から、いつか直接会って話をしたと思っていた。どうしてアリカ殿は精霊達の姿が見えるのか。どうしてトシヤ殿は我が父の刀を持っているのか。本当は落ち着いた場所で話したいのだが…」


 馬車が止まって、揺れが止まった。

 不意に突き付けられた疑問に、亜莉香の言葉が詰まる。

 精霊が見えることは、一部の人にしか言っていない。ルカとルイ、それからトシヤがその秘密をばらすとは思わない。トシヤの持つ日本刀の話は初耳で、イトセからシンヤの父親が街を出た話を聞いた後では、何も言えなかった。


 嫌な予感がして、寒気がした。

 馬車の中が、何だか少し広くなった気がする。ゆっくりと立ち上がったシンヤとの距離が生じて、薄暗い空間に変わる。おそるおそる亜莉香も立ち上がれば、座っていた場所が何もない空間に変わった。

 少しずつ、景色が変わっていく。

 見慣れた景色とは言えないが、何もない空間は何度か目にしたことがある。透に呼び出された夢の中で、精霊が話しかけた空間の中で。真っ黒だった景色ではなく、果てしない灰色の地面が続く。

 数メートル先に立つシンヤが、少しだけ申し訳なさそうな顔をした。


「先に謝っておくが、私はアリカ殿に危害を加えるつもりはない」


 私は、と強調したシンヤは言葉を続ける。


「だが、私の友人はそうではない。我が家に着く前に、どうしても確かめたいことがあるようで、五月蠅くて仕方がない」


 話しているシンヤの隣に、どこからともなく小さくて真っ白な兎が現れた。

 真っ赤なルビーのような宝石の瞳に浮かぶのは、紛れもなく憎悪。燃えるようなその瞳に、唇をぎゅっと結んで、両手を固く握りしめた亜莉香の姿を映す。

 怖がっていることを悟られないように、声が震えないように亜莉香は口を開く。


「それで、どうやって何を確かめたいのですか?」

「私は何もしない」


 肩を竦めて見せたシンヤは、ふと思い出した顔で持っていた日本刀を投げた。

 大きく弧を描いて、日本刀は亜莉香の元に落ちて来た。顔を上げればシンヤの姿は変わっていないのに、兎の大きさが変わっている。

 しゃがみ込んでいる姿が、シンヤの背の高さと同じになった。

 シンヤは兎の変化を気にせず言う。


「死にたくなければ、真剣に戦って欲しい。その武器を使っても構わないが、この場から逃げ出すのは不可能に近い」

「逃がさない、の間違いだ」


 幼い少年の声が、シンヤの言葉を訂正した。間違いなく亜莉香の耳に届いた声は兎の声で、精霊と接したことがなければ分からなかった。

 兎が亜莉香を見つめ、亜莉香も兎を見つめた。


「私は戦いたくありません」

「何故?それほどの力を持ちながら、何故戦わない」

「戦う理由がありません」

「嘘だ」

「嘘じゃ――」

「嘘だ!なら何故、あの子の魔力を持っている!あの子なら戦わずにはいられない!あの子でないなら、お前がその魔力を持つ資格はない!!」


 怒り狂う声で、空気が震えた。亜莉香の言葉は届かず、兎が駆け出す。吹き荒れた風と共に迫る姿に、咄嗟に目の前にある日本刀を見た。

 戦うならば、日本刀を拾えばいい。

 それだけでは時間稼ぎにもならないが、何もしないよりましな気がした。

 大きな口を開いて牙をむく兎に何もしなければ、最悪殺される。殺されたくなければ戦え、とシンヤも言った。


 逃げ出すことは不可能で、戦う選択しかない。頭では分かっているのに、身体は動いてくれない。怖くて堪らない。逃げ出して悲鳴を上げたい。


 色んな感情が湧き上がり、考えている間に迫った兎が亜莉香を襲った。咄嗟に両手で攻撃を防いだつもりが、正面衝突した勢いで身体が宙を舞った。背中から地面に叩きつけられて、痛くてすぐには立ち上がれなかった。落ちた時に頭も打ったのか、視界がぼやける。

 起き上がれない亜莉香に、兎は容赦なく攻撃を続けようと近づいて来る。

 シンヤは助けてくれるつもりがなく、一歩も動かない。

 意識が遠のきそうだ。

 誰も助けてくれないのに、心のどこかで誰かが助けてくれることを望んでいる。

 傍まで来た兎は、仰向けで動けない亜莉香の上に手を乗せた。大きな兎の手がお腹の上に体重をかけて、重さと牙が食いこむ痛さで声が漏れる。


「なんで戦わない?」


 顔を寄せた兎が言った。


「なんでお主は、戦おうとしないのだ」


 繰り返された質問には、痛さで答えられなかった。

 兎の瞳に映る亜莉香は弱っていて、戦う意志はない。怒り狂っていたはずの声が戸惑いに変わり、何度も同じ言葉を繰り返す。何も答えられない亜莉香を見下ろす兎の声が、少しずつ聞こえなくなっていく。


 意識を失う直前に、兎の瞳から涙が一粒落ちた。

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