20-1 月華紅玉
小雨が降ったり止んだりする日々が続いていた。
晴天の日や雨の日よりも、大半は一日に一、二回の小雨が降った。いつ降るのかは、その日の天気次第。降ったと思ったらすぐに止むので、わざわざ傘を持ち歩く必要はない。少し雨宿りをすれば天気は回復する。
新年から十番目の月は小雨が降ったり止んだりする、時雨月。
中旬までは、いつ小雨が降り出すのか分からなくて、洗濯物が外に干せなかった。月の終わり頃になると、小雨が降らない日が増えた気がする。
過ごしやすい秋の季節。
ガランスでは年に一度の、灯籠祭りが行われる。
雪待月と呼ばれる、雪が降り始める月の前に行われる灯籠祭りは毎年晴天で、盛大で賑わう祭りだと聞いた。灯籠祭りと言う名の通り、街の中には数えきれない灯籠がすでに飾られ、その明かりが灯る日を誰もが心待ちにしている。
祭りまで、あと三日。
路地の片隅で空を見上げていた亜莉香は、数日振りの小雨が止むのを待っていた。
「雨、止みませんね」
「もうすぐ止むだろ。祭り前の小雨はこれが最後かもしれないな」
ぼそりと呟いた亜莉香の言葉に、隣で一緒に雨宿りしていたトシヤが言った。
お昼過ぎに、亜莉香はトシヤとヤタの診療所で合流した。ユシアの一件で引っ越したヤタの新しい診療所は、市場に近い住宅街の隅っこ。亜莉香やユシアの父親が住む家に近くて、ユシアは通いやすくなったと喜んでいた。
新しい診療所はこぢんまりとした、温かみのある深い茶色の屋根の平屋建て。ヤタの住居も同じ建物で、一人で住むには十分な広さがあり、小さいながら庭も付いている。住み始めて一か月近く経つが、生活感があまり感じられない家であり、質素でもある。
風邪で倒れた亜莉香は、引っ越しの手伝いをすることは叶わなかった。主に手伝ったのはトシヤやユシア、キサギの三人で、トウゴの妨害交じり手伝いがあった、とユシアが何度も愚痴を零していた。
風邪を引いた日から、時々ユシアは父親の屋敷で夕食を食べる。
夕食にはヤタも招待されているようで、帰りはキサギがユシアを家まで送っている。ユシアとキサギの仲が進展しているのかどうかは分からないが、仲が良いのは見て分かる。
ユシアのことはキサギに任せて、ルカとルイは亜莉香に対して過保護になった。朝ご飯をあまり食べていなかったのがばれて一緒に食べるようなったり、少しでも具合が悪くなると休めと言われたり。
過保護になったのはトシヤも似たようなもので、外出する時はよく付き添ってくれる。前より一緒にいることが増えて、嬉しさと気恥ずかしさが比例した。すぐにでも手を繋げる距離にいるトシヤを、亜莉香は盗み見する。
空を見上げていたトシヤが視線に気が付いて、目が合った。
「どうかした?」
「いえ…夕飯を何にしようか考えていて」
亜莉香はもう一度空を見上げた。少しずつ雲が流れて、晴れ間が覗き始める。あと少しで雨が止みそうで、トシヤも空を見上げた。
「昨日は豚の生姜焼きだったから、今日は魚の気分だな」
「今の時期なら鮭とか鯖とかどうですか?」
「鮭といくらのどんぶりと、ユシアの嫌いな里芋の味噌汁は?」
想像しただけで美味しそうな夕食に、亜莉香の口角が上がった。
炊きたての真っ白なお米の上に新鮮な鮭の切り身と、ぷちぷちのいくらの山盛り。ねっとりとした里芋の味噌汁と、だし汁をきかした煮物も作りたい。
「いいですね。今日はユシアさんがいませんので、里芋料理を何品か作ることにします。ユシアさんがいない日じゃないと、渋い顔をされますので」
「嫌いな食べ物を見ただけで顔をしかめるのは、ユシアだけじゃないけどな」
呆れたトシヤに、亜莉香は口元を右手で少し隠して笑った。
嫌いな食べ物に対してあからさまに渋い顔をするのはユシアとトウゴで、好き嫌いをしないようにトシヤが言っても、全く聞く耳を持たない。
ルカとルイの場合は無言でお互いの嫌いな食べ物を素早く、誰にも気付かれないように交換する。細心の注意を払って交換するのは、以前トシヤに注意されたからだ。それ以降は隠れて嫌いな食べ物を交換している事実を、わざわざ告げ口をするつもりはない。
いつも残さず何でも食べるトシヤの嫌いな食べ物は何だろう。
考えていると、路地の奥から誰かが走って来た。
音が聞こえた方向に、亜莉香とトシヤは視線を向ける。
遠くから走って来たのは着物の袖で頭を覆い、小雨に濡れながら全速力で走る二人の男性。遠くからでも僅かに聞こえる声は、一人はとても愉快そうで、もう一人は怒っているような。一緒にいる男性に対して怒っている声は、どこかで聞いたことがある。
誰の声か思い出す前に、勢いよく目の前を通り過ぎた。
着物の袖でよく顔が見えなくて、亜莉香のすぐ近くを走り去った男性は緋色の短髪。以前に見た時ははねていたくせ毛が雨に濡れて落ち着いていた。二十代前半で、かすれ縞の真っ赤に染まった楓の葉の色の着物に、黒に近い深く紺色の袴。腰に長さが違う二本の日本刀を身に付けて、熟した蜜柑のような橙色の瞳に隣で笑っていた男性だけを映していた。
見間違うことなく、ルイの兄で四兄妹の次男のヨル。
ヨルと一緒に走っていたのは、十代後半に見えた男性。
上品で落ち着いた光沢のある灰色の着物と、着物より深い灰色の袴姿で、ヨルとは違い腰にぶら下げている日本刀は一本。さらさらの黄色を帯びた鮮やかな朱色の長い髪を、漆黒のリボンで結んでいた。
色白で容姿端麗で、大人っぽい。
黒と赤を帯びた橙色の瞳に亜莉香の姿が映った。
「――見つけた」
独り言のように男性が呟いた声が、やけに大きく亜莉香の耳に届いた。
数メートル通り過ぎたはずの男性が方向転換して、亜莉香に迫る勢いで駆け出した。ヨルの怒声を無視してやって来る男性の、どこか嬉しそうな顔に見覚えはない。
不安で、今すぐに逃げ出したくて、亜莉香は両手を胸の前で握りしめた。
思わず片足を下げれば、一歩前に出たトシヤが日本刀に手をかける。
男性を迎え撃つ勢いのトシヤに気が付いたヨルが、すぐさま踵を返した。走りながら日本刀を抜いたヨルの足は速く、すぐさま男性に追いつく。空いていた左手を男性の首元に伸ばして、問答無用でその身体を後ろに引っ張った。
驚いた声を上げて後ろに転がった男性には目もくれず、ヨルは勢いのままに両手で日本刀を振り被る。金属音が路地に響き、亜莉香は息を呑む。
真剣な表情を浮かべて、真正面から日本刀を受け止めたトシヤと、敵意を剥き出しのヨルの目が合った。お互い何度か瞬きを繰り返して、ようやく相手を把握した顔に変わる。
「確かお前、ルイの知り合いの――?」
「ルイの兄貴かよ」
首を傾げたヨルは不思議そうに言い、眉間に皺を寄せたトシヤがぽつりと呟いた。
先に刀を下ろしたのはヨルで、トシヤも日本刀を鞘に戻す。肩の力を抜き、亜莉香を背中に隠したままのトシヤが、それで、と少し不機嫌そうに話し出す。
「うちにいる変人と同じ種類の貴族が、アリカを狙ったのかと思ったが…違ったのか?」
「お前の家にいる変人がよく分からないが、俺は別に用事はない」
先程までの敵意は完全に消えたヨルが、はっきりと言った。ルイがいないからなのか、以前より好意的な雰囲気を醸し出す。
小雨は止んで、ヨルは頭を掻いて困った表情を浮かべた。
「悪かったよ。武器を構えたから、とりあえず戦闘かと思って身構えた。俺はこっちに来る用事があって、ついでにルイとルカに届け物があるから、ここらへんをうろついていただけだ。どこを探してもあいつらいないけど、お前ら居場所を知っているか?」
お前ら、と言われて、トシヤは亜莉香を振り返った。
首を横に振った亜莉香を見て、トシヤはヨルに向き直る。
「神社か図書館じゃないか?」
「図書館?そこはまだ行ってないな」
次はそこに行くか、とヨルが呟いた。腕を組んで少し考える素振りを見せ、それから今度は申し訳さなそうな顔を浮かべる。
「図書館は…この近くか?」
「一応…道が分からないなら案内してもいいし、探すのを手伝ってもいいけど?」
「それなら私も」
警戒心を解いたトシヤに続けて、亜莉香はトシヤの後ろから顔を覗かせた。きょとん、とした顔を浮かべたヨルが、亜莉香とトシヤを交互に眺める。
「それは助かる。悪いな、迷惑に巻き込んで」
「いや、先に斬りかかろうとした罪悪感があるから」
「それはどちらかと言うと、馬鹿のせいで――」
馬鹿、とヨルが言ってから、亜莉香はようやくもう一人いた男性の存在を思い出した。それはトシヤとヨルも同じで、男性を振り返る。
ヨルの後ろ、少し離れた路地の隅に男性はいた。
腕を組んで建物に背を預け、一部始終を傍観していた男性は優しげな笑みを浮かべている。満足げな表情にも見える男性を見て、ヨルが不満げに口を開く。
「おい、馬鹿。お前のせいで余計な戦闘をするところだっただろうが」
「馬鹿ではない、シンヤだ。結果的には貴殿の弟の手掛かりが見つかったわけで、さっきまで雨の中を走っていたのも無駄ではなかっただろう?」
シンヤ、と名乗った男性が悪びれもなく言い、ヨルの顔が引きつった。
見るからにヨルの怒りを買っているのに、シンヤは気にしない。視線を亜莉香とトシヤに向けて笑みを零すと、右手を左胸に添えて恭しく頭を下げた。
「先程は失礼した。知り合いを見つけたと思って、声をかけようとしたのだが…何やら勘違いをさせてしまったらしい」
「もっとちゃんと謝れ」
「これでも謝っているつもりなのだが」
ヨルに命令されて、シンヤは笑いを堪えながら顔を上げた。
ゆっくりと歩み寄って、ヨルの隣に並ぶ。
拳一つ分ヨルの背が高くて、トシヤとシンヤの身長はあまり変わらない。亜莉香より背が高い面々を見渡すと、シンヤがトシヤに右手を差し出した。
「改めて、シンヤと言う。貴殿の名前を伺ってもいいか?」
「…トシヤだけど」
渋々答えたトシヤが握手をしようか迷っていると、シンヤは無言で握手を求めた。仕方なく握手を交わしたトシヤがすぐさま手を引き、シンヤは微笑む。
「トシヤ殿、実は君のことも私は探していた」
「俺のことも?」
「そうだ。トシヤ殿と、アリカ殿を探していた」
はっきりとシンヤが言って、トシヤは首を傾げた。
シンヤの視線が亜莉香に向けられ、上から下まで全身を見つめられると身体が固まった。見定めるような瞳に何も言えなくて、亜莉香は奥歯を噛みしめる。
目を合わせることが出来なくて、瞳を伏せた。
静かに差し出されたシンヤの右手が瞳に映り、そっと顔を上げる。トシヤの時と同じく握手を求められ、シンヤに引く気はない。
何故か自信を含んだ笑みで、シンヤは言う。
「貴女がアリカ殿、で間違いないのだろう?」
「はい…そうですね」
緊張して声が掠れた。
亜莉香は戸惑いつつ、右手を差し出す。握手をしようとした右手を、シンヤは優しく握った。流れるような動作で片膝をついて、上を向かせた手の甲にシンヤの顔が近づく。
「――え?」
手の甲に、シンヤの唇が当たった。
「アリカ殿、実は貴女に折り入ってご相談が」
「…あの、手を――」
離して、と叫びたかった。
顔を上げて亜莉香を見つめるシンヤの顔がどれだけ良くても、上目づかいでじっと見つめられても、出会ったばかりで見ず知らずの人間。それも手の甲に口づけされた後に、どう対応すればいいのか、皆目見当も付かない。
頭が真っ白になった亜莉香が助けを求めるよりも早く、ヨルが動いた。ヨルの右足は勢いよくシンヤの頭の上に落ち、僅かに手を握っていた力が緩む。その隙にトシヤが亜莉香の右手を掴んで、強引にシンヤから離した。
安堵を覚えた亜莉香を隠すように、トシヤは前に出る。
声をかけられる雰囲気はなく、眉間に皺を寄せたトシヤの背中から、亜莉香は成り行きを見守る。見事な踵落としを決めたヨルが、痛みに耐えて動けないシンヤを見下ろした。
「お前は馬鹿か。場所と身分を考えろ」
「…それは貴殿も同じで、私に対する扱いが酷いと思うのだが」
少しだけ涙目のシンヤが、腕を組んでいたヨルをゆっくりと振り返った。
それに、と言葉が続く。
「見目麗しい女性にお会いした場合の礼儀は、間違っていないはずだ。大抵の女性は頬を赤らめて喜ぶものだったのだが?」
「それは貴族の連中だろうが」
「いや、市場の熟女の方々も大層喜んでいた」
立ち上がりながら、シンヤが頭をさすった。悲鳴こそ上げなかったが、相当痛かったのか、右手が頭から離れない。
ヨルが何か言う前に、不機嫌なトシヤが言う。
「余計な用事は聞く気がないからな」
「自業自得の馬鹿領主の息子の話なんて、余計な用事以外ないでしょ?」
トシヤよりも不機嫌で、呆れが混じった声が空から降り注いだ。シンヤでも、ヨルでもない声に亜莉香は声のした方角を見上げる。
雨が上がった薄い水色の青空を背景に、屋根の上に二つの影が見えた。




