19-3
魔力に耐え切れなかったせいで簪が壊れたのかもしれない。
誰のせいでもない、とルカとルイに慰められても、亜莉香の落ち込みが直ることはなかった。むしろ時間が経つにつれて罪悪感が増して、居た堪れない。
家に着いた途端に身体がふらりと揺れて、倒れそうになった。何とか持ちこたえつつ、風呂場まで行き、ゆっくりとお湯に浸かった。風呂から上がっても、茶の間で夕食を食べる食欲はなかった。
呆然としたまま、部屋に引きこもり、電気も付けずにベッドの上に簪を置く。
「…どうしよう」
解決策が思い浮かばない。
「どうしようー」
泣きそうな声で繰り返すと、涙が溢れそうになった。
どれほど大切にしていたのか。どれほどユシアとキサギにとって大切なものだったのか。知っていたのに、取り返しのつかないことをしてしまった。
簪の前に座りこんで、膝の上で両手をぎゅっと握りしめる。
ユシアはまだ部屋に戻って来る気配がない。キサギもいる茶の間で、少しでも仲良くなって話しているなら嬉しい。嬉しいけれど簪が壊れたのを知れば、きっと悲しむ。
弁償できるならするが、そう簡単なことじゃない。
謝って済む問題とは思えなくて、込み上げた涙が頬を伝った。
声を押し殺して涙を流していると、扉を叩く音がした。ユシアが来たのかもしれない、と慌てて涙を拭って、急いで扉を開ける。
涙で滲んでいた瞳に、驚いたトシヤの顔が映った。
「トシヤさん…」
「アリカ…え?どうした?」
トシヤが狼狽えて、亜莉香は顔を伏せた。
泣かないように、泣いてはいけない。分かっているのに、身体はいうことを聞かなくて、耐え切れなくなった涙が溢れて床に落ちた。
涙が零れて止められず、右手で目元を見られないように隠す。
「なん、でもないです。ごめん…なさい」
「何でもないはずないだろ」
呆れたような、優しい声が頭の上から降り注いだ。
遠慮がちに部屋の中に足を踏み入れたトシヤが、亜莉香を引き寄せる。静かに扉が閉まる音がした。トシヤの着物に顔を埋める格好になって、引き寄せられた左手は握りしめられたまま、右手は小さな子供を慰めるように頭を撫でた。
「どうした?何があった?」
「本当に、何でも――」
「何でもないなら、泣いてないだろ?頼むから、ちゃんと話してくれよ。話してくれないと、俺もこれ以上どうすればいいのか分からない」
少し困った声で言われて、途切れ途切れに亜莉香の声が零れる。
「ユシアさんの、簪を…壊してしまって。私のせいで…」
必死に泣き止もうとしていたのに、話し出すとますます涙が止まらない。
「大切な簪だったのに…きっと同じものはないのに。キサギさんがユシアさんに贈った簪を、壊しちゃって…」
どうしよう、と声が小さくなった。
泣いても仕方がないのに、壊れた簪はもう元に戻せないのに。
泣きじゃくる亜莉香に、トシヤは何も言わない。撫でていたトシヤの手が離れて、代わりに亜莉香の背中に回った。
ゆっくりとリズム良く、優しく背中を叩く音で、少しずつ時間をかけて亜莉香は落ち着きを取り戻す。深呼吸をして、涙が止まりかけた。
トシヤは頃合いを見計らって、ゆっくりと口を開く。
「アリカが怪我を隠して、泣いているのかと思った」
「違い、ます」
「分かっている。怪我じゃなくて、ユシアの簪のことで泣いているから…なんで他人のことでは泣けるのに、自分のことで泣かないんだよ」
まるでトシヤが悲しそうな言い方に、亜莉香は唇をきつく結んだ。
「捕まって、逃げるためとは言え、窓から飛び降りて。アリカが危ない目に遭っているのに何も出来ない自分自身が嫌だった。アリカが自分のことなんてどうでもいいみたいに、振る舞うのを見るのが嫌だった」
背中を叩く音が止まった。
片腕でそっと抱きしめられて、掴んでいた左手にほんの少しの力がこもる。今にも壊れそうなものを抱きしめるような触れ方に、大切にされているような錯覚を覚えそうになった。そんなことはない。今までもこれからも、あるはずがない。
だって私は、と昔の記憶が頭を過る。
「ずっと…いらない子と言われてきたのですよ」
「アリカ?」
「いらない子だって、皆が言っていました」
トシヤの声が耳に入らず、自嘲気味な声で呟いた。
繰り返し何度も浴びせられた、数々の言葉が今も心の中から消えない。
最初に言ったのは、一人ぼっちの家に時々帰って来る母親だっただろうか。家から出て連絡だけを寄越す父親だっただろうか。それとも、それ以外の人達だったのか。
もう、覚えていない。
陰で繰り返された言葉は、まだ心の棘になっている。
いらない、と言われた日から、きっと何かが壊れてしまった。
いつだって一人で、孤独で、寂しくて。
居場所がなくて、自分の存在価値が分からなくなって。
「私なんて、いなければ――」
「俺にはアリカが必要だ」
最後まで言えなかった亜莉香を、トシヤは少し痛いくらい強く抱きしめた。
「必要なんだ」
耳元で繰り返された声に、何も言えなくなる。
心のどこかで望んでいた。たった一言のせいで、溢れ出した涙と感情を止められない。誰にも必要とされずに過ごしていたのに、誰かに必要とされたいと願っていた。いらない存在ではないと、言って欲しかった。
じわりと涙で視界がぼやけた。
本当は、と声が零れる。
「ずっと…誰かに必要とされたくて。でも、誰にも本当のことは言えないから。怖くても、辛くても、私は一人でどうにかしないといけなくて。大丈夫だって思わないと、私は壊れてしまいそうで――」
一度気持ちを口に出すと抑えきれず、支離滅裂になった。
嗚咽が混ざって、言いたいことが分からない。早く泣き止まなければと思うのに止められず、トシヤにしがみついて声を押し殺して泣く。
亜莉香が泣き止むまで、トシヤはその場を動かなかった。




