19-1
中庭で戦いが続いている。
ルイは少し楽しそうな表情で小刀を振り回し、トシヤは無駄ない動きで日本刀を振り回す。結界の近く、祈るような表情のユシアに背を向けて、キサギが腰にぶら下げていた短い刀で必死に戦い、結界の中の怒るルカと合流したトウゴが何かを話していた。
その戦いを見向きもせずに、亜莉香は音を立てずに屋敷の玄関の近く、木の影に隠れた。女性は亜莉香の存在に気付かずに、戦いを見守っている。
近くまで来ると、心臓は五月蠅いくらい脈打った。
これからすることに緊張して、簪を握りしめている両手が微かに震える。
亜莉香の心情を察したかのように、大丈夫、と声が聞こえた。肩に止まっていた深い緑色の精霊の、何度も繰り返される優しい何度で、呼吸が落ち着く。
深く息を吐き、亜莉香は周りの精霊を見渡した。ふわふわと、赤と青、緑や黄色、紫の精霊達が浮いている。精霊達はまだ何もせずに、宙に浮いているだけだ。
女性から腕飾りを奪うタイミングは、精霊達が教えてくれる。
腕飾りを奪い、決して手放さずに簪で破壊する。
それが為すべきこと。
精霊達は何かを待っていた。その待っている一分一秒が長くて、感じる時間が長い。実際は数分の時間を、亜莉香は息を殺して待ち続けた。
じっと階段に座っていた女性が、とても小さな声で呟く。
「――」
何を呟いたのか、分からなかった。
ただただ悲しそうに揺れる瞳は、まるで決断を迷っているようにも見えた。瞳の奥が揺れて、女性は瞳を伏せる。それはほんの数秒で、次に瞳を開くと同時に、重たい腰を持ち上げるように立ち上がった。
左手首に身に付けていた真珠の腕飾りに目を落として、右手でそっと触れる。
何の意思も感じられない瞳に変わっていて、腕飾りが手首から外れた。
今だ、と声がした。
傍に居た精霊達の声に導かれて、物陰に隠れていた亜莉香は勢いよく飛び出す。同時に傍にいた精霊達が眩い光を放ち、辺りは一瞬で真っ白に染まった。
亜莉香の存在に気が付いて、女性が振り返る。
女性に気付かれても、もう引き返せない。亜莉香は光の中を突き進み、勢いよく腕飾りに右手を伸ばして、力一杯握りしめた。
「――っ!」
腕飾りに触れた瞬間に、燃えるような熱さと凍るような冷たさを感じた。腕飾りを握る右手が痛くても、絶対に手を離さない。
それは、咄嗟に腕飾りを掴んだ女性も同じ。
お互いに引っ張り合う形になって、女性が叫ぶ。
「離しなさい!」
「離しません!」
言い返して、亜莉香は簪を持っていた左手を右手の上に添えた。
腕飾りの色が、白から黒に変わり始める。僅かに黒い光を放ち、その輝きが増した。その光に反応して、周りにいた精霊達が亜莉香の傍に集まった。
精霊達の声援が聞こえて、痛みが和らぐ。
簪から淡く赤い光が溢れて、温かい熱を帯びる。
白い光が徐々に消えて行く中、簪の赤い光が輝き、腕飾りの黒い光が闇に解けていく。お互い力を緩めず、腕飾りの奪い合いが続いた。
無我夢中で、女性が声を荒げる。
「いい加減にしなさい!貴女も道連れになるわよ!」
「それでも離しません!」
「言うことを聞きなさい!!」
どんなことを言われても引きつもりはない。
亜莉香が腕飾りを奪えば、簪で壊すことが出来る。女性が腕飾りを取り戻せば、ルグトリスが現れてユシアを殺す。
亜莉香に目を向けた女性が、唇を噛みしめた。
頭の上に青い光が集まって、また水の魔法を仕掛けられる。その前に女性から腕飾りを奪わなければ、きっと勝ち目はない。
たった一言でも、女性の動きを止める言葉が欲しかった。
気を逸らせるような、一瞬でも動きを止められるような言葉が心に浮かぶと同時に、亜莉香の声が零れる。
貴女は、と声が掠れた。
「本当の貴女は、何がしたいのですか!!」
目の前にいた女性が息を呑んだ。
驚いて、僅かに力が緩んだ瞬間に、亜莉香は腕飾りを強く引っ張る。女性の力がなくなった反動で尻餅をついて、右手には腕飾りを握りしめていた。
女性が奪い返そうとする、その前に。
迷うことなく腕飾りを地面に押し付け、持っていた簪を両手で突き刺した。
壊れてしまえ、と願った。
腕飾りを簪で突き刺す瞬間に、強く願った。
簪を突き刺すと、真珠の一つが欠けた。黒い光は赤い光に飲み込まれて、白と赤の光が粒となって弾けた。亜莉香の身体は真後ろに吹き飛ばされて、玄関の前にあった薔薇に突っ込む手前で止まった。地面を滑る羽目になり、着物も袴も土だらけ。
驚きの連続で、ゆっくりと起き上がった亜莉香は深く息を吐く。
「…びっくりした」
まさか吹き飛ばされるとは思っておらず、硬く握りしめていた簪を見下ろす。
ありったけの力で握りしめていた簪の、淡く赤い光は消えていた。腕飾りは、と顔を上げれば、数歩先に立ち尽くす女性との間に落ちている。
真珠の一つが欠けて半分の大きさとなった、壊れた真っ白な腕飾り。
腕飾りには目もくれず、女性は驚愕と焦燥の混ざった表情で、亜莉香を見つめていた。あからさまに動揺して、震えた声で話し出す。
「貴女こそ…誰なの?」
「…え?」
「それだけの力を持っているなんて、貴女は何者?」
繰り返された質問に、亜莉香は答えられなかった。
それだけの力の意味が理解出来なくて、何者かと問われても分からない。じっと見つめる女性を見つめ返して、唾を呑み込んでから言う。
「それは…私の方が知りたいです」
正直に答えた声は掠れて、段々と小さくなった。
返事はなかったが女性の視線が下がり、それ以上の追求はない。女性は片足を引くと、さっと身を翻して、被っていた紺の着物を深く被り直した。
「忠告をあげる」
「忠告…?」
「戦う意志がないのなら、余計なことはしないで。今回は引き下がっても、次も見逃すとは限らないから」
亜莉香に背を向けて、素っ気ない口調で女性は言った。
ゆっくりと歩き出した女性の姿は闇に溶けて、そのまま消える。
追いかける気は起きず、女性がいなくなると亜莉香の肩の力が抜けた。危ない橋を渡っていたような気持ちが、今更ながら湧く。
「終わったのかな?」
自分自身に問いかければ、精霊達が傍にやって来た。
終わった。もう大丈夫、と喜ぶ精霊が傍を飛び回る。ありがとう、と別の声も聞こえて、精霊達はふわふわと、どこかに行ってしまった。
屋敷の外へと自由に出入りする精霊の姿を見上げて、宙に浮く焔が瞳に映る。
焔のおかげで辺りが明るい。いつから亜莉香を照らしていたのか、不思議に思って焔を眺めていると、座りこんでいた亜莉香の名前を呼ぶ声が聞こえた。
全身の力が抜けていて、立ち上がるのが辛い。
身体の向きを変えるよりも早く、目の前に駆けつけたトシヤが現れた。
物凄く怒った表情で膝をつき、両手が伸びたと思ったら頬を引っ張られる。
「俺は先にトウゴと帰れって、言ったよな?」
「い、いひゃいれす」
「ちゃんと、言ったよな?」
ぎゅーっと頬を引っ張られたまま、亜莉香は何度も頷いた。トシヤの怒りが収まる気配がなく、引っ張る力が緩む気配もない。加減をして引っ張られても、痛くないわけじゃない。
いつまで続くのだろう、と少し涙目になると、後からやって来たルイと目が合った。
少し安心した顔をして、ルイがトシヤの肩を叩く。
「トシヤくん、それくらいにしてあげなよ」
「俺はまだ怒っている」
「それは誰が見ても分かるから」
ルイに宥められ、トシヤが引っ張るのをやめた。
手に持っていた簪を襟元に隠してから、亜莉香は引っ張られた頬を両手で伸ばす。何度か頬を伸ばすと、さっさと立ち上がっていたトシヤが右手を差し伸べた。
躊躇ったのは一瞬で、亜莉香は手を重ねる。
トシヤの隣に立つと、勢いよく駆け寄ったユシアがしがみついた。
「ごめんなさい!私のせいで、本当にごめんなさい!」
「え…別に、ユシアさんのせいでは?」
「私のせいよ。私のせいで酷い目に遭って、辛い目に遭わせて――」
「そこまで酷いことはされてないから。本当に大丈夫」
今にも泣き出しそうなユシアに、亜莉香は優しく言った。
鼻をすすったユシアは少し離れて、亜莉香を下から上まで見た。
両手を下げていれば、手首の傷は着物の袖で上手く隠れる。顔に大きな傷はなく、着物はまだ湿っているし、全身汚れているが、大きな怪我はない。
余計な心配をさせまいと、亜莉香は微笑む。
「ほら、怪我してないよ?」
「手首に紐で縛られた痕があるけどな」
トシヤの一言で、亜莉香の笑みがぎこちなくなった。
「ごめんなさい。かすり傷は、ちょっとあります」
「なんでそんな嘘をつくのよぉ」
肩を震わせて泣くのを我慢するユシアが、怪我をしていた両手首に触れた。
怪我を治してもらっている間に、亜莉香は集まった面々の顔をよく見る。少し離れた場所に移動したルイの隣には眉をひそめたルカがいて、二人で内緒話をしている。
腕を組んで黙り込むトシヤの肩に、トウゴが腕を回した。
「まあ、トシヤはそんなに怒るなよ。何が起こったかよく分からないけど、問題が片付いて全部終わったんだろ?」
「あ?」
それ以上話すな、と言いたげな瞳で睨まれて、トウゴは笑みを浮かべながら一歩離れた。
トシヤの怒りが暫くは続きそうで、亜莉香は距離を置いて居心地悪そうに立っていたキサギを見た。目が合うとお互い何も言わずに頭を下げ、キサギの視線がユシアに移る。
ユシアは亜莉香の怪我を治していて、キサギを見向きもしない。
亜莉香が捕まっている間に何かあったのではないか、と思っていたが、何も解決していない様子。どうすればいいのか考えながら、今度は中庭に目を向けた。
中庭にいたはずのルグトリスの姿はどこにもない。
まるで最初から誰もいなかったかのように、静まり返った中庭は荒れ果てていた。
少し目を離した隙に、ルカとルイがもう中庭の中を歩いていた。何かを探して、探し物を見つけたルカがそれを拾い、ルイに見せる。遠くて話し声も聞こえず、頷いたルイが何かを受け取って、袖の中に入れた。
何を拾ったのか、聞くタイミングはなかった。
亜莉香の元へ戻って来たルイは、笑みを浮かべて話し出す。
「治療終わったら、さっさと家に帰らない?」
「アリカを捕まえた女はいいのか?」
「この屋敷に僕達以外の気配はないから、もう近くにはいないでしょう?それともトシヤくん、今から一人で探しに行く?」
質問を質問で返され、眉間に皺を寄せたトシヤが口を閉ざした。
亜莉香の怪我を治し終えたユシアが、とても小さな声で口を挟む。
「私は…本当に家に帰っていいの?私のせいでアリカちゃんをこんな目に遭わせて、皆にまた迷惑をかけるかもしれない。狙われる理由だって、いつまでこの状況が続くかだって分からないのに」
「でも、今回は見逃すと言っていましたよ」
誰もがユシアにかける言葉に迷っていた状況で、亜莉香は即答していた。
手首の怪我が治っていることを確認していると、視線を感じて顔を上げる。何も考えずに答えたせいで、誰もが全く理解していない表情を浮かべていた。
ユリアの姿に見えていた女性との一部始終を、どこから話せばいいのか。
すっかり忘れていた事実に気が付き、亜莉香の顔は青ざめた。
「えっと…その、とりあえず帰りませんか?お腹が減ったなー、なんて」
冗談交じりに話を逸らして、亜莉香はぎこちなく笑った。
一から説明すると、少女に捕まってからの経緯を話さないといけない。精霊が見えることも、精霊に過去を見せてもらったことも、ユシアやトウゴ、キサギには話していない。
困った亜莉香の意図を察してくれたのはルカで、深くため息を零した。
「そうだな、さっさと帰ろうぜ」
「そうだねー。僕も疲れたし、アリカさんなんて酷い格好だもんね」
「…そんな酷いですか?」
訊ねた疑問に否定する声はなかった。これ以上余計なことを言わないように、亜莉香は口を閉ざすことにした。




