18-3
息が苦しくなって意識を失ったと思ったら、気が付いた時には見知らぬ部屋にいた。
そこは屋根裏部屋で、天井が高くて三角の屋根の形。部屋の中はベッドと、沢山の分厚い本が山積みで、物は少ない。
天井近くの小さな窓からの月明かりを頼りに、幼い少女はベッドに背を預け、医学書を一心不乱に読んでいた。
数歩先に立っている亜莉香の存在に、少女は気付かない。
透き通る緑色の、芽吹いたばかりの草木の色の髪は、月明かりで綺麗に輝いているようにも見えた。少女の髪はぼさぼさで、雑に鈴蘭とビーズの簪でまとめてある。着ている着物は深い紫の矢羽柄で、一回り小さな着物。
裸足の少女、幼いユシアは誰かが部屋の扉が叩く音がしても顔を上げなかった。
ユシアが返事をしなくても、部屋の扉は開く。
食事を持って来た少年、ミルクココアのような茶色の髪を持つ幼いキサギは、部屋の中を見て深いため息を零した。
「また医学書ばっかり読んでいる」
「…」
「おい、夕飯!また食べ損ねるつもりか!」
ユシアの目の前まで進み、キサギは声とは裏腹に慎重に食事のお盆を目の前に置いた。ユシアの前に立ち膝をすると、勢いよく医学書を取り上げる。
驚いたユシアが顔を上げて、ようやくキサギの存在を確認した。
「…キサギ。貴方はユリア姉さんの用事を頼まれて、今日はここに来られないはずじゃなかったのかしら?」
「そんな用事はさっさと終わらせた。俺が持って来ないと食べないだろ」
キサギの言葉に、ユシアは何も言わずに食事に手を伸ばした。
静かに、ゆっくりと食事を始めたユシアを見ていられず、キサギは座りこんで部屋の中を見渡した。キサギの視線が止まったのは、ベッドの脇に置いてあった二枚の写真。
木製の写真立てに飾られた、ユシアとおそらく両親、ユシアとキサギの二人で撮った写真。どちらの写真でも、ユシアは満面の笑みを浮かべて笑っていた。
その笑みが、今のユシアにはない。
ただ黙々と食事を食べ、キサギを見ずにユシアは小さな声で言う。
「…まだ、怒っていると思っていたわ」
「ユシアが家を出る話なら、俺はまだ納得していないからな」
「納得してよ。私はこれ以上…キサギの重荷になりたくないの」
呟くように言って、ユシアは手を止めキサギを見た。
真っ直ぐに見つめられたキサギが、奥歯を噛みしめて目を逸らす。その態度でユシアも視線を下げ、ごちそうさまでした、と言った。
半分も食べていない食事を見て、キサギの顔が歪む。
「頼むから、ご飯はちゃんと食べてくれよ。俺が部屋まで持って来ないと、ユシアは全然食べようとしない」
「だってお腹が空いてないの。食欲がないから」
下げていいわ、と言って、残った食事のお盆をキサギの方に押した。
読んでいた医学書はキサギの真横にあり、ユシアはゆっくりと立ち上がって別の医学書を手に取った。立ったまま医学書を読み始めたユシアの背中に、お盆を持って立ち上がったキサギが訊ねる。
「なんで今日は、いつもより素っ気ないないんだよ」
「…そんなことないわ。ただ――」
「ただ?」
「…やっぱり、何でもない。忘れて」
話を途中で無理やり切ったユシアは、一度もキサギの方を見ようとはしなかった。
気まずい空気に、キサギは何も言わずに部屋を出て行こうとする。部屋を出る前に医学書から目を離さないユシアを振り返り、キサギが背を向けると今度はユシアがキサギに悲しそうな眼差しを向けた。
扉が閉まった瞬間に、ユシアが震える声で呟く。
私のことなんて忘れて、と。
一瞬で、場面が変わった。
部屋にいたはずのユシアの姿が消えて、部屋の真ん中で膝をついて泣き叫ぶキサギの姿があった。声を上げて泣くキサギの傍には誰もいない。
ベッドの脇に置いてあったはずの写真の一枚、ユシアとキサギの映った写真を握りしめてキサギが泣いていると、誰かが部屋の中に入って来た。
それはもう一枚の写真に写っていた男性で、ユシアの父親。真っ黒な着物と袴に身を包んだ男性は、キサギの目の前にしゃがんで頭を撫でた。
「悪かったね、キサギ。君にはつらいことをさせた」
「俺がユリア様の命令に従えば、ユシアを守れると思っていたのに。俺は、結局…ユシアを守れなかった」
「それは私も同じだ。あの子には何もしてやれなかった…何も、出来なかった」
話していた男性の瞳から、静かに涙が流れて床に落ちた。
男性の涙に気が付き、泣いていたキサギが顔を上げる。目が合った男性は悲しそうな顔で、キサギに笑いかけた。
「キサギ、君にとってユシアがいた家にいるのが辛いなら、この家を出てもいい。君なら他の家でも受け入れてもらえるだろう。君が望むなら、私はすぐにでも他に君が仕える家を探すことが出来る」
男性の提案に、キサギは静かに首を横に振った。
「嫌です…俺は、ユシアのことを忘れたくありません。忘れられるはずが、ありません」
段々と声が震えて、キサギは静かに涙を流した。
「事故だって、皆が言っています。獣に食べられて、もう見つけることが出来ないと。それを簡単に受け入れたくありません」
「そうか、それは私も同じだ。だが、このまま泣いているわけにもいかない。ユシアは常々、病気だった母親を治したいと言っていた。ユシアも、ユシアの母親もいなくなってしまったが、その意志は私が受け継ぐべきだろう」
「…旦那様?」
「それにこの家は、昔は名の知れた癒しの魔法を使う一族だ。ユシアが生まれた時に、私はそれを思い出した。それを忘れてはいけない、とも思ったものだ」
男性の言いたいことが理解出来ず、キサギは話を黙って聞いた。
微笑んだ男性が、キサギに優しく言う。
「私はね、これから色んな医者に声をかけようと思う。私には医術の経験も知識もないが、どんな人でも、どんな怪我や病気でも治せる薬や設備を提供したい。商談の仕事もあって、すぐには無理かもしれないが…キサギ、君は手伝ってくれるかい?」
「俺が、ですか?」
「あぁ、君には是非手伝って貰いたい。そして時々でもいい、私と一緒に大切な娘の思い出の共有しようじゃないか」
どうかね、と男性が言った。キサギが迷ったのは数秒。涙を拭うと姿勢を正し、片膝をついたキサギは男性に頭を下げた。
「それがユシアの願いに繋がるのなら」
はっきりと宣言した声が、亜莉香の耳に響いた。
目の前の景色が遠のく。
徐々に声が遠ざかり、見えていた光景が滲んだように、よく見えなくなっていく。次の場面に変わるよりも早く、今度はキサギの驚いた声が聞こえた。
「何を、言っているのですか?」
「落ち着きたまえ、驚かせたことは謝る。君に言わなかっただけで、このことは昨年から考えていたことだ」
「だからって、この家を出るなんて」
瞬きすれば、屋根裏ではなく、執務室のような部屋にキサギと男性がいた。
大きな窓から朝日が射しこみ、広い部屋の一面の壁が本で埋め尽くされていた。その本棚の前にあったテーブルに肘をつき、椅子に座っていた男性は白髪が増えて、心なしか一回り小さくなって見える。
丸い梟の家紋を背負った男性の前に、成長して亜莉香が出会ったキサギがいた。
動揺しているキサギを、男性は部屋の中のソファに座るように勧めた。キサギが大人しく座れば、男性もソファに移動して、向き合ってから声を低くする。
「どうやら妻とその子供達は、私のことも事故として殺してしまいたいらしい。そのことは、キサギも気付いていたのではないかい?」
「…確証は、ありませんでした」
視線を下げたキサギの小さな声は肯定で、膝の上で両手を握りしめた。
「けれども、そんな気はしていました。突然馬が暴れ出したり、外出した先で襲われたり。あれは事故ではありません」
「そしてユシアの件も」
ユシア、という名前で、キサギが苦い顔をした。
男性は優しい眼差しでキサギを見ると、視線を窓の外に向けた。
「ある知人に相談したら、家を出ればいいと軽く言われたよ。必要最低限を持って家を出ても、案外生きていけるものだとね」
「その知人の方は、どなたですか?」
「私もまだ直接会ったことがないが、ガランスに住む方だ。個性的で楽しい方で、私の滅茶苦茶な薬を送りつけても、文句を言われたことがない」
その知人を思い出し、男性は笑みを零した。それに、と話が続く。
「私の身体はもう長くはない。ガランスに行けば、その知人が私の身体を診てくれると言う。それを聞いたら、この家を出るのも悪くはないと思った」
「商談はどうするのですか?今日までだって、様々な方と仕事をしてきましたが」
「それは妻達が勝手にするだろう。今だって隠れて手を回している。私は潔く身を引いて、残りの余生は静かに暮らしたい」
自らの願いを言った男性は、肩の力を抜いた。
話を聞いていたキサギは、男性を見る。
「私は、旦那様のいない家で過ごすつもりはありません」
「そう言ってくれると、何だか嬉しいものだね。さっき言っただろう。私は必要最低限を持って家を出ればいいらしい。それなら必要なのは、私の世話をしてくれる人間が二人程、それだけで十分だ」
「二人、ですか?」
「君と、もう一人いてくれれば十分だ。料理の上手い女性で、亡き妻も好きだった菓子を、時々作ってくれていた女性がいてね。その人には話をしてある。あとは君の承諾を得られれば、私はすぐにでも家を出ることが出来る」
どうする、と男性がキサギに言った。キサギは迷うことなく答える。
「付いて行きます。最初に私を誘った時に言っていましたよね。時々でもいいから、ユシアの思い出の共有をしよう、と。旦那様がいなければ続けられません」
「そうか。良かった」
良かった、と心底安心した男性は立ち上がった。窓際まで歩き、キサギに背を向ける。
「付いて来てくれるとなると、もう一つ。どうしても話しておきたいことがある」
「何ですか?家を出る話で驚かされているので、大した話では驚きませんよ」
少し気が抜けたキサギが言えば、男性は言うか言うまいか悩んだ顔で振り返った。少し間が空き、男性は静かに話し出す。
「ユシアだが――死んではいなかった」
「…え?」
「ガランスで生きている。そう、知人が言っていた」
驚愕して目を見開いたキサギが言葉を失った。




