18-2
冷たい、と感じた。
ゆっくりと瞼を開けば、部屋の中は明るくて、真新しい畳の匂いがした。畳の上に誰かが豪華な椅子を置いて、足を組んで座っている。
よく顔を見ようにも、横たわっている身体の両手が後ろで縛られて、身動きが取れない。
まだ意識がはっきりとせず、ぼんやりとしていると頭に水を掛けられた。冷たいと感じていたのは、水を掛けられたせいだ。上半身が濡れて冷たくて、前髪が顔に引っ付いた。意識が戻れば、目の前に誰がいたのか、はっきりと分かる。
ユリア、と名前を聞いていた女性が、椅子に腰かけて亜莉香に微笑んでいた。
「そろそろ起きてくれないかしら?もうすぐ夜よ?」
耳に響く高い声は、聞き覚えがある。
昨日と同じ派手な袴姿のユリアの後ろには、正方形の窓が一つ。鈴蘭の模様が描かれた障子が格子に貼ってあり、外は暗い。茶室のような部屋の大きさは八畳程で、部屋の隅に茶道の道具が揃っていた。
ユリアの座る椅子が、部屋の雰囲気に合っていない。風船のように丸く膨らんだ形の背もたれに、椅子の脚の先まで優雅で品のある椅子で、その椅子だけが洋風だった。
部屋には亜莉香と、ユリアしかいない。
起き上がる気はせず、無表情の亜莉香は素っ気なく言う。
「私に何の用ですか?」
「意外と冷静なのね。怖がったり、怯えたりする子なのかと思っていたのに」
意外だわ、と付け足して、ユリアは右手に持っていた扇で、口元を隠しながら笑った。
笑い声を聞いているだけで気分が悪くなりそうで、亜莉香は視線を落とした。声を聞きたくないが、部屋から逃げ出せそうにない。
両手は紐のようなもので、しっかり縛られている。
見知らぬ部屋にいて、この場所がどこなのか見当がつかない。
どうしようか、と冷静に考えていた亜莉香に、椅子から立ち上がったユリアは近づいた。履いていた靴で頭を踏みつけられれば思考が停止して、亜莉香は目をつぶった。
痛みに耐えて、奥歯を噛みしめる。
抵抗もせず、声を出さない亜莉香に、ユリアは不思議そうな瞳を向けた。
「貴女…何を考えているの?まさか、逃げ出そうなんて考えているの?」
肯定も否定もしなければ、ユリアは勝手に肯定と受け取った。
「ユシアの知り合いは、本当に生意気な人間が多いの、ね!」
「――っ!」
勢いよくお腹を蹴られて、痛みで身体を丸めた。
亜莉香が微かに瞳を開けると、ユリアはしゃがんで囁くよう話し出す。
「この屋敷には、私達しかいないわよ。貴女が逃げ出せば、すぐに捕まえられるの。そもそも逃がすつもりは、まだないのだけど」
「…まだ?」
「貴女を餌にして、ユシアとキサギを呼び出しているところなの。二人が来る前に逃げられたら、捕まえた意味がないでしょう?」
違うかしら、と問いかけられて、亜莉香は無言を通した。
怪しい笑みを浮かべたユリアが、そっと亜莉香の頬に手を伸ばす。触れられたくないのに、逃げ場がない。触れられた頬に虫唾が走り、ユリアは勝手に話し出す。
「まさかユシアを捕まえて来るように命じたのに、貴女を捕まえて来るなんてね。ユシアと関わったばかりに…可哀想に」
心から同情したような口ぶりの、ユリアの右手が離れた。
安堵を悟られないようにユリアから目を逸らさず、亜莉香は唇を固く閉ざしてユリアを見つめる。ユリアは足取り軽く椅子まで戻り、座る前に亜莉香に尋ねる。
「もうすぐユシアが来るけど、まだ時間があるから。話をしてくれない?ユシアのことを色々と知りたいのよ」
色々、とユリアは強調した。
亜莉香が何も言わないので、ユリアは椅子に座り直す。右肘に左手を添えて、顎を右手の甲に乗せた。静かな睨み合いが始まるが、すぐに呆れた顔をされ、口を開く。
「強情な子ね。話してくれれば、私とも仲良くなれるかもしれないわよ?」
「貴女と仲良くする必要がありますか?」
反射的に言い返した言葉に、ユリアは声を上げて笑った。
「そうね、私だって貴女と仲良くする気はないわ。でも、何も話さないで済むなんて思わないで、私の言うことを聞かないなら、今すぐに殺してもいいのよ」
「殺す、か…」
とても小さく、独り言を呟いた亜莉香の声はユリアには届かなかった。
殺されたいのか、と問われれば、違うと言いたい。それを言ったところで、ユリアが解放してくれるわけでもない。
すっと表情が消えた亜莉香は、それ以上は言わない。動かない人形のように、視線を床に向けて、身体の力を抜いた。
ユシアのことを、答えてあげる義理はない。
もう一度眠って、夢のような現実から覚めることが出来たらいいのに、と考えていたら、頭の上に青い光が集まって、どこからともなく水が降って来た。
「ちょっと、ここで寝るつもり?」
心の底から怒りのこもったユリアの声に、仕方なく顔を上げる。
顔を上げてユリアを見ると、何故か疑問を覚えた。緑の髪、ユシアの姉であるユリアは、水の魔法を使った。例外はいても髪の色で大抵の魔法を見分けられていたから、少しおかしな感じがした。
何も言わないとまた蹴られそうな気がするが、話すことがない。
怒りを露わにしたユリアが、亜莉香を睨みつける。怒りの矛先を向けられても、どうしようもない。ユリアは持っていた扇を、勢いよく開いた。
直後に亜莉香の頭を包み込む水が出現して、息が出来なくなった。
苦しくて、僅かに開いた瞳に映ったのは、ユリアの手に持っていた扇。
何故か、扇が気になった。
最初に見た時はユリアの髪と同じ緑色だった気がするが、今は深い青の、深海のような青に見える。きっと意識が途切れる前の、目の錯覚だ。
そのせいで一瞬だけ、ユリアの姿が全く違う女性に見えた。




