02-3
ユシアがいなくなると部屋の中が静かになった。トシヤを見ると目が合った。
「どうかしたか?」
「え、いや。何でもないですが…」
目が合うと思っていなかった、とは言えない。ユシアが手を付けていなかった和菓子をトシヤが食べている間、亜莉香はグラスを両手で包んで、残っていたお茶をぼんやりと眺める。
あとは、とトシヤが話し出して、亜莉香は顔を上げた。
「帰る方法を考えるか。帰る場所がはっきり分かれば、方法も分かるかもしれないけど。この国のことも知らなかったわけだから、ド田舎ではなく別の国に帰りたかったわけだ」
「すみません。言ってなくて…」
「アリカが謝ることじゃなないだろ?俺が勝手に決めつけていたわけだし」
不思議そうに言われ、でも、と話す途中で、トシヤが亜莉香の言葉を遮る。
「帰る場所は、この国から遠いとか近いとか。分かったことはあるか?手を貸すと言った以上、困っているなら助けるから」
「帰りたいわけじゃないです」
親身になってくれるトシヤの話の途中で、本音が零れた。
言ってしまった言葉は取り消せず、それ以上は言えない。
視線を下げ、目を合わせようとしない亜莉香を、見定めるような瞳で見つめていたトシヤは、そっか、と何かを察したように呟いて、黙る。
お茶を飲みながら、亜莉香は思い出した。
学校から家に帰っても、誰もいない生活。仲の良かった友達は幼馴染の一人だけ。その幼馴染には沢山の友達がいて、亜莉香がいなくなっても問題はないだろう。いつだって誰かに囲まれていた幼馴染と、亜莉香は正反対だった。
後悔は一つだけ、幼馴染と交わした約束を守れなかったこと。
駅で待ち合わせをしたのに会えなくなってしまったことを、仕方がないと諦める。
帰り方が分かったとしても、帰りたい気持ちが湧かない。
帰る場所。
帰りたいと思える場所なんて、なかった。
帰りを待っていてくれる人なんて、いなかった。
じわっと、涙が溢れそうになって、慌てて瞳を閉じた。泣いているのを気付かれないように、心配をかけないように、気持ちに蓋をする。余計なことを口走らないように、と考えていると、廊下を走って来る足音が聞こえた。
勢いよく扉が開いて、ユシアが戻って来る。
「お待たせ!て、暗いわね、この部屋」
「そうか?考え事していたんだよ」
「トシヤが考え事?珍しいわね。で、何を考えていたの?」
ユシアは座らず、それぞれのグラスにお茶を足した。亜莉香の残り半分になっていたグラスにお茶を入れるユシアに礼を言えば、いえいえ、と小さく返された。
うーん、と唸りながら、トシヤが口を開く。
「アリカがどこに住むか」
「「え」」
「顔見知りの誰かに預けるのが一番安心だし、俺も手助けが出来るけど。大工の親父は最近体調悪いらしいし、パン屋の夫婦は忙しい。あとは…」
「そこまで面倒を見てもらうわけに」
真面目に考えているトシヤに、亜莉香は言った。
出会ったばかりの人にそこまでお世話になるわけにはいかない。自分のことぐらい自分で何とかしなければ、と考える亜莉香とは違い、ユシアはお茶を元の場所に戻すと、勢いよくトシヤを振り返って叫ぶ。
「なんで、うちが候補に入らないのよ!」
「部屋がないだろ?」
え、と驚いたのは亜莉香だけで、トシヤが当たり前のように言った。
負けるものかと意気込んで、ユシアが口を開く。
「素直で可愛くて、礼儀正しいアリカちゃんなら、どっかの大馬鹿どもより、うちにいるべきでしょう!」
「その馬鹿どもに、俺も含まれないよな?」
「勿論、含まれるわよ」
腕を組んで、バッサリと言い切ったユシアに、おいおい、とトシヤは呆れる顔になる。
それに、とユシアの言葉は止まらない。
「部屋なら私の部屋を半分貸すわ!当分の食費が必要なら、アリカちゃんの分も出すから問題ない。アリカちゃんがいるだけで、私は幸せ!」
「そこまで言い切ると、アリカが不安になるだけだからな」
ぼそりと呟いたトシヤの声は、きらきらと瞳を輝かせたユシアに届かない。それ以上の名案はない、と言わんばかりのユシアと悩むトシヤを、亜莉香は見比べる。
仲の良いトシヤとユシア。
一緒に住んでいるような言葉に、亜莉香は首を傾げた。
「お二人は恋人同士なのですか?」
「「は」」
想像していなかった低い声と冷たい視線を、同時に返された。
トシヤもユシアも、睨むような目つきになり、亜莉香の表情が蒼白になる。間違ったことは言っていない、と慌てて言葉を紡ぐ。
「一緒に住んでいるのですよね?兄妹ではないですよね?」
「そうよ…そうなのだけどね…トシヤが恋人なんて、絶対に嫌!冗談でも言わないで!鳥肌が立つから!」
「それは俺の台詞だ」
深いため息をついたトシヤが、ソファにもたれかかった。
トシヤもユシアも怒ってはいない。おろおろしているのは亜莉香だけで、それでもこれ以上余計なことを言ってしまうのが怖くて、言葉は出ない。
意気消失したユシアは、亜莉香の隣のソファに腰を下ろした。深呼吸をして落ち着いたのか。突然、ユシアは力強く亜莉香の肩を掴んだ。
「あのね、確かに一緒に住んではいるけど、誤解しないで。恋人じゃないわ。どちらかと言えば、兄妹の方が近いの」
「うちは一軒家で、今住んでいるのは五人。半年前までは俺とユシアと、それからトウゴと言う名前の俺の兄の三人で暮らしていた。半年前に、居候と言う名の厄介なルカとルイが野良猫のように住み着いている」
付け足すように、トシヤが言った。
「野良猫、ですか?」
「そう」
繰り返した亜莉香の問いに、トシヤが同意して、ユシアも頷いた。
「ルカとルイは、私が拾ったの。家がないって言うし、可哀想だから連れて帰ったら住み着いちゃって――あ、でも一応、ご飯代は稼いでくれているのよ?」
フォローがフォローに聞こえない。そもそもルカとルイの扱いが猫扱いなのを、突っ込みたいが、言えない。
トウゴは、とトシヤがどこか遠くを見つめる表情になる。
「俺の兄だけど変人だから、会っても関わらない方がいい」
「そうね。関わらない方がいいわ。ルカなんて、未だにトウゴと話さないのよね。私ともあんまり話してくれないけど」
「ルカの場合、ルイ以外には心開いてないだろ」
「そうかもしれないけど」
あーあ、とユシアが残念そうな声を出す。
「アリカちゃんが家にいてくれるだけで、私は助かるけど。変人だらけの家は、普通に嫌よね。住みたくないわよね」
「えっと…」
ユシアが一人落ち込み始め、ソファの上で一人蹲る。いじけるような素振りに、亜莉香はトシヤに助けを求めて視線を送るが、気付いてもらえない。
「結局はアリカ次第だろ。部屋の問題がないなら、俺が止める権利はない。別の場所を希望するなら他を探すだけ。アリカがどうしたいか、だろ?」
どうしたいか、と真面目な顔で問われて、答えに困る。
「私は…」
「あー、もう!やっぱり駄目!他の家に行っちゃ嫌!」
急に顔を上げたユシアが唐突に言い、亜莉香の両手を掴んでじっと見つめた。
「アリカちゃん、うちに来て」
「ユシア、アリカの気持ちを尊重しろよ」
「だって、他の家に行くならやっぱり一緒に住みたの!ルカは私と仲良くしてくれる気配がないし、ルイの見た目は女の子だけど中身は男だし。トシヤとトウゴは兄妹みたいなものだから、私は友達が欲しい!」
早口でユシアが言い切り、面をくらったのは亜莉香だけじゃなくトシヤも同じだった。呆然として、亜莉香は瞬きを繰り返す。
「え、えっと?」
「ユシア、友達が欲しいなんて普通言わない」
笑いを耐えようとしたトシヤだったが、じわじわと込み上げてきたようだ。耐え切れなくない表情に、恥ずかしくなったユシアの顔は赤くなる。
「五月蠅い!あんたと違って、私は人付き合いが下手なのよ!」
「下手とか言う問題じゃないだろ。それに、うちじゃなくても友達になってもらえばいい話だろ?なんでわざわざ、その選択肢を選ぶのか――」
「五月蠅い!五月蠅い!五月蠅い!!!」
ユシアは立ち上がって、笑い続けるトシヤに叫んだ。
笑ってはいけない、と思いつつ、目の前の光景がおかしい。亜莉香は右手で口元を隠して、声を出さぬように静かに笑う。
ユシアだけが笑われている現状に納得いかず、頬を膨らませた。
「もう!そんなに笑わないでよ!アリカちゃん、行く場所ないなら家に来て!一生面倒みるわよ!」
「一生はないだろう」
「それでいいの!アリカちゃん、言いたいことはある!?」
怒涛の勢いで話していたユシアが、亜莉香を振り返った。心なしか涙目で、じっと見つめる瞳が真剣なので、笑うのをやめて、少し考える。
帰りたい場所は、ない。
行きたい場所も、ない。
これから先、どうなるのかも分からない現状で、頼れる人はいない。一人で生きていく覚悟もなく、生きていけるなんて考えてもいなかった。
誰かに必要とされるなら、と考えて、答えは決まった。
スカートの裾をギュッと握りしめ、意を決したように口を開く。
「暫くの間、お世話になってもいいですか?迷惑はかけないようにしますし、出来る範囲で受けた恩は返します」
こんな私ですが、と小さく付け加えた。
じっとトシヤとユシアを見つめると、二人は同時に口を開く。
「「勿論」」
優しい声が重なって、ユシアは亜莉香に抱きついた。
やったー、と声を上げながら、ユシアが喋り出す。
「暫くじゃなくて、これからずっとよろしくね!まずは必要なものある?時間があるなら一緒に買い出しに行く?私の着物を貸すことも出来るけど、似合う着物を一式揃えましょうか!」
「え?」
「ユシア、それくらいにしておけよ」
前触れもない質問攻めに驚いて、亜莉香は上手く答えられなかった。亜莉香とユシアの様子を眺めていたトシヤは、亜莉香を庇うように言う。
「ユシアはまだ仕事の途中だろうが。今日は俺が連れて帰るから、ユシアは明日半日休みでも取って、街を案内すればいいだろ?」
「それもしたいけど!もっとアリカちゃんのことを知りたいの!」
「今日の夜にでも聞けよ」
暴走気味のユシアが、今更気付いた顔になる。
「そうよね。家に帰ったらアリカちゃんがいるよね。友達が出来たのは、夢じゃなくて現実。大丈夫、落ち着いてきたわ」
「いや、全く落ち着いたように見えない」
「だって、落ち着けないのよ!どうすれば落ち着けるの!」
「俺に聞くな!」
間も置かず、繰り返される会話。亜莉香の入り込める隙は無く、ぬるくなったお茶に手を伸ばして、そっと飲む。
とんとん拍子に話が進んで、思考が追いつかない。
訳も分からない状況なのに、何故か楽しいと感じてしまう。
騒ぐトシヤとユシアの姿を見ながら、亜莉香は知らないうちに笑みを浮かべていた。




