14-3
痛みは、なかった。
紅色の光が瞳に溶け込んだ瞬間に、驚いて瞼を閉じただけ。
瞳を開ければ、亜莉香は見知らぬ場所で立ち尽くしている。ぼんやりとした頭で辺りを見渡せば、先程までいた林のひらけた場所とよく似ている場所にいた。
知らないうちに、元の場所に戻って来たわけではない。
その証拠に、見知らぬ子供が三人。亜莉香の目の前にいた。
亜莉香が立っていることなど気付かず、蹲っている三人のうちの一人が言う。
「いいか、夜の林は危険だ。誰にも気配を悟られないように、静かに行動するんだぞ」
「分かっているよ。イオも、約束を守れるよね?」
「うん!」
三人の中で一番幼い少女、イオと呼ばれた少女が、嬉しそうに大きな声で頷いた。
その声が大きくて、残りの二人が慌ててイオの口を塞ぐ。幼いイオは、五歳以下にしか見えず、大きな牡丹が咲き誇る橙色の着物を着ていた。緋色の髪はくせ毛で、背中まで伸びて長く、瞳はルイと同じ深い緑色。
残りの二人の子供は十歳前後に見える、ルカとルイによく似ていた。
似ている、と言うよりも、本人達の子供の頃に見えて仕方がない。
紺色の無地の着物に、黒い袴を穿いていた子供が呆れながら言う。
「ルイ、やっぱりイオは置いて行こうぜ」
「ルカ、ここで置いて行ったら、もっと五月蠅くなるよ。ここは連れて行った方がいい」
「うん!」
訳も分からず、イオは嬉しそうに言った。
ルイ、と呼ばれた少女にしか見えない子供は、髪より濃い桃色の矢羽根柄の着物。イオの頭を優しく撫でて、声を潜める。
「イオ、静かにね」
「しー?」
「うん。しー、出来るよね?」
「しー、だぞ。しー」
念を押す紅色の髪を一つにまとめていた少女、ルカも真剣な眼差しで人差し指を口元へ。イオはにっこり笑って、何度も首を縦に振る。
「うん、うん!イオ、しー、する!それでね、カッコウカ持ってかえるの!」
「ヤコウカ、な」
舌足らずのイオの言葉を、ルカは即座に訂正した。ルイは肩を振るわせて笑いを耐えようとするが、耐え切れずに笑いが零れている。笑い出したルイに、ルカが冷ややかな視線を送る。
ルイは口角を上げたまま、イオに尋ねる。
「イオ、誰にその名前を聞いたの?」
「フミエちゃん!」
「フミエかよ…間違った知識を教えやがって」
頭を抱えるルカと違い、ルイは楽しそうに質問を重ねる。
「その花はどんな花?」
「あのね!夜になると、光るの!黄色でぴかぴかした花!たんぽぽみたいな花だって、フミエちゃんが言っていたの!」
「ルカ、本当にその花あるの?」
「前に父さんが母さんに渡していたのを見た。林の中だって、盗み聞きした」
悪びれなくルカは言い、ルイは嬉しそうな顔になる。
「それじゃあ、そろそろ行こうよ」
「だな。早く行って花を摘んだら、抜け出したのがばれないうちに帰らないと」
「行くの!」
一人張り切るイオが、誰よりも早く立ち上がった。
ルカとルイが目を合わせ、ゆっくりと立ち上がってイオの両手を握る。イオを真ん中にして、ルカとルイは一緒に歩き出す。
その先に行ってはいけない、と言いたかった。
亜莉香は声を出そうとしたのに、声が出ない。動く事も出来ず、足も動かない。
行かないで、と手を伸ばした瞬間に、景色が変わった。
場所が変わって、木々が燃えていた。
月明かりの下で、誰かが泣いている。声を上げて、泣いていたのはイオだ。気絶しているルカに抱きかかえられて、イオだけが声を上げて泣き叫んでいる。
イオの近くの大きな樹は、無残に倒れていた。
倒れた木の前で、ルイが力なく座りこんでいる。誰かの手を握り、震える声で言う。
「おばさん…ねえ、大丈夫だよね?」
「だいじょう、ぶ…よ。ルカは、無事?」
ルイが手を握っていた女性は、ルカとよく似ていた。瞳の色こそ違うが、面影がよく似ている。頭から血を流して、身体の半分が樹の下敷きになっていた。
うん、と涙声でルイが頷けば、血の気のない女性が微笑んだ。
「よかった…それなら、いいの」
「良くない!おばさん、まだ大丈夫だよね?待っていて、僕が今誰かを呼んで――」
「ルカとイオちゃんも…連れて、行って」
ルイの言葉を遮って、女性は弱々しく言った。
黙って首を横に振ったルイに、女性は困り果てた顔をする。
「私は、だいじょうぶ。あの人が、きっと助けてくれる…から」
「なら、おじさんが帰って来るまでここにいる!」
「我が儘言わないで……ルカをお願い」
お願い、と繰り返した女性が、深く息を吐いた。握っていた手から力が抜けて、ルイが慌てて手を強く握る。ぽたりと、ルイの瞳から涙が零れた。
「嫌だよ…おばさんを置いて行けない。僕には無理だよ」
「男の子、でしょ?ルカを…守って」
「僕よりルカの方が強いもん。僕なんて、いつも守ってもらってばかりで…守れないよぉ」
こみ上げてきた涙が、ルイの瞳から零れた。女性が、ルイの頬に手を伸ばして涙を拭う。
「ルカだって、強くないわ」
それに、と女性は笑みを浮かべる。
「前に…ルカのこと、好きだって。おばさんに教えてくれたじゃない?」
「好きだよ。でも、ルカは僕の気持ちなんて、全然気付いてない」
「我が娘ながら、変なところが父親似なのよね」
うふふ、と笑った女性が急にせき込んだ。苦しそうな顔を隠し、ルイに笑いかける。
「いい、ルイ。貴方になら、ルカを任せられる。だからお願い、ルカを守って。今すぐルカとイオちゃんを連れて、この場を離れる。それが、私の願い」
「おばさんの、願い?」
そうよ、と女性ははっきりと言った。
分かった、と言ったルイは泣くのをやめて、涙を着物の袖で拭った。そっと女性の手を離して、気絶していたルカと泣いていたイオに駆け寄る。ルカの肩にルイが腕を伸ばせば、イオはルイにしがみついて、ルイは空いていたもう片手で、その頭を優しく撫でた。
一度だけ振り返ったルイに、女性は無言で微笑んで頷く。
泣きそうな顔で、ルイは唇を噛みしめていた。ゆっくりと、三人の姿が見えなくなると、女性は息を吐いて、呟く。
「聡い子で、助かったわ。どうせ、私はもう――」
助からない、と声が掠れた。
何もかも諦め、死にかけている女性に駆け寄りたい。助けたい、と思いながらも、誰にも気付かれることない。
まるで、存在していないかのように亜莉香は何も出来なかった。
ただ見ているだけで、話しかけることも、助ける事も出来ない。
悔しくて、悲しい。
一粒の涙が地面に零れ落ちれば、女性が僅かに顔を上げた。
「精霊、様?」
亜莉香の姿が見えていないはずの女性が、亜莉香の方を見た。目が合った、気がするだけで女性の視線は定まらない。
精霊様、と繰り返した女性の瞳に、ほんの少しの生気が戻る。
「お願いします…ルカを、守ってください」
お願いします、と女性が何度も同じ言葉を繰り返す。
次第に声が小さくなって、女性は動かなくなった。
どうしようもなくて、亜莉香は両手で顔を覆って涙を流す。涙が止まらなくて、悲しくて、蹲って泣いていた。
いつの間にか、また景色が変わっていた。
古びた小さな古民家の縁側に、一人の老婆が座っていた。
精霊様、と声がして、泣いていた亜莉香は顔を上げた。とても優しそうで、真っ白な髪の皺くちゃの老婆が、亜莉香を見て笑いかける。
「精霊様、珍しいですね。今日はどうしましたか?」
きっと声は届かない。何も言えないでいると、あの子は、と優しい女性の声がした。それは紅色の光から聞こえた声と同じで、老婆は微笑む。
「旅の支度をしております。精霊様の存在には気付きませんでしたが、立派な子に育ちました。あの日から、始終ルイがあの子の傍にいて守っていますよ。何も心配はいりません」
老婆の言葉に、答える声はなかった。
傍に置いてあった湯呑に手を伸ばして、老婆は静かにお茶を飲む。
静かだった古民家の中に、誰かがやって来た。どたばたと走って、縁側までやって来た人物の姿に、亜莉香は少し驚く。
今と年齢の変わらない、ルイの姿があった。
亜莉香の存在に気付かず、ルイは楽しそうに老婆に話しかける。
「先代様、お邪魔します!ルカはいます?」
「ルイ、今は精霊様が近くにいる。静かになさい」
「そうなの?僕にはよく見えないからなー。今日の精霊は、何か言っていたの?」
ルイの質問に、老婆は何も答えない。
ルイは肩の力を抜いて、無言の老婆の隣に座った。ルイも何も話そうとしなかったが、老婆はお茶を飲み終えると、優しくルイの名前を呼んだ。
「ルカの話をしておくれ。精霊様が、話を待っている」
「ルカの話?」
いいけど、と言って、ルイは青空を見上げながら言う。
「うーんと、相変わらず男みたいな恰好しています。ようやく、母親が探していた緋の護人を自分も探しに行ける、なんて言って張り切っていて、僕は少し心配です」
「そんなに張り切っているのかい?」
「もう見るからに。一緒に旅に出る僕としては、そんなに張り切っても仕方がないと思うし、おばさんとおじさんが何年も探していた人を、そう簡単に見つけられるとは思ってないかな。それに、ルカがまだ僕が一緒に行くことを納得していないみたい」
「ルイの両親の説得は、終わったのかい?」
「まさか」
ルイが肩を竦めた。
「僕の両親が、ルカと一緒に旅に出ることを許すはずがないでしょう?旅に出たら、手紙の一通でも書きます。先代様には…心の中で報告します」
「それは助かる。ルカとルイは、私にとって可愛い孫だからね」
笑みを浮かべている老婆に、ルイは少しだけ悲しそうな顔をする。
「先代様、本当に一緒にこの土地を離れないのですか?」
「ルカは納得しているのに、ルイの方が納得していないみたいだね。イオが力に目覚めないから、私の魔力を渡すんだ。そのために、ルイだって嫌々女の格好をしていたのだろう?」
「女の格好は嫌だったけど、でも…先代様がいなくなる方が嫌だ」
膝を抱えたルイの背中を、老婆はぽんぽんと叩いた。
「昔から、泣き虫小僧は変わらないね」
「泣いてない」
「そうかい?それならルイ、ルカを頼むよ」
ルカ、と言う単語に、ルイは老婆を見た。真剣な眼差しの老婆に力強く頷く。
「分かっているよ。僕の気持ちは、あの日からずっと変わらない。ルカを守る。これから先に何があっても、どんなことが起きても。僕にとって一番大切なのはルカだけだ」
だから、と言ってルイは視線を下げた。
「フミエとの婚約は、僕の気持ちに終止符を打っただけ。ルカへの気持ちの意思表示で破棄したようなものに。ルカは気付かないし、両親も親族も納得してくれない」
「私だけは、ルイの気持ちを知っているさ」
「先代様だけ、だよ」
ため息を零したルイを、老婆はそっと眺めた。
嬉しそうに口角が上がって、老婆はルイの頭を優しく撫でる。そっと手を離せば、目が合ったルイに、静かに言う。
「いつの日か、この土地にルカと一緒に帰って来たら。今度こそ夜光花を見つけて、私とルカの両親の墓に供えてくれるかい?」
「…夜の林は、入っちゃ駄目だってさ」
口を尖らせたルイが言い返した。老婆は気にせず、遠くを見つめる。
「ルイがうんと強くなったら、お供えしておくれ。あの花は林の奥の野原でひっそりと、あまり人には知られずに咲き誇る。夜にしか咲かない、光る花だから夜光花なんて呼ばれているけど、もう一つ別名がある」
「別名?」
初めて聞く話に首を傾げたルイに、老婆は言う。
「普段は雑草のようにしか見えないけれど、誰かに気付いて欲しいと願った花。精霊達がその花の願いを叶えるために、月の綺麗な夜の間だけ光るようにした花」
以前借りて読んだ花図鑑を、亜莉香は思い出した。
小さな花が集まって、一つの花に見える淡く黄色の、たんぽぽに似ている花。
夜光花、と書かれたページには、夜になると光る花として紹介されていたが、もう一つの読み方も載っていた。
老婆の声が、亜莉香の耳によく響く。
「小さな奇跡で、光を見つけた花だから――」
光跡花と言った、老婆の声と呟いた亜莉香の声が重なった。
まるで亜莉香の声が聞こえたかのように、老婆は顔を上げて亜莉香に微笑む。ルイだけが、よく分からずに老婆の言った言葉を繰り返す。
「こうせき、か?」
「光る跡を残した花とも言われているね。夜光花の方が分かりやすくて、こっちの名前は忘れられてしまっているけど」
頭の中に言葉が当てはまらなかったルイが、へえ、と面白そうな顔をした。
段々と、景色が遠のき始める。すぐ傍にいた老婆やルイの姿がぼやけて、声が聞こえなくなって、辺りが黒く染まっていく。
ありがとう、と声が聞こえて、亜莉香は振り返った。




