14-2
ルグトリスに囲まれて、死を覚悟した。
もう駄目だと、思った。
それなのに攻撃は襲ってこない。恐怖も感じなくて、亜莉香はゆっくりと瞳を開けた。
透明で、大きな四角い箱の中に、亜莉香とルカはいた。悔しそうな表情のルカが、右手を開いて前に出していた。
「この力は、あんまり使いたくなかったけどな」
「何…を?」
「結界を張った。これだけの数、俺一人で相手を出来ない。ルイとトシヤの気配が近づいて来るから、それまで持てば十分だろ」
疲れた声で、ルカは言った。
結界を破ろうと、ルグトリス達が手に持っている様々な凶器で攻撃している。結界には傷一つ出来ず、ルカが右手をぎゅっと握ると、透明だった結界は白い曇りガラスに変わった。目を凝らしても、ルグトリスの姿は見えない。激しく攻撃している音も聞こえない。
亜莉香はルカから一歩離れて、その場に座りこんで肩の力を抜いた。
「死ぬかと、思いました」
「そう簡単に死んでたまるか」
どさっとルカも座りこみ、亜莉香を振り返って微かに笑う。
「散々な温泉旅行になったな」
「そうですね。これは予想外です」
亜莉香はぎこちなく笑い、結界をよく見る。
十分な広さの中、四角い箱の中なので、座りこんだ地面も白い曇りガラスに変わっていた。ガラスだから冷たいのかと、右手で触れれば人肌のような温かさがあって、白く淡い光を帯びている。
じっと床に視線を落としていた亜莉香に、ルカは口を開く。
「アリカの瞳には、何が見える?」
「え…っと、何がとは?」
顔を上げれば、ルカが真剣な顔をしていた。
見たままに、答えを求められて、亜莉香はもう一度、結界を確認してみた。率直に答えていいのか迷いつつ、ルカに視線を戻す。
「淡くて、白い光の、四角い箱の中にいるみたいに見えます」
「さっき倒したルグトリスの時は、緑の光だったよな?」
頷いて、亜莉香は落ち着いて考える。
最初に魔法を見た時から、いつだって魔法と光は一緒の存在だった。どんな魔法でも、それぞれ色が僅かに違っていて、きらきら綺麗な光が見えた。
最初からそう見えたから、それが当たり前だと思っていた。
光が集まって、魔法が生まれる。
光の色によって魔法が異なることを、知っていた。
当たり前を、勝手に当たり前だと思い込んでいた。
考えながら、右手の人差し指を口元に当てる。無意識に左手は右肘を支え、下がっていた視線を上げて、亜莉香同様に腕を組んで考え込んでいたルカを見た。
頭の中で今までのことを整理して、さっき、と小さく問う。
「ルカさんは、光を見ただけで風の魔法だと分かった理由を聞きましたよね?」
「ああ」
「私にとって魔法とは光が集まって生まれるものだと、認識していました。風の魔法だと思ったのは直感ですが…緑色の光だったから、その色を見たら咄嗟に声が出て、身の危険を感じたのだと思います」
真実かどうかは、分からない。亜莉香の意見に、ルカは真面目な顔をした。
「いつから、その光が見えていた?」
「初めて魔法を見た日…神社でルカさんとルイさんの戦いを見た時には、赤い光が見えていました。赤いから、焔。青ならきっと水で、風なら緑色。そういうものだと、思っていたのですけど――」
けど、と言って、亜莉香は膝を抱えた。
「光が見えているのは、私だけなのですか?」
「少なくとも、俺やルイは見えない。精霊の光なら、時々見えることもあるけど、俺には滅多に見えない光だ」
「精霊?」
聞き慣れない言葉に、亜莉香は顔だけルカに向けた。
まるで分っていない亜莉香に、ルカは話を続ける。
「精霊、小さな蛍みたいな光。精霊にも色々いて、中には人や生物の姿にもなれる奴もいるけど、圧倒的に多いのは力がないに等しい微力な精霊。精霊には意思があって、ルイの妹のイオみたいに魔力の強い人間には、声が聞こえるらしい」
意思がある声、と聞いて、亜莉香の目が少し見開いた。
「声なら、聞こえましたよ?」
「どんな?」
「急いで、と。優しそうな女性の声で…その声が聞こえたのは、私をルカさんの元まで導いた紅色の光で、幻だと思っていたのですが」
紅色の光と魔法の光の違いを考える。
亜莉香をルカの元まで導いた光と、魔法が生まれる前に見えていた光。どちらも突然現れることは同じで、蛍の光が精霊なら、魔法の光はもっと小さくて、砕けたガラスの欠片みたいに大小様々だった気がする。
でも、何かが決定的に違って見えた。
意思を持つかどうかの違い、そんな気がする。
「私には…魔法の光と精霊の光が見えていたのですね」
「その光が見えるから、ルグトリスに襲われているんじゃないか?」
冗談交じりのルカの言葉に、唸って考えるが答えは出ない。
「それは…何とも言えません。そもそも、どうして私に光が見えるのか、その理由が分かりません」
「それはきっと――」
何かを話そうとしたルカが、不意に結界に目を向けた。
亜莉香が話しかける前に、ルカは立ち上がろうとして言う。
「ルイが来た」
「ルイさんが?」
「トシヤも一緒――」
に、とルカが言い終わる前に、白い曇りガラスの一部が砕けた。
正面から砕けて、徐々に砕けていくガラスの欠片が白く淡い光となって消えていく。光が消えれば、景色は月明かりの下の、ひらけた林の中。
沢山いたはずの、ルグトリスの姿はない。
ルカの目の前に、息を切らしたルイがいた。
安堵して、今まで心配で堪らなかったルイの瞳には、少し驚いているルカの姿しか映っていない。右手に持っていた小刀を地面に落とし、ルイはルカを見下ろした。
「無事?」
「当たり前だろ」
うん、と言いながら、ルイは膝をついて、平然としているルカに手を伸ばした。頭に右手を、背中に左手を伸ばして、抵抗することを忘れたルカを力強く抱きしめる。
抱きしめられて、呆気に取られたルカが我に返り叫ぶ。
「ちょっ、ルイ――!」
「よかった。無事で、本当によかった」
「…ルイ?」
ルカの耳元で、ルイは囁いた。
ルカの肩に顔を埋めているから、ルイの顔は誰にも見えない。けれど、その身体が僅かに震えているのは、亜莉香にも見て分かった。
ルカが不安そうな声で、ルイの名前を呼ぶ。
「なんで泣くんだよ。泣く理由はないだろ?」
「泣いてないよ。でもね、今日みたいに月が綺麗な夜に、ルカがいなくなったら。嫌でも昔のことを思い出すよ、あの日のことを。だからお願い、一人でいなくならないで」
お願い、とルイは繰り返して、ルイはますます抱きしめる力を強めた。
ルカは申し訳なさそうな顔になって、右手でルイの背中を擦る。
「ごめん…」
小さく頷いたルイが、ルカを手放す気配はない。
亜莉香はそっと立ち上がって、ルカとルイから離れた。
少し離れた場所で、トシヤが腕を組んで木におっかかっていた。ルイと一緒に、ルカを探しにやって来てくれたトシヤと目が合い、亜莉香は駆け寄る。
近くに行くと、トシヤの顔が僅かに赤くなって見えた。
あからさまに目を逸らされて、亜莉香は訳が分からず首を傾げる。
「トシヤさん?」
「あのさ…目のやり場に困る」
「えっと…?」
ふと、亜莉香は自分自身を見下ろす。
走るのに邪魔で、浴衣を着崩していた。ルカに追いついて、ルグトリスに襲われて、そのまま結界の中で過ごしていたら、乱れた浴衣を直す時間などなかった。
トシヤの言葉の意味を理解して、亜莉香の顔は一気に赤くなる。
「み…見苦しい姿で、すみません」
「いや…」
「ちょっと、失礼します!」
慌てた亜莉香はトシヤから見えないように、木の後ろに回った。
あまりにも乱れていて、一度帯を外す。黙って浴衣を整えている真後ろに、トシヤがいることが気になって話し出す。
「あの…沢山いたルグトリス、トシヤさんとルイさんの二人で倒したのですか?」
一応、と言ったトシヤの声が、若干動揺していた。
けれどもすぐに落ち着きを取り戻す。
「俺よりルイの方が多く倒した。ユシアが俺達の部屋に駆け込んできて、話を聞くなり血相を変えたルイが部屋を飛び出して、俺も一緒に追いかけた」
「ユシアさんは、宿に?」
「だろうな。俺とルイに追いつけないだろうから、宿でトウゴと待っているはずだ。ユシアが俺らの部屋に乗り込んだ瞬間は、見物だった」
思い出し笑いをしながら、トシヤは言った。ユシアの取った行動が、とても気になる。亜莉香は浴衣を着直すと、変なところはないか確認して、トシヤの隣に戻った。
まだ顔が少し熱い亜莉香が微笑めば、目が合ったトシヤも笑みを零す。
「アリカがルカと一緒にいて安心した。一緒にいなかったら、また探さないといけなかったからな」
「ご心配をお掛けしました。私達の居場所は、すぐに分かりましたか?」
「ルイがな。一定の距離の範囲内なら、ルイは魔力で居場所が分かるらしい。ルカならどこにいても見つけ出せる、なんて言って。その通りに一直線で進んでみれば、ルグトリスの大群だ。流石に、あれだけ多いのは勘弁して欲しいよな」
トシヤはルカとルイを見た。
どんなタイミングで声をかければいいのか、分からない。もう暫くはそっとして置きたくて、亜莉香は優しい眼差しのトシヤを盗み見てから、夜空を見上げた。
月が綺麗な夜だ。
夜空を眺めていると、ふわふわと浮かぶ、見覚えのある紅色の蛍のような光が目の片隅に映った。精霊だ、とじっと見つめていると、光は亜莉香の肩に舞い降りた。
こっちに来て、と聞こえた。
微かな声が聞こえたのは亜莉香だけで、他の誰にも聞こえていない。
紅色の光が、ふわりと舞い上がり、林の奥に向かって動き出す。目を離せば見失いそうで、亜莉香は紅色の光から目を離さず、トシヤの着物を引っ張った。
「トシヤさん、精霊が呼んでいます」
「精霊が呼んでいる?」
「こっちに来て、と」
木々の奥に進み始めた精霊が見えたり、見えなくなったりした。
早く、と聞こえて、亜莉香は一歩を踏み出した。トシヤが引き止める声が聞こえたが、追いかけなくてはいけない気がする。
気が付くと後ろを振り返ることもなく、亜莉香は林の中を駆け出していた。
ルカを探して紅色の光を追った時と同じように、亜莉香を導く光を追いかける。速度が途中から上がった気がしたが、不思議と足が軽い。どこを走っているのか。どこに向かっているのか。走りながら景色がいつもより早く過ぎていく。それらを気にする暇もなく走り続けた。
林を抜けて、広々とした野原があった。
野原の入口で、紅色の光は亜莉香を待っている。
目的地に辿り着き、足は止まった。月明かりが照らす野原には、何もない。雑草があるだけで、他に珍しいものはなく、ただ紅色の光が亜莉香の目の前にあるだけだ。
ふわふわ浮いていた紅色の光。
その光が亜莉香に近づくと、左目に溶け込んで視界が真っ暗に染まった。




