97-2 Side薔薇
誰もいない広間の扉を、ローズは開けた。
扉から真っ直ぐに伸びる真っ赤な絨毯を、そっと歩いて進む。本来なら人々がいるはずの広間は冷え冷えしていて、心なしか温度が低い。差し込む光は曇り空のせいで少なくて、部屋全体が暗く見える。
辿り着いた先には、重厚で立派な椅子。
ローズの記憶より寂れた椅子である。座るべき相手のいなくなった椅子は、たった数年で色褪せ脆い存在に変わったようにも思えてしまう。
少しの間見下ろし、座るではなく、王座の真横で膝をついた。
座り込んで、誰かが座っていたのなら、その肘に頭を乗せるような体勢になる。
そして王座のある場所から、広間を見下ろした。
「もう少し…もう少しだよね」
誰にでもなく呟いた。
ローズの記憶を垣間見た彼女の驚いていた顔が、瞼の裏に残っている。
彼と同じ顔をした彼女には、どこまで知られたのだろう。ローズの感覚では断片的な記憶を思い出す程度だったが、何かを知られたことだけは確実だ。
それでも、いい。
彼女は彼とそっくりだから、記憶を見られても些細なこと。
彼女が申し訳ない顔をしたなら、きっと、仕方がないと言いつつも許しただろう。困ったことがあれば大丈夫だと励まして、嬉しそうだとローズも嬉しいし、悲しめばローズだって悲しくなる。
それは久しぶりの感情の起伏。
彼といた時は当たり前だった。城の中にいるせいだ。感情が、彼といた当時に引き戻される。彼女が彼に見えて、懐かしさや愛おしさが心を占める。
同時に、城に蔓延る闇に対する悲しみや怒りも覚えた。
抑え込んでいた心が乱れる。奏と契約を交わしていた頃は忘れていた。千年前にも覚えた感情が蘇る。全てを破壊し、なかったことにしてしまいたい。その気持ちに飲み込まれたら、最後まで意識を保てない。あと少しの時間すら呆気なく奪われる。
消えないで、と強く願った。
彼の記憶。
一緒に過ごした彼との時間。
待ち人は来ない。遠くない未来で待ち人のことすら忘れてしまう。たった一つ残った彼の願いだけが、ローズの身体を動かす原動力となり果てる。
その時、彼女は現れるのだろう。
心強い仲間を連れた彼女は、この国の誰より強い。誰にも負けない。それを望んでいたはずなのに、その未来は少し怖い。
どうして、と問いかけた答えは出なかった。
零れそうだった涙を拭ったローズの瞳の隅に、黒い光の粒が見える。
願えば、その光は三つに増えて宙に広がった。水溜まりのように広がったと言っても、大きさは調整できる。せいぜいケーキがワンホール乗るくらいの平らな皿を意識して、手がギリギリ届かない距離で浮かす。
その黒い光は瞬いて、三つの景色を映した。
右端の光には、空から塔に潜入した少年少女の姿。城とも繋がっている塔の最上階に行くには、塔の中にある階段を上るのが常識だ。上から侵入するなど非常識で、こんな状況でなければ不可能な話。
精霊でもある鴉から飛び降り、最上階の部屋に窓から侵入者達。
精霊三人と、青年一人。ついでに言えば不思議なぬいぐるみを連れて、部屋の中に入らずとも、全員の足は止まった。
窓が壊されれば、その部屋に溢れる腐敗した匂いに気付くはずだ。
その部屋に、ローズは一度だけ近づいたことがある。その時は梟の姿で、彼らのように窓辺に降り立つことはしなかった。窓の外から覗いただけでは部屋の奥までは見えない。それでも嫌な匂いはして、ローズは見て見ぬふりをした場所。
「噂には聞いていたが、最悪だな」
「うう、これはきついよ。サイ、もうここから全て破壊したい」
ぬいぐるみに鼻を塞がれたフルーヴはウイに抱えられ、何度も頷いていた。
その横にサイがいて、口元を押さえたトウゴもいる。
「というか、今更だけど。俺、何で連れて来られたわけ?」
「この先にあるものを、君に見つけて欲しくてね。この先には見たくないものもあるだろうから、目隠しして僕が手を引いても構わない」
「それで見つけられるわけ?」
「トウゴくんだからこそ、見つけられると思うよ?その魔力は私達の探しものと引かれ合うの。意識してくれれば、私達より確実に。絶対に」
はっきりと言ったのはウイだったが、それに、と声を低くして続けた。
「ここに、アーちゃんを連れて来るのは酷過ぎる」
「え?」
「噂ではこの部屋、ある男がある女を甦らそうとした部屋らしいぞ」
サイが何てことなく言ったが、トウゴの顔は引きつった。何か思い当たる節があるような、そんな事実を認めたくはない表情をした。
部屋の奥に目を向けたサイに、トウゴは何も言わなかった。
「ずっと昔から、魔力の強い人間が連れて来られた。主に彼女に似ている誰かが、近年は男女問わずに集められていた。ああ、最近は誰かが抜け出したらしいな。その彼女が生まれた部屋が、この奥にある」
あからさまに瞳を伏せたのはウイで、フルーヴは首を傾げていた。
無表情のサイと顔色の悪いトウゴを見比べるが、口は出さない。余計なことは言ってはいけないと本能で悟り、自分で自分の口を塞いでいた。
「微かに、奥からナノちゃんの気配もする」
「なん、で?」
「さあね。王都に入った時から、僕もずっと気になっている。城に入ってから余計に、ね。アーちゃんのことは心配だけど、僕とウイはこちらが優先だ。彼女の一部がここにあるかもしれないなら取り戻したい。解放したい」
擦れたトウゴの声に、サイは素直に答えた。そこに恨みも怒りもなかった。
「悲劇なんて――もう要らないだろ?」
ただ事実を述べたサイの問いに、そうだね、とウイは小さく同意した。
口を結んだトウゴも、首を縦に振る。目隠しを再度提案され、今度は首を縦に振らなかった。フルーヴとぬいぐるみに待つように言い残し、三人が部屋の中に入っていった。
その先までは追わない。
視線を変えて、今度は左端の黒い光を見た。
そこで見たのは、荒れ狂うネモフィルである。
「へえ、そう。この私の魔法すら意味がないのね」
怒りだけで髪は靡き、足元には水たまりが出来上がっていた。
仁王立ちのネモフィルが対峙するのは闇。廊下と部屋との境目に広がる黒い空間、その隣の壁に幾つもの魔法を放った跡がある。それを遠目に眺めるのがルカとルイ、それから物陰に隠れて怯えるコライユ家の当主のマサキ。
「化け物だ」
「アリカ達は、どうなったんだろうな」
「さあねー。トシヤくんもピヴワヌ様も一緒だし、僕達が心配することはないよ。それこそ何かあったら、ネモ様があれじゃあ済まない」
あれ、と示すのは深く長く息を吐いたネモフィルだ。
数秒間無言。目を瞑って、何かを探って、息を止めた後に勢いよく振り返る。
「そこの三人!」
「はい、はーい」
「なんだ?」
即答したルカとルイとは違い、マサキは震えて首を動かしただけだった。それはネモフィルに答えたわけじゃなく、恐怖で無意識に身体が動いたとも言える。約一名のあまりの怯えぶりに、舌打ちしたネモフィルは声を和らげるよう意識した。
「ここに居ても仕方がないから、場所を移動するわよ」
「そうなの?」
「入口は閉じられた。ここから入るのは難しいわ。透との繋がりに変化はないし、中にいても平気なのでしょ。出口を探して合流するのが得策ね。出口を探すついでに、第二王子の顔を見に行きましょう」
有無を言わせず歩き出す後ろ姿に、ルカとルイは従う。
足踏みをしたのはマサキで、待て、と意を決し叫んだ声が廊下に響いた。
「今度はチトセ様の所に行くつもりか?彼はこの国の第一王子だぞ!」
「だから?」
胸を支えるようにして腕を組むネモフィルには、逆らってはいけない雰囲気がある。
「王子だから、何?今更、危ないことに巻き込みたくないと思っているの?」
「当たり前だ!訳の分からないことに王家を巻き込んで――王子や女王がいなければ、この国は成り立たない!お前達はこの国を滅ぼすつもりか!!」
ネモフィル相手に言い切ったマサキに、ルイは感心した表情を見せた。ルカは何とも言えない顔をして、ネモフィルの様子を伺う。
へえ、と相槌を打った声はとても低かった。
「そんなこと、私には些細なことだわ」
軽蔑を含む眼差しを向け、氷よりも冷たく言い放った。
マサキが意味を理解出来ずに言葉を詰まらせる。
「それは私だけが思っていることではないわよね。だから貴方は気付けなかった。この城にいる女王が、今にも死にそうになっていることに、誰も傍に居なくて、まるで自らの死を待つかのように眠り続けていることに」
歩き出したネモフィルが、身を引こうとしたマサキの顔を覗き込み、言う。
「私にとって大事なのは国じゃない」
「そう、だとしても!」
「貴方だってそうじゃない。王子や女王は大事だと言いながら、その国を支える王家に今まで手を差し伸べなかった。踏み込まなかった。多くの人間が同じよ。口で好き勝手言って、責任の押し付け合いばかり」
誰かが話しかけられる雰囲気も、話しかける言葉もなかった。
ネモフィルの言葉を真正面から受けるしかないマサキは、とても苦い顔をした。図星を言い当てられ、下ろしている両手の拳を強く握った。
「本当に大事なら、自ら動いて行動で示しなさい。私は弱りかけた人間を巻き込めば悲しむ子がいて、私の主も困らせることになるから、女王には何もしないわ」
これは一方的な会話だ。相手の意見などお構いなし。
「この国は、この世界は誰もが守られる優しい世界じゃないのよ」
怒りも秘めたネモフィルの言葉が、ローズの胸にも突き刺さった。
その通りだ。この世界は優しさだけじゃない。
マサキを突き放したネモフィルは踵を返した。今度こそチトセの元に向かう背中に、ルカとルイは急いで付いて行く。
マサキが床に視線を向け、立ち止まっていた時間は短かった。
顔を上げた時には瞳に強い意思が宿り、駆け出した姿は瞬く間に消えた。
そして最後に、ローズは中心に浮かぶ黒い光を眺める。
最初の二つの景色より、物騒な光景を見た。
次から次へと現れる黒い影、改めルグトリスを撃破する少年。白い髪を靡かせながら、その鋭い瞳は即座に倒すべき相手を察知して蹴りを繰り出す。
「数が多いわ!!!」
「…と言いながら、ピヴワヌが全部倒すのですよね」
「アリカ。この社が本当に闇の世界に繋がる門なのか?」
「私も聞いた話なのですけど、そう言われています」
物騒な空間で、何とも呑気な説明が始まった。社を観察する少年の隣に少女は立ち、社の説明から始まって、ピヴワヌに戦いを任せた少年少女が笑う。
何で途中から、お茶会の話になるのだろう。
その場にいないローズの気も抜け、自然と口角が上がった。
ピヴワヌは日頃の欝憤を晴らしながら戦い、中にはネモフィルの愚痴も含まれた。ウイやサイ、その他ローズの知らない名前まで叫びながら戦う様は異常である。そこまで言わなくてもいいだろうと思うくらい叫んでも、それすら気に留めない二人がいる。
「――本当に凄いのですよ。灯さんの場合、両手を叩いただけでお茶会の準備が整うのです。精霊達の力とも言えますが、とても美味しいお菓子とお茶が運ばれて」
「へえ、美味しい菓子と言えば。東市場の和菓子屋にも新作が増えていたな。ワタルさんのパン屋だって新作を開発中で、甘い菓子パンの試食をアリカにして欲しがっていた」
「それは是非食べたかったです」
「帰ってからでも間に合うから」
「儂の分も勿論あるのだろうな!!」
敵を遠くに蹴り飛ばし、ピヴワヌが叫んだ。二人が振り返れば、食い意地の張ったピヴワヌは奥歯を噛みしめ、トシヤを睨む。
「あんぱん、メロンパン、フレンチトースト。アップルパイに、チョコレートタルト!儂の分が食べられていたら、小僧の分を全て奪ってやる!!」
「途中からパンではないですよ?」
「俺の分は既にないし」
「食ったのか!?ずるい!吐き出せ!!」
騒ぎ出したピヴワヌの怒りは、全て蹴りという攻撃に込められる。
なんて無茶な、とトシヤが言った。隣は笑い、トシヤの優しい眼差しに頬を赤らめる。誰も入れない二人の空気にますますピヴワヌは怒りを増やし、今まで以上の動きを見せた。
おかげで、数分後には敵が全滅。
肩で息をするピヴワヌは、叫んだことに疲れていた。
「そろそろ透が来るかもしれませんね。そうしたら次を考えなくては」
「もう敵は来ないか?」
「おそらく?」
呑気な二人が話している途中で、草木をかき分ける音は近づく。
森の木々の間を駆け抜け、勢いよく飛び出した影があった。急停止した少年の片手には日本刀があり、少年少女を確認するなり声を上げる。
「やっぱりここに居た!」
やって来たのは透だ。見間違うはずがない。
この先で何が起こるのか。ローズは知っている。
だから最期まで見届ける。それぞれが道を進み、いつか交わる時まで。見守るしか出来ないのは歯がゆいが、もう動き気力はなかった。




