96-2
王都の闇が深まった。
どうやらもう、あまり時間はないらしい。
城の中は随分前から寂しいものだ。働き始めた数年前から人は減っていくばかり。今にも雨が降り出しそうな空模様。長い廊下の途中で、少女は足を止めた。使用人の一人として洗濯物を抱え、雲間から射した太陽の光に目を細める。
終わりが近い。
長年の願いが叶う日が、もうすぐ来る。
灯と少女の願いは同じだ。同じ願いだからこそ、主でなくても手を貸し、協力すると約束を交わした。少女が出逢った赤ん坊は、いつの日か必ず城へやって来る。
全ての始まりは王都にある城であり、その敷地にある玉座。
そこに在るべき、千年も昔に作られた金の王冠。
王冠も何か願ったのだろうか。だから唯一無二の赤ん坊が生まれたのか。
少なくとも千年前、王冠に意思などなかった。今亡き精霊達の力と願いを込めた宝石をまとめる、ただの器だった。
そう思いたかったのは、少女一人かもしれない。
灯は王冠の力に気付いた上で、願いを口にしたのかもしれない。
もう会えない友を想う。灯だけじゃない。王冠を作り出した数多の精霊達、千年に近い時で出会った人々。目には見えない風も、声なき草木も花々も、生まれては別れを繰り返した友の存在に、少しだけ胸が痛む。
千年は長かった。
長くて、辛くて、悲しくて。それでも希望の光を見失えなかった。
「早く迎えに来て…――」
待ち人の名前を、口にした。
愛しい待ち人の顔を、もう知っている者はいない。人も精霊も、千年という月日が忘却させた。少女の記憶からも、忘れたくないのに零れ落ちて消えていく。
それでも、いい。
それでも彼の願いは、まだ覚えている。
陽だまりのような彼との、初代王と呼ばれた人との思い出を呼び起こす。温かな光の下で笑いかけてくれた記憶を、名前を呼んでくれた記憶を。
声を思い出そうとする前に、少し離れた場所から人の気配を感じた。微かに聞こえる規則正しい足音に、やって来る人物を知る。
洗濯物を抱えたまま廊下の脇に寄り、少女は頭を下げた。
決して顔を見ないようにして通り過ぎるのは、城の頂点に立つ女性。
煌びやかな着物が瞳の片隅に映り、女性の足が少女の目の前で止まった。近くにいる女性に無礼を働くわけにはいない。声をかけられるまで動かずいれば、微かに息を吐いた音が聞こえた。
「顔を上げて」
野薔薇、と呼ばれた少女は背筋を伸ばす。
とても疲れた表情をした女性の瞳に、少女の、ローズの笑みが映る。微かに口角を上げてみたが、心から笑っているわけじゃない。同情、憐み、幾つもの感情を乗せた笑みに対し、女性は悲しそうに微笑み返す。
視線を女性の後ろに向ければ、一緒にいた護衛の者達は人じゃない。
人の形をした黒い影。女性に従う闇の使者。
それを気に留めることはなく、ローズは言う。
「お疲れのようですね。女王陛下」
「そうね…随分と、人がいなくなったから」
「無理して追い出すことはなかったのですよ?」
「そうかもしれない。けど、人がいればいる程に沢山の想いが集まるから。善も悪も、光も闇も。最低限の人間がいて、国が成り立ては十分なの。各地には有能な者がいて、立派に治めてくれている。私はもう、ここを維持するだけで精一杯」
年齢以上に老けて見える女性が、そっと見つめたのは渡り廊下に面した庭園だった。本来なら咲き誇る花々は、すっかり元気を失くしている。緑は色褪せ、大地は乾き、城の内部に人の気配はごく僅か。
ずっと見向きもしなかったから、知らなかった。
光にばかり目を向けて、闇に背を向けていた。
ローズが城に足を踏み入れた時には、もう手遅れだったのだ。この地では沢山の血が流れ、命が消え、取り返しのつかないものになっていた。王家の財産は金を貪る貴族に奪われ、どれだけ城の中が荒らされようと手を貸す者はいない。そんな人達は最初に城を追い出されてしまった。城の門を固く閉じてしまえば誰にも気付かれることなく、衰退していく一途を辿る。
護人が光の力に振り回された犠牲者なら、王家は闇の力に利用された犠牲者だ。
千年も続く因縁が、王家を内部から壊した。灯を手に入れようとする想いは消えず、闇を宿した男は破滅の道を進んでは、何度も過ちを繰り返す。その過程で失ったものは数知れず、城の中を満たす陰謀も果てしない。
王都にいた精霊達は姿を消した。
光にも闇にも属さない存在になり果てたローズも、いずれは消えるのだろう。
今はまだ護人である奏と契約していた影響が残っている。闇が綻ぶ城に入って自由に行動することも出来るが、契約破棄を行ってしまったら、少しずつ闇に染まる。無邪気無垢に笑う能天気ではいられない。
願いを叶える為に、ローズは未来を生きると決めた。
「貴女も、いつまでもここに居座る必要はないわよ」
「ええ」
庭園を眺め続ける女性の言葉に、素直に答える。
「ここに来たのは、私の我が儘ですから。気が向いたら城から出て行きます」
城の現状を知れて良かった。王冠の在るべき場所に来られて良かった。
送り出した人達が戻って来るまで、力は温存しておきたい。日に日に重くなる身体を休め、願いが叶う日には当事者でいたい。
その時は、と小さく女性は呟いた。
「別れの挨拶は要らない。貴方は最初から、私が捕まえられない存在なのだから」
ローズを見ない女性は、出会った日のことを思い出している。
城ではない場所で、お互いの名前も顔も知らなかった時に出会った記憶。幼かった少女は立派な女性へと成長したのに、ローズの身は何も変わっていない。
人と精霊の違いを思い知る。
いつだって置いていかれたのは、ローズの方だ。
ただ願わくは、と声がして、下がっていた視線を上げた。
「また…困っていたら、手を貸してね」
お腹に手を当てた女性の眼差しは、母親そのもの。
「今度は私じゃなくて、この子に。私の代で、この呪いのような運命が断ち切れたらと願うけど、そう簡単にはいかないことでしょう?また多くの血が流れ、我が子が苦しむのも運命なら――」
真っ直ぐに、昔から変わらない檸檬色の瞳がローズを見た。
どれだけ年をとっても、その瞳の色だけは変わらないのだろう。
「この子を、正しい道へ導いてあげて」
「…はい」
約束をしたくはなかったのに、小さくも返事をしてしまった。
頼んだわ、と言い残した女性が微笑み、護衛を連れて廊下の奥に消えてしまう。
その足音が完全に聞こえなくなるまで、消えた方角をローズは眺めた。その姿を目に焼き付ける。忘れないと誓うかのように、もう二度と会えない予感を胸に抱き、女性とは反対側の廊下を進んだ。
夢の中には、真っ白な扉があった。
二回続けて、ローズは扉を叩く。中から返事がなかったので、もう二回。それでも返事がないのだから、中にいる人物は寝ているのかもしれない。
それとも、と別の予想をする前に、部屋の中から咳き込む声がした。
迷ったのは一瞬で、扉を開けた。
広々とした寝室だ。窓の外は明るく、温かな太陽の日差しがベッドの脇まで伸びていた。白を基準として青や緑系統の家具が揃う寝室は、小さな子供の為の部屋。
そこに横になっていたのは、小さな男の子。
この部屋が、小さな男の子の居場所。
あまりにも苦しそうに咳き込んでいたので、ベッドの傍に行って背中をさすった。ローズの顔を見るなり少し驚いたが、されるがまま大人しい。
落ち着くまで待ってから、ベッドの脇に立って男の子を見下ろした。ローズの知っている女性と同じ瞳の色。髪の色は違うけど、同じ顔をして男の子は笑う。
「ありがとう」
そっくりな親子。出会い頭に、同じことを言う。
思わず笑ったのは、あまりにも似ている場面を思い出したから。ローズの笑みに男の子も嬉しそうで、窓辺に腰かけ、ベッドに座っている男の子を眺めた。
夢の中なのに、男の子に纏わりつこうとする闇がある。男の子は気付いていない。本人の魔力で近付けはしないが離れもしない闇を観察すれば、男の子は口を開いた。
「えっと…新しい使用人?」
「口の利き方には気を付けた方がいいよ。それと私は使用人じゃない」
ローズの答えに、男の子は悲しそうな顔をする。
「そう。残念…です」
「何故?」
「僕の話し相手になってくれるかなと思ったから。僕の部屋にはあまり人は来なくて、本ばかり読んでいて。あと――」
僅かに頬を赤くした男の子は、恥ずかしそうに言う。
「その髪と瞳が、綺麗だな、て」
黒い髪に黒い瞳を持つローズは、ふーん、と相槌を打って髪をいじった。
「この色は珍しいとは言われるけど、気に入られるとは思わなかった」
「とても綺麗だと思います。それに黒い髪は初代王の証だと本に書いてありました。魔法が使える人って凄いですよね。護人って知っていますか?初代王が作った金の王冠を奪った人とも言われているのですが、とても強い魔力を持った人だったと。一度奪われたとしても、今の城には王冠が在って。もしかしたら、それが護人も身に付けた物かもしれないと思うと、僕もいつか王冠を被りたくて!」
最初にはにかみ、徐々に熱心に語り出した男の子は、よっぽど護人に憧れているらしい。
彼と同じだと言われて、嫌な気分はしなかった。
王子であるにも関わらず、部屋から出られず人にも会えない。十分な教育を受けているかさえ怪しくて、よっぽど酷い教育を受けていても不思議じゃない状況。
そもそも教育を教える立場の者が、まだ城に残っているのか。
ローズが教えなければ、目の前の男の子は何も知らないかもしれない。城の中も、外の世界も、自らの辿る運命も。
それよりまず、今が夢だと分かっているのか。
とても素直な姿に調子が狂いそうで、話を聞き入ってしまった。
「――あの、聞いていますか?」
「聞いているよ。貴方が護人をどれだけ好きか。十分に伝わった」
「いや、そんな好きだなんて」
「それより、貴方の名前は?」
しどろもどろで照れた男の子に対し、急ではあるが話を変えた。
「…チトセ」
「ちゃんとした名前」
「…チトセ・エスポワール・ルリエール」
強く聞き返せば、小さいけれど名前を言った。
自分のことを、きちんと理解しているようで安心した。その名前の意味を分かっている表情は困った顔で、どうして今更聞くのかと言いたげでもある。
「お姉さんは?」
「私はローズ」
「ローズ…さんは、どうして僕に会いに来たの?わざわざ、こんな所まで」
首を傾げたチトセは聡い子だ。
この場所が、夢の中だと知っていた。それが心から嬉しい。
「チーちゃんに手を貸しに、かな」
チトセと呼ばなかったのは、自分との間に線を引くため。
「色々とやりたいことがあるけど、夢の中の方が、自由があってね。ここに来たのも、その一つ。使用人じゃないけど、話し相手にはなってあげる。折角だから魔法の使い方も教えてあげる。どう?」
ローズの提案に、チトセの瞳が輝いた。
でもすぐに、その瞳に影が落ちる。
「でも、夢の中で魔法が使えても意味がないよ。現実の僕は身体が弱くて、長く生きられないってみんなが言っていた」
「その皆が私の知らない誰かだとして、大切なのはあなたの意思でしょ」
「でも…」
「でもでも言わない。魔法を使いたいの?使いたくないの?」
強気で訊ねれば、チトセは言葉に詰まった。
それから消えそうなくらいの声で言う。
「使いたい…です」
「そう、なら教える」
これは気まぐれ。願いが叶うまでの暇つぶし。
ベッドの脇に行って、チトセの額に唇を寄せ、そっと口付ける。
身を離せば、何をされたのか理解したチトセの顔が赤かった。両手を額で押さえる仕草は可愛くて、何も言えずに口を開いては閉じる。
ふう、と息を吐いたローズは、雑にベッドに腰かけた。
「私の魔力を与えたから、ちゃんと魔法を使いこなせるようになりなさい」
「え?ローズさんの魔力を?」
「そう。使いこなせるようにならないと、魔力を与えた意味がないからね。これから一生懸命練習して、上達して」
身体の向きをそのままに、首だけチトセを見て言った。
「王になりなさい、千歳」
名前を呼ばれたチトセの背筋が伸びる。真剣な想いは伝わった。
それはチトセの願いでもあると、魔力を与えた繋がりが教えてくれた。両親を支え、いつか女王陛下と呼ばれる母親を越えられるように。人々が笑い合う平和な国の王になりたいと、まだまだ未熟な男の子は願う。
その光を正しく導くことが出来たら、交わした約束は果たされる。
約束よ、とローズは右手の小指を差し出した。
ふと、遠い昔の忘れられない最初の記憶が蘇る。
周りには沢山の仲間がいた。大切な友がいた。人とは違う時間の流れを過ごし、遊んで、学んで、花々の間を駆け、水面の上で夜空を見上げた。月の光の下で眠り、太陽の光で目を覚ましては唄を奏でた。
そして、ある日の昼下がり。
運命の出会いがあった。
誰もが惹かれる光を宿した彼と出会った。
彼が生きている国が好きだった。彼と過ごした時間が輝いていた。素直になれなくても、悪戯ばかりしていても、彼は決して怒らなかった。少し困った顔をするだけで、その顔すら好きだった。
だから皆と一緒に力と願いを託した。
例え離れ離れになっても、心は共にあると誓った。
愛しい彼と交わしたのは一つの約束。
初代王との約束が、未だにローズの心を縛る。




