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Last Crown  作者: 香山 結月
最終章 街明かりと椿
481/507

96-2

 王都の闇が深まった。

 どうやらもう、あまり時間はないらしい。


 城の中は随分前から寂しいものだ。働き始めた数年前から人は減っていくばかり。今にも雨が降り出しそうな空模様。長い廊下の途中で、少女は足を止めた。使用人の一人として洗濯物を抱え、雲間から射した太陽の光に目を細める。


 終わりが近い。

 長年の願いが叶う日が、もうすぐ来る。


 灯と少女の願いは同じだ。同じ願いだからこそ、主でなくても手を貸し、協力すると約束を交わした。少女が出逢った赤ん坊は、いつの日か必ず城へやって来る。


 全ての始まりは王都にある城であり、その敷地にある玉座。

 そこに在るべき、千年も昔に作られた金の王冠。


 王冠も何か願ったのだろうか。だから唯一無二の赤ん坊が生まれたのか。

 少なくとも千年前、王冠に意思などなかった。今亡き精霊達の力と願いを込めた宝石をまとめる、ただの器だった。


 そう思いたかったのは、少女一人かもしれない。

 灯は王冠の力に気付いた上で、願いを口にしたのかもしれない。


 もう会えない友を想う。灯だけじゃない。王冠を作り出した数多の精霊達、千年に近い時で出会った人々。目には見えない風も、声なき草木も花々も、生まれては別れを繰り返した友の存在に、少しだけ胸が痛む。


 千年は長かった。

 長くて、辛くて、悲しくて。それでも希望の光を見失えなかった。


「早く迎えに来て…――」


 待ち人の名前を、口にした。

 愛しい待ち人の顔を、もう知っている者はいない。人も精霊も、千年という月日が忘却させた。少女の記憶からも、忘れたくないのに零れ落ちて消えていく。


 それでも、いい。

 それでも彼の願いは、まだ覚えている。

 陽だまりのような彼との、初代王と呼ばれた人との思い出を呼び起こす。温かな光の下で笑いかけてくれた記憶を、名前を呼んでくれた記憶を。


 声を思い出そうとする前に、少し離れた場所から人の気配を感じた。微かに聞こえる規則正しい足音に、やって来る人物を知る。


 洗濯物を抱えたまま廊下の脇に寄り、少女は頭を下げた。

 決して顔を見ないようにして通り過ぎるのは、城の頂点に立つ女性。

 煌びやかな着物が瞳の片隅に映り、女性の足が少女の目の前で止まった。近くにいる女性に無礼を働くわけにはいない。声をかけられるまで動かずいれば、微かに息を吐いた音が聞こえた。


「顔を上げて」


 野薔薇、と呼ばれた少女は背筋を伸ばす。

 とても疲れた表情をした女性の瞳に、少女の、ローズの笑みが映る。微かに口角を上げてみたが、心から笑っているわけじゃない。同情、憐み、幾つもの感情を乗せた笑みに対し、女性は悲しそうに微笑み返す。

 視線を女性の後ろに向ければ、一緒にいた護衛の者達は人じゃない。

 人の形をした黒い影。女性に従う闇の使者。

 それを気に留めることはなく、ローズは言う。


「お疲れのようですね。女王陛下」

「そうね…随分と、人がいなくなったから」

「無理して追い出すことはなかったのですよ?」

「そうかもしれない。けど、人がいればいる程に沢山の想いが集まるから。善も悪も、光も闇も。最低限の人間がいて、国が成り立ては十分なの。各地には有能な者がいて、立派に治めてくれている。私はもう、ここを維持するだけで精一杯」


 年齢以上に老けて見える女性が、そっと見つめたのは渡り廊下に面した庭園だった。本来なら咲き誇る花々は、すっかり元気を失くしている。緑は色褪せ、大地は乾き、城の内部に人の気配はごく僅か。

 ずっと見向きもしなかったから、知らなかった。

 光にばかり目を向けて、闇に背を向けていた。


 ローズが城に足を踏み入れた時には、もう手遅れだったのだ。この地では沢山の血が流れ、命が消え、取り返しのつかないものになっていた。王家の財産は金を貪る貴族に奪われ、どれだけ城の中が荒らされようと手を貸す者はいない。そんな人達は最初に城を追い出されてしまった。城の門を固く閉じてしまえば誰にも気付かれることなく、衰退していく一途を辿る。


 護人が光の力に振り回された犠牲者なら、王家は闇の力に利用された犠牲者だ。

 千年も続く因縁が、王家を内部から壊した。灯を手に入れようとする想いは消えず、闇を宿した男は破滅の道を進んでは、何度も過ちを繰り返す。その過程で失ったものは数知れず、城の中を満たす陰謀も果てしない。


 王都にいた精霊達は姿を消した。

 光にも闇にも属さない存在になり果てたローズも、いずれは消えるのだろう。

 今はまだ護人である奏と契約していた影響が残っている。闇が綻ぶ城に入って自由に行動することも出来るが、契約破棄を行ってしまったら、少しずつ闇に染まる。無邪気無垢に笑う能天気ではいられない。


 願いを叶える為に、ローズは未来を生きると決めた。


「貴女も、いつまでもここに居座る必要はないわよ」

「ええ」


 庭園を眺め続ける女性の言葉に、素直に答える。


「ここに来たのは、私の我が儘ですから。気が向いたら城から出て行きます」


 城の現状を知れて良かった。王冠の在るべき場所に来られて良かった。

 送り出した人達が戻って来るまで、力は温存しておきたい。日に日に重くなる身体を休め、願いが叶う日には当事者でいたい。

 その時は、と小さく女性は呟いた。


「別れの挨拶は要らない。貴方は最初から、私が捕まえられない存在なのだから」


 ローズを見ない女性は、出会った日のことを思い出している。

 城ではない場所で、お互いの名前も顔も知らなかった時に出会った記憶。幼かった少女は立派な女性へと成長したのに、ローズの身は何も変わっていない。


 人と精霊の違いを思い知る。

 いつだって置いていかれたのは、ローズの方だ。

 ただ願わくは、と声がして、下がっていた視線を上げた。


「また…困っていたら、手を貸してね」


 お腹に手を当てた女性の眼差しは、母親そのもの。


「今度は私じゃなくて、この子に。私の代で、この呪いのような運命が断ち切れたらと願うけど、そう簡単にはいかないことでしょう?また多くの血が流れ、我が子が苦しむのも運命なら――」


 真っ直ぐに、昔から変わらない檸檬色の瞳がローズを見た。

 どれだけ年をとっても、その瞳の色だけは変わらないのだろう。


「この子を、正しい道へ導いてあげて」

「…はい」


 約束をしたくはなかったのに、小さくも返事をしてしまった。

 頼んだわ、と言い残した女性が微笑み、護衛を連れて廊下の奥に消えてしまう。

 その足音が完全に聞こえなくなるまで、消えた方角をローズは眺めた。その姿を目に焼き付ける。忘れないと誓うかのように、もう二度と会えない予感を胸に抱き、女性とは反対側の廊下を進んだ。




 夢の中には、真っ白な扉があった。

 二回続けて、ローズは扉を叩く。中から返事がなかったので、もう二回。それでも返事がないのだから、中にいる人物は寝ているのかもしれない。


 それとも、と別の予想をする前に、部屋の中から咳き込む声がした。

 迷ったのは一瞬で、扉を開けた。


 広々とした寝室だ。窓の外は明るく、温かな太陽の日差しがベッドの脇まで伸びていた。白を基準として青や緑系統の家具が揃う寝室は、小さな子供の為の部屋。


 そこに横になっていたのは、小さな男の子。

 この部屋が、小さな男の子の居場所。


 あまりにも苦しそうに咳き込んでいたので、ベッドの傍に行って背中をさすった。ローズの顔を見るなり少し驚いたが、されるがまま大人しい。

 落ち着くまで待ってから、ベッドの脇に立って男の子を見下ろした。ローズの知っている女性と同じ瞳の色。髪の色は違うけど、同じ顔をして男の子は笑う。


「ありがとう」


 そっくりな親子。出会い頭に、同じことを言う。

 思わず笑ったのは、あまりにも似ている場面を思い出したから。ローズの笑みに男の子も嬉しそうで、窓辺に腰かけ、ベッドに座っている男の子を眺めた。

 夢の中なのに、男の子に纏わりつこうとする闇がある。男の子は気付いていない。本人の魔力で近付けはしないが離れもしない闇を観察すれば、男の子は口を開いた。


「えっと…新しい使用人?」

「口の利き方には気を付けた方がいいよ。それと私は使用人じゃない」


 ローズの答えに、男の子は悲しそうな顔をする。


「そう。残念…です」

「何故?」

「僕の話し相手になってくれるかなと思ったから。僕の部屋にはあまり人は来なくて、本ばかり読んでいて。あと――」


 僅かに頬を赤くした男の子は、恥ずかしそうに言う。


「その髪と瞳が、綺麗だな、て」


 黒い髪に黒い瞳を持つローズは、ふーん、と相槌を打って髪をいじった。


「この色は珍しいとは言われるけど、気に入られるとは思わなかった」

「とても綺麗だと思います。それに黒い髪は初代王の証だと本に書いてありました。魔法が使える人って凄いですよね。護人って知っていますか?初代王が作った金の王冠を奪った人とも言われているのですが、とても強い魔力を持った人だったと。一度奪われたとしても、今の城には王冠が在って。もしかしたら、それが護人も身に付けた物かもしれないと思うと、僕もいつか王冠を被りたくて!」


 最初にはにかみ、徐々に熱心に語り出した男の子は、よっぽど護人に憧れているらしい。

 彼と同じだと言われて、嫌な気分はしなかった。

 王子であるにも関わらず、部屋から出られず人にも会えない。十分な教育を受けているかさえ怪しくて、よっぽど酷い教育を受けていても不思議じゃない状況。

 そもそも教育を教える立場の者が、まだ城に残っているのか。

 ローズが教えなければ、目の前の男の子は何も知らないかもしれない。城の中も、外の世界も、自らの辿る運命も。


 それよりまず、今が夢だと分かっているのか。

 とても素直な姿に調子が狂いそうで、話を聞き入ってしまった。


「――あの、聞いていますか?」

「聞いているよ。貴方が護人をどれだけ好きか。十分に伝わった」

「いや、そんな好きだなんて」

「それより、貴方の名前は?」


 しどろもどろで照れた男の子に対し、急ではあるが話を変えた。


「…チトセ」

「ちゃんとした名前」

「…チトセ・エスポワール・ルリエール」


 強く聞き返せば、小さいけれど名前を言った。

 自分のことを、きちんと理解しているようで安心した。その名前の意味を分かっている表情は困った顔で、どうして今更聞くのかと言いたげでもある。


「お姉さんは?」

「私はローズ」

「ローズ…さんは、どうして僕に会いに来たの?わざわざ、こんな所まで」


 首を傾げたチトセは聡い子だ。

 この場所が、夢の中だと知っていた。それが心から嬉しい。


「チーちゃんに手を貸しに、かな」


 チトセと呼ばなかったのは、自分との間に線を引くため。


「色々とやりたいことがあるけど、夢の中の方が、自由があってね。ここに来たのも、その一つ。使用人じゃないけど、話し相手にはなってあげる。折角だから魔法の使い方も教えてあげる。どう?」


 ローズの提案に、チトセの瞳が輝いた。

 でもすぐに、その瞳に影が落ちる。


「でも、夢の中で魔法が使えても意味がないよ。現実の僕は身体が弱くて、長く生きられないってみんなが言っていた」

「その皆が私の知らない誰かだとして、大切なのはあなたの意思でしょ」

「でも…」

「でもでも言わない。魔法を使いたいの?使いたくないの?」


 強気で訊ねれば、チトセは言葉に詰まった。

 それから消えそうなくらいの声で言う。


「使いたい…です」

「そう、なら教える」


 これは気まぐれ。願いが叶うまでの暇つぶし。


 ベッドの脇に行って、チトセの額に唇を寄せ、そっと口付ける。

 身を離せば、何をされたのか理解したチトセの顔が赤かった。両手を額で押さえる仕草は可愛くて、何も言えずに口を開いては閉じる。

 ふう、と息を吐いたローズは、雑にベッドに腰かけた。


「私の魔力を与えたから、ちゃんと魔法を使いこなせるようになりなさい」

「え?ローズさんの魔力を?」

「そう。使いこなせるようにならないと、魔力を与えた意味がないからね。これから一生懸命練習して、上達して」


 身体の向きをそのままに、首だけチトセを見て言った。


「王になりなさい、千歳」


 名前を呼ばれたチトセの背筋が伸びる。真剣な想いは伝わった。

 それはチトセの願いでもあると、魔力を与えた繋がりが教えてくれた。両親を支え、いつか女王陛下と呼ばれる母親を越えられるように。人々が笑い合う平和な国の王になりたいと、まだまだ未熟な男の子は願う。


 その光を正しく導くことが出来たら、交わした約束は果たされる。

 約束よ、とローズは右手の小指を差し出した。


 ふと、遠い昔の忘れられない最初の記憶が蘇る。

 周りには沢山の仲間がいた。大切な友がいた。人とは違う時間の流れを過ごし、遊んで、学んで、花々の間を駆け、水面の上で夜空を見上げた。月の光の下で眠り、太陽の光で目を覚ましては唄を奏でた。


 そして、ある日の昼下がり。

 運命の出会いがあった。

 誰もが惹かれる光を宿した彼と出会った。


 彼が生きている国が好きだった。彼と過ごした時間が輝いていた。素直になれなくても、悪戯ばかりしていても、彼は決して怒らなかった。少し困った顔をするだけで、その顔すら好きだった。


 だから皆と一緒に力と願いを託した。

 例え離れ離れになっても、心は共にあると誓った。


 愛しい彼と交わしたのは一つの約束。

 初代王との約束が、未だにローズの心を縛る。

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