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馬車が止まった。
門を通り抜けた直後に、人の気配が消えた。肌に感じたのは突き刺さる痛み。ほんの一瞬、感じた痛みより心を占めていたのは怒りで、未だ冷めることはなし。
誰の手を借りることもなく馬車から下りる。
振り返りもせず、もう一台の馬車に乗っていた面々の所に向かった。
驚いたのは最初に下りたウイで、亜莉香の顔を見るなり言った。
「どうしたの?アーちゃん」
「いえ、何も」
とても簡潔に、それ以上の言葉はない。
次々と馬車から降りた人達にも、亜莉香の異変は伝わったようだ。奏を抱えたサイはすぐさま何事かと距離を置き、ルカとルイは心配そうに駆け寄る。
「何かあったか?」
「大丈夫?アリカさん」
数秒開けたのち、にっこりと笑った。
「はい。全く、どこも問題ありません」
いつも通り言ったつもりだけど、何か違うと思われたようだ。それ以上を聞いてはいけない雰囲気に、曖昧な相槌が返って来た。一緒に馬車に乗っていなかった人達には、怒りをぶつける必要はないと判断。
軽く息を吐き、肩の力を抜く。
可愛いフルーヴが駆け寄ったので、持っていたクマのぬいぐるみを傍に置いた。腰を下ろして喜ぶフルーヴを抱きしめていると、少しずつ落ち着くが、まだ駄目だ。
だって全員のフォローが、全くフォローじゃなかった。
少し太っていても大丈夫とか、甘いものは関係ないとか。もっと食べても平気とか、気にし過ぎるから太るのではないかとか。
フルーヴには見られないように、ムスッとした顔をしてしまった。
すると即座に、クマのぬいぐるみが亜莉香の怒りの矛先がいる人達を向いて、何もない宙を切るように腕を動かす。
お守りくまちゃんは、とっても優秀だ。
馬車の中でも、その実力を存分に発揮してくれた。
「あーあ、あれは当分怒っているな」
「ピヴワヌが余計なことを言うから」
「小僧だって言ったではないか!」
「まさか自分の魔法で作った試作品に一撃をやられるとは」
頬や頭を押さえている面々を、振り向こうとは思わない。暫く顔を合わせたくない。話を聞いたサイが戻って来て、亜莉香の顔を覗き込む。
「アーちゃん」
「…何ですか?」
いつもよりは低くなったが、サイは全く気にしなかった。
「アーちゃんの食べている姿、僕は凄く可愛いと思うよ」
馴れ馴れしく頬に触れようとしたサイが、吹き飛ばされた。
見事に飛んだクマのぬいぐるみは、その顎を的確に捉えていた。流石の亜莉香も驚いた。クマのぬいぐるみの反応は早い。
そう言えばトシヤに向けても、違う感情に反応して拳を振るっていたと思い出す。段々と性能が上がっていっても不思議ではない存在。精霊に負けず劣らずで、どう扱うべきか少し悩んだ。このままだと、ちょっとしたことで拳を振るってくれそうだ。善悪関係ない拳で次に誰がやられそうか。
ルカとルイは面白そうに、距離を取って眺める。
「よく飛んだね。アリカさんの防御力、いつの間にか上がったみたい」
「笑い事じゃないだろ。俺達は…大丈夫だよな」
「大丈夫じゃない?試してみよう!」
うきうきのルイがクマのぬいぐるみに向かったので、ルカの止める隙は無かった。近くまで行き、即座にしゃがむ。
「どうも、よろしく」
挨拶と一礼、それで十分だったらしい。
動かしていた腕が止まり、クマのぬいぐるみは深々と頭を下げた。手招きされたルカも真似すれば、同じように頭を下げる。
続いてサイが近づくと、やっぱり腕が素早く動いた。
一度敵と認識した相手には、そう簡単に考えを覆さない。
「なーんか。面白い魔道具が仲間になったね」
「あの子は魔道具ですか?」
「見慣れない形だけど、分類的には間違いない。名前を付けて、呼んであげたら?その方が喜ぶと思うよ」
亜莉香の隣に並んだウイが言い、名前、と呟いた。
お守りくまちゃん、と呼んでいたが、それ以外が良いのだろう。名前を付けるのは苦手だ。変な名前を付けたくなくて、クマと言えば、思い浮かぶのは一つだけ。
某テーマパークにいる、黄色いクマのぬいぐるみ。
「クマの…クーちゃん?」
誰に何と言われようが、それ以上は無理だった。
口に出してみたものの、それは駄目だろうと亜莉香は悩む。もっと相応しい名前を考えようと思ったが、名前を呼ばれたクマのぬいぐるみは即座に振り返った。真っ直ぐに亜莉香を見つめる瞳を輝かせ、喋りはしないが嬉しそうな雰囲気は伝わる。
クーちゃん、の呼び名で良いみたい。
嬉しさを隠してまた背を向けて、先程より素早く腕を動かした。
「良かったね。クーちゃん」
ウイに頭を撫でられても、クマのぬいぐるみ、改めクーちゃんは反抗しなかった。寧ろ誇らしげに胸を張り、足まで動かし始める始末である。
「馬鹿共は放っておいて。そろそろ次を考えましょう。アリカ」
名前を呼ばれ、頷くと同時に、クーちゃんの首根っこは掴まれた。掴んだネモフィルは平然と、捕まったクーちゃんは宙に浮き、手足を必死に動かすも届かない。
「出迎えはなし。この後の予定は?」
「そうですね」
ネモフィルの問いに、亜莉香は辺りを見渡した。
門を越えた先に誰もいない。馬車を引いてくれた従者は、いつの間にか消えている。残されたのは馬と馬車だけ、城の敷地内に人の姿もなし。
入ってすぐ在る筈の庭園に緑はなかった。
花の一つも咲いてなくて、城へと続く道は物寂しい。
これからを考えつつも、暴れているクーちゃんに興味が惹かれたフルーヴの瞳が輝いたことに気付く。ネモフィルが投げるように与えれば、ぎゅっと抱きしめ大人しくさせた。亜莉香が抱えると小さくても、フルーヴでは大きく見えるクーちゃん。可愛い者同士で、どうやらクーちゃんはフルーヴにも敵わない様子。
トウゴに見せに行く後ろ姿を見送って、亜莉香は立ち上がることにした。
向かうべき場所は、最初から決まっている。
「これはもう、城に真っ直ぐ向かうしかないかと」
「やっぱりそうなるわよね――ま、あっちも出向いて来たみたいだけど」
ぼそっと言ったネモフィルが、指し示す方角を見た。
空には雨雲が現れて、今にも嵐が来そうな空模様。心なしか下がった気温の中で、遠くの城を背景に空気が歪む。ゆらゆらと現れる影があり、地面が黒く染まりつつあり、聞きたくない憎悪のこもった声が聞こえる。
お早い出迎えで、とネモフィルが言い終わる前に。
最初に動いたのは、クマのぬいぐるみだった。




