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Last Crown  作者: 香山 結月
第1章 月明かりと牡丹
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11-2

 ユシアとトウゴを見送った後。茶の間に顔を出し、朝ご飯を食べたルカとルイも見送って、亜莉香は一人で朝ご飯を食べる。

 基本的にたくさん食べる方ではない。

 朝は食パン一枚、または茶碗の半分のご飯に味噌汁一杯で十分。何を食べようかな、と考えて、残っていた胡桃とドライフルールのパンと水一杯を用意した。

 カウンターに座って、もそもそと食べ終える。食器を重ねて立ち上がる。

 食器を洗い、元の場所に戻す。

 時刻を見てから庭に出て、残っていた花の水やりを終わらせた。水やりが済むと、急いで部屋に戻る。仕立て終わった着物と買い物用の風呂敷を持って、玄関で靴を履き、亜莉香は家を出た。


 住宅街、裏路地、市場に入って、迷わず向かったのはパン屋。

 市場の中には朝早くから露店を開いている人もいるが、パン屋の露店はまだ開けたばかり。人が少なく、数種類のパンが並んでいる露店の中に小柄な女性がいた。


 明るい橙色の髪に木製のシンプルな簪を挿しているモモエは、二か月ほど前に生まれたばかりの女の子、アリシアをおぶっていた。

 人混みをかき分けて、亜莉香はモモエに駆け寄る。


「おはようございます。今日もよろしくお願いします」

「おはよう、アリカちゃん。こちらこそよろしくね」


 はい、と元気よく返事をして、亜莉香はアリシアの顔を覗き込む。

 まだまだ小さく、すやすやと眠っているアリシア。モモエとお揃いの、秋桜の描かれた赤い着物を着ていて、その頬に軽く触れれば、その拍子に少しだけ目を開けた。

 父親のワタルと同じ、琥珀色の瞳。顔はモモエに似ていて、このまま成長して欲しい、と誰もが言っていた。目を開けてもまだ眠いようで、アリシアの瞼はすぐに閉じた。小さくて可愛い寝顔を眺めていると、露店の後ろにある建物の扉が開き、焼きたてのパンを持ったワタルが顔を出した。


 いつも真っ赤な布を髪に巻いていたが、その布が今ではモモエとアリシアとお揃いだ。

 似合ってない、と客に笑われても、ワタルはそんなことはない、と声を大きくして笑っていた。モモエとアリシアが心底大切なのは、目に見えて分かる。

 亜莉香に気付いたワタルは、笑顔を浮かべた。


「お、来たな。おはよう」

「おはようございます。あ、荷物を置いて、すぐに手伝いますね」

「それなら、中のパンも持って来てくれないか」


 分かりました、と言いながら、亜莉香は建物の中に入る。

 持っていた荷物を、邪魔にならない場所に置いた。

 外ではパンを並べ終えたワタルが、亜莉香と同じようにアリシアに触れていた。仕事をしろ、とモモエに怒られる様子は日常茶飯事で、怒ってはいるがモモエの表情は柔らかい。

 最初の約束では、パン屋の手伝いをするのは、アリシアが生まれるまでだった。けれども生まれたばかりでモモエをすぐに働かせたくない、とワタルが喚き、亜莉香の手伝う期間はもう少し伸びることになった。


 午前中の数時間、亜莉香が手伝うのはモモエと一緒にパンを売ること。

 モモエと一緒に、と言っても、アリシアが泣き始めれば、モモエは建物の中に入ってしまうし、ワタルはパンを焼くので忙しい。一人で露店に立つことに最初こそ抵抗を感じたが、慣れとは怖いもので、今ではもう一人でも問題ない。

 よし、と気合を入れてから、亜莉香はパンを持って露店に戻る。


「ワタルさん、これですよね?」

「ああ、それそれ。あと、残っていたパンも――」

「自分で持って来なさい」


 バシッとワタルの背中を叩いて、モモエは言った。

 少しでもモモエとアリシアから離れたくないワタルが寂しそうな顔をするが、モモエは容赦しない。早く行け、と顎を上げて、無言で睨みつける。

 渋々その場をワタルが離れてから、亜莉香は笑う。


「ワタルさん、相変わらずですね」

「いい加減、もう少し真面目に仕事をして欲しいわ。アリシアが生まれて嬉しいのは分かるけど、そのせいで仕事をしなくなったら別れてやる」

「そんなこと言ったら泣いちゃいますよ」


 誰が、と言わなくても、モモエには伝わった。

 ワタルが泣き叫ぶ様子は容易に想像出来たようで、少し考えて言葉を続ける。


「そうね、別れるではなく、暫くまずい料理を大量に食べさせることにするわ」

「それでも喜んで食べるのではないですか?」


 確かに、とモモエは笑い出す。


「それじゃあ、あの人には無意味だわ。他の案を考えなきゃ…考えると言えば、アリカちゃん。あの約束、覚えている?」


 約束、と言われて、亜莉香は少し考え、何の話かすぐに思い出した。


「約束、と言われると。アリシアちゃんが生まれた時のお礼の件ですよね。欲しいものを考えて、と言われましても。私もユシアさんも、特にありません」


 申し訳なさそうに言えば、モモエは大袈裟にため息をついた。

 何か欲しいものはないか、もう二か月近くもモモエに尋ねられている。欲しいもの、と言われてもない。モモエの力になれたことは嬉しいが、お礼を貰うようなことはしていない。

 一応ユシアにも聞いてみたが、仕事だもの、の一点張り。

 お礼を要らない、と何度言っても聞いてもらえず、亜莉香は困った表情になる。


「お気持ちだけで、私もユシアさんも十分です。それで、納得してもらえませんか?」

「そうよね。そう言うと思ったので――」


 うふふ、と口元を隠して、モモエは笑みを浮かべた。

 何かを企んでいるのは明白で、尋ねる前に客が現れて話が中断した。

 一度客が現れると、途切れることはない。話を忘れて、亜莉香はパンを売り、時々ワタルが焼きたてのパンを追加する。モモエも途中までは露店にいたが、アリシアが泣き出して慌てて建物の中に入っていなくなった。






 結局、人の波が収まったのは昼近く。モモエは未だ戻らない。

 亜莉香が一人で露店の店番をしていると、ひょっこりと少年が顔を覗かせた。


「こんにちは、アリカ姉ちゃん!」

「コウタくん?」

「繁盛している?」

「あ、ムツキさんも」


 こんにちは、と少し驚き、亜莉香は頭を下げた。

 人混みに紛れてパン屋にやって来たのは、ご近所のコウタとムツキだ。

 人懐っこい笑みを浮かべたコウタは、明るく華やかな赤の髪によく似合う、薄い黄色の着物と、濃い灰色の袴姿。雪が降るまではブーツを履かない、と騒いで、未だ裸足に草履で市場を駆け回っている。


 隣に立つムツキは、菊の花が描かれた薄く淡い黄色の着物に黒い帯。帯にも薄い菊の花の模様があり、コウタと同じ色の長い髪を透明な曇り玉の付いた簪でまとめて、足元から冷えることがないようにブーツを履いていた。

 普段はパン屋で見かけることのないコウタとムツキに、亜莉香は首を傾げて問う。


「珍しいですね。お二人がこの時間に市場にいるのは」

「今日はね、午後から父さんが仕事を休めるんだって!だから午後から三人で中央市場に行って、灯籠を買うんだ!」

「祭りの灯籠ですか?」

「そうよ。祭りの日にはどの家も灯籠を灯すから、立派な灯籠を買わせるのよ」


 ねー、と目を合わせたコウタとムツキが、楽しそうに言った。

 買わせる、と言ったムツキの目は、コウタ以上に輝いている。嬉しそうなムツキは、それで、と亜莉香を見た。


「あの人とは中央市場で待ち合せているから、その前に軽くお昼を食べようと思って。これとこれ、それからそれ、貰える?」

「はい。分かりました」


 ムツキが指差したパンを袋に詰め、亜莉香は手を差し出していたコウタに手渡す。

 コウタはパンを一つ袋から取り出すと、すぐに口に放り投げた。その瞬間にムツキの無言のげんこつが、コウタの頭に落ちる。

 亜莉香が止める暇はなく、コウタは両手で頭を抱えた。

 何事もなかったかのように、笑顔のムツキはお金と封筒を差し出す。


「お代と、これはいつもの手紙ね」

「わざわざすみません」


 ありがとうございます、と言って亜莉香が受け取ったのは、お金と薄紅色の封筒。

 ムツキや、コウタの父親であるコウジ経由で渡されるアンリからの手紙は、二週間に一度のペースで亜莉香の元に届く。コウタはもっと頻繁に短い手紙を交換しているようだけれど、亜莉香に届く手紙は長く、手紙を開ければいつも仄かに甘い匂いがした。

 今は読む暇がないので、手紙は胸元に忍ばせる。

 にっこりと笑って、亜莉香は言う。


「来週には返事を書くと思いますので、その時はまたよろしくお願いします」

「いつでもいいわよ。今日は時間がないけれど。また今度、一緒に買い物しましょうね。ほら、コウタ挨拶して。さっさと行くわよ」

「…母さんの馬鹿力」


 小さく言った声は、しっかりとムツキに届いていた。

 無言のげんこつを再び受けたコウタの首根っこを掴み、ムツキは笑っていなくなる。引きずられるコウタは意識を失いそうな顔で、何も言えずに連れていかれた。

 憐れとしか言いようがない。

 願わくは午後からは家族三人で仲良く買い物をしますように祈りつつ、亜莉香は残り少なくなったパンを見て、急いで建物の中のワタルに声をかけた。

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