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Last Crown  作者: 香山 結月
最終章 街明かりと椿
467/507

93-5

 ぼすん、と身体が沈み込んだ感覚に、亜莉香はただただ瞬きを繰り返した。

 一時間も経っていないが、コライユ家の屋敷に入ってから様々な仕掛けがあったおかげで、この程度では驚かない。それでも視界が定まるまで時間がかかる。


 明るい照明の下。

 目の前にある背の低いテーブルは、光沢のある白と灰色のまだら。

 テーブルの向かいに、亜莉香と同じく状況の分かっていないトウゴがいた。隣にいるサイは感心した様子で息を吐き、部屋の中を見渡す。ソファに座っているのだと実感した亜莉香は、誰かに肩を揺さぶられた。


「アリカ、大丈夫か?」

「トシヤさん?」


 心配そうに顔を覗きこまれて、トシヤがいたことに驚いた。

 間違いなくトシヤがいる。


 ついさっきまで透と二人で廊下に居たのが嘘のようだ。

 その奥で、亜莉香達を不機嫌そうな顔で見ている男性と目が合った。誰だろう、と間抜けな顔をしてしまう。目が合った男性が舌打ちして、その傍に控える女性が言う。


「旦那様、態度が悪いです」

「いちいち五月蠅い。というより、もう一人を早く呼べ」

「彼でしたら、一緒に居た女性と離れなさそうだったので客間に通しました。私は今からそちらにお茶を出して来ますので、お一人でも来られるか聞いて来ます」

「そうか。なら先に俺の分のお茶を用意してから――」

「行ってきます」

「最後まで話を聞け!」


 亜莉香達を門まで出迎えてくれた女性と、旦那様と呼ばれる男性の掛け合いには温度差があった。表情も変えずに身を翻した女性が出て行ってしまうと、残された男性の掴み損ねた手だけが宙に残る。

 半分腰が上がりかけていた男性は、盛大なため息と共に再び座った。


 執務室、と呼ぶにふさわしい部屋の主。

 やや黒みがかった濃い紫の髪と瞳を持つ男性の見た目は若い。先程までいた女性が四十も近くに見えたとすれば、男性は三十代前後の細身。長い髪を後ろで結び、一人用の大きめのテーブルに肘をついて、亜莉香達を見つめる眼差しは険しい。


 睨むような瞳に耐え切れず、亜莉香はトシヤの背中に隠れた。

 この人がコライユ家当主なのだろう。


 例え使用人と思われる女性に主扱いされていなくても、どう見ても貴族という雰囲気はあるのに口が悪くても。見た目だけは美形の部類に入りそうな貴族の当主だと思った所で、こそこそ話す会話が聞こえた。


「あれ、コライユ家の当主かな?」

「そうだろ。へえ、美形」

「え?僕より?」


 トシヤとは反対側に座っていた透と、向かいにいたトウゴとサイが身を乗り出し話す。部屋の中は静かなので、楽しそうな会話は筒抜け。むしろわざと聞こえるように言っているような気がしなくもない。

 ふざけて訊ねたサイに、透は呆れ、トウゴは笑みを浮かべた。


「そのぼさぼさの髪で、どこが美形だよ」

「美形と言えば、ルイじゃないかな。でも…シンヤ様の方もが美形かも。ルイは女装も出来る女顔だしな」

「ルイとガランスの領主の息子か…よし、僕だけでも出直してくるか」

「「今から」」


 小さくも重なった声で、笑い声が部屋に響く。

 比例して、当主である男性が座っている空間が冷え切った。怖くて振り返りは出来ないが、当主のいる部屋で無視して話す三人の神経がおかしい。

 亜莉香の肩身は狭くなる。

 頭の痛そうなトシヤが口を出す前に、執務室の扉が開いて女性が戻ってきた。


「遅い」

「あら、旦那様。まだお茶も淹れていないのですか?仕方がありませんね」


 男性の一言に対して、女性の言葉は棒読みだ。

 立ち上がりかけた男性が怒り出す前に、無表情の女性は持って来たティーカップを亜莉香達に配った。配られたのは空のティーカップで、押してきた車輪の付いた小さな台の上には大きなティーポット。

 そのティーポットを掲げたかと思えば、女性は器用に紅茶を注いだ。

 次々と空のティーカップに紅茶が注がれ、透達が盛大な歓喜の声を上げる。

 立ったまま離れた位置から的確に、次から次へと場所を移動して、一滴も零さずに紅茶を注ぐのは神業だ。拍手を貰った女性の口元は、ほんの少しだけ嬉しそう。


 思わず亜莉香も拍手をすると、薄墨色の瞳と視線が交わった。

 すぐに瞳を逸らされる。紅茶を用意し終えた女性は、てきぱきと動き出した。テーブルの上に並べていくのは色とりどりのお菓子で、マカロンとカヌレ、生クリームの添えられた熱々のタルトタタン。オレンジとチョコレートのコントラスが美しいオランジェットに、さっくり焼いたクッキーの中にダークチェリーを挟んだ、ガトーバスク。

 甘い匂いが、一気に部屋に充満した。


 亜莉香の前にだけ置かれた白い皿には、フォンダン・ショコラだった。ベリーと一緒に可愛らしく花まで飾ってあり、ようこそ、の文字まで書いてある。

 表情とは裏腹に、女性の行動は歓迎の気持ちを感じる。瞳を輝かせた亜莉香が顔を上げれば、優しい眼差しに見守られていた。子供のようにはしゃぎそうになって、恥ずかしくなり顔を下げる。食べたくて、そわそわした亜莉香の様子は部屋にいた全員に気付かれた。勝手に食べ始めるという真似は出来なくて、若干頬を赤くしたまま、両手は膝の上で待機。


「…食べてもいいぞ」


 若干呆れた声は、男性の声だった。片肘をテーブルについていた男性は呆れ果てた顔で、テーブルの上のお菓子を指差す。


「食べながら話をしてやる。だから、食え」

「いえ、でも…」

「俺が許可した。それより俺の分は?」

「旦那様の分はありません」


 途中で女性に訊ねた男性の、眉間に皺が寄る。口角は引きつり、女性は紅茶だけを普通に注いで、ティーカップを差し出した。


「虫歯になるといけませんので」

「いつまでも子供扱いするな。いいから、さっさと俺の分も用意しろ」

「既に料理人は就寝しましたので、起こすのは如何なものかと。皆様が許可して下されば、一緒に召し上がれるのでは?」


 数秒の睨み合いに、負けたのは男性だ。

 物欲しそうな視線が、亜莉香達に注がれる。睨んでいるようにも見える男性に、亜莉香は耐え切れなかったが、トシヤは平然と顔を向けた。


「一緒に食べませんか?どうせ俺達には量が多いです」

「良かったですね、旦那様。トシヤ様が優しい方で」

「俺の使用人は優しくない」


 文句を言いつつ、立ち上がった男性は椅子を持ってテーブルの傍に来た。

 トシヤとサイの近く、足を組んで見せた男性は偉そうに背筋を伸ばす。後ろに控える女性も姿勢はよく、どちらの雰囲気も庶民とは違った。

 どこか近寄りがたい、そんな印象。


「それで、まずは名を名乗れ」

「こちら、コライユ家当主、マサキと申します。私は使用人の、キヌと申します」


 自らを名乗った女性、改め、キヌが、当主までも紹介した。

 冷ややかな視線など物ともせず、キヌは言う。


「では、手を動かしながら、トシヤ様のお隣から自己紹介を」

「私ですか?」


 急に言われて、焦った亜莉香は狼狽えた。

 自己紹介を、と言われると何を言えばいいのか。名前だけでいいのか。それとも他のことも言うべきか考えているうちに、紅茶を飲んだ透が勝手に話し出す。


「亜莉香、透、トウゴ、サイ。この部屋にいない連中は、あとで紹介な。てか、他の連中、どこにいるわけ?」

「こちらではなく客間に、ご案内しました。お疲れのようでしたので」

「まあ、あれだけ騒げばな」


 ぼそっと言ったのはサイで、あれ、とトウゴは首を傾げる。


「ピヴワヌ様も疲れたのかな?」

「ピヴワヌ様、とは?」

「えっと…白い髪の少年?」

「彼でしたら一緒に居た女性を抱えて屋敷中を走り回り、相当疲れているご様子でしたね。それから旦那様が呼ぼうとしていた彼ですが、やはり一緒に居た方と離れたくないそうなので、こちらに来ることは辞退されました」


 マカロンを口に運ぼうとしていたマサキの手が止まる。

 信じられないものを見るような目つきで、キヌに聞き返す。


「断ったのか?俺の命令を?」

「偉そうにする癖が直らない限り、誰でも断るのでは?つい最近の夜会でも、ご令嬢にダンスを申し込んで断られていた話じゃないですか」

「それと一緒にするな。それから主人を貶める発言やめろ」


 真顔になったマサキの表情が、事実を物語る。

 主であるマサキの方が立場は上の筈なのに、どう頑張ってもキヌの言葉に勝てない。わざと音を立てて紅茶を飲むのは反抗している証なのか、あまりの態度の悪さに、キヌの瞳が細くなった。

 一進一退の会話では、話が進まない。

 分かったことは一つ。マサキが呼び出そうとしていたのは、おそらくルイだ。


「なんで俺達だけ、こっちに呼ばれたわけ?」

「先に言いたいことがあったからに決まっているだろう」


 決まっているのか、と質問した透がぼやいた。

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