89-2
夜中に目が覚めたのは、誰かの話し声が聞こえたからだ。
ベッドで眠っていた亜莉香は目を覚まし、ゆっくりと起き上がる。枕の真横にいるフルーヴも、隣のベッドで寝ているルカも静かだ。
聞こえる声は窓の外。内容までは聞こえない。
そっとベッドから抜け出して、傍に置いていた肩掛けを羽織った。足音立てないように窓辺に行き、カーテンの中に入って、窓の鍵を開ける。
「――それでね。その階段を上った先には、誰がいたと思う?」
「…怪談か?」
「違うよ。怪談なら、もっと雰囲気を出して話すから」
僅かな隙間から聞こえた声は、ウイとサイの声だった。
安心して窓を開け、少し顔を出して外を覗く。左側には、客間から出られるバルコニーがあって、その柵に肘をついていたのがウイである。奥のサイは柵に背を預けて立っていて、どちらも人の姿なのに、月明かりの下では仄かに光を帯びているように見えた。
「で、誰だと思う?」
「知らないよ。正直、僕は誰がいても驚かないけど」
「もっと興味を持ってよ。折角ここから面白い話になるのに」
ご機嫌斜めなウイは亜莉香の方を見ていなくて、サイとは目が合った。
肩を竦めて見せたのは、亜莉香に対してだ。
「僕が興味を持つとしたら、彼女かな」
「彼女?」
気付いてなかったウイが振り返り、ようやく亜莉香の姿を確認した。嬉しそうに笑ったウイが少しでも傍に寄るが、バルコニーがあるのは客間で、寝室とは繋がっていない。
それでも一メートル程の距離まで近づき、亜莉香は声を落として訊ねる。
「お邪魔でしたか?」
「そんなことないよ」
「寧ろ茶々を入れてくれて、どうもありがとう」
後ろに立って言ったサイの脇腹が、ウイの肘によって攻撃を受けた。身を引いたかと思えば鴉になって、亜莉香のいる窓までやって来る。
「やれやれ、暴力的なのは誰に似たのだか」
「サイじゃないことは確実ね」
ウイまで鴉になって来たので、顔を出す必要はなくなった。
あまり大きな声で話せば寝ている人達を起こしそう。亜莉香は人差し指を口元に寄せる。それで通じたウイが軽く頷き、声を潜めて話し出す。
「アーちゃん。起こしちゃって、ごめんね。五月蠅かった?」
「五月蠅くはなかったです。それに私しか起きていませんよ」
「そのようだね。もう一つの寝室にいる連中も、誰も起きやしない。僕らの声が聞こえて、もう一人ぐらい起きてもいいはずなのに」
ため息交じりのサイが言った。
寝室へ降り立ったかと思えば、亜莉香の傍に椅子を持って来てくれた。風の魔法で音を立てずに、カーテンの中でも座って喋っていられるように配慮するサイは、案外周りを考えて動く。
そっと亜莉香が腰を下ろすまで、窓辺にいる鴉は待っていてくれた。
「お二人は、いつからあの場所に?」
「飲み屋から戻った後。ちょっと飲み過ぎちゃったから、酔い覚まししたくて」
「酷いものだったよ。ピーちゃんが馬鹿みたいに酒を好むは知っていたけど、ネモちゃんまで負けないと言わんばかり酒を仰いで。何軒梯子しても、食べては飲んで騒ぐから」
「あの二人だけで、私の財布を凄く軽くしてくれたよね」
しみじみと言ったのはウイだったが、どこか嬉しそうに頷く素振り。
「それに二人が並んで酒を交わす日が来るなんて」
「口喧嘩は絶えなかったけどね」
呆れたサイの言葉に、いつだって口論の絶えない二人の精霊の姿は容易に想像出来た。どこでも、いつでも、喧嘩するほど仲が良い二人という結論で落ち着く。
「それでその二人…ピヴワヌとネモフィルはどこに?」
「飲み足りないピーちゃんは、アーちゃんのお友達の晩酌に誘われて行ったよ。ネモちゃんは眠くて仕方がないから、近くの水辺に」
「近くに水辺なんて、ありましたか?」
「半径数キロ以内なら、ネモちゃんにとっては近場だろうね」
答えになっていない答えを貰い、亜莉香は納得するしかなかった。
何となく夜空を見上げ、この場にいない二人の精霊を想う。
亜莉香の友達と言われ、ピヴワヌを晩酌に誘うとしたら一人しかない。シンヤの元にいるはずのピヴワヌは、今日だけで一体どれだけの量を飲んでいるのか。それに負けないように対抗していたネモフィルは、一体どこで休んでいるのか。
考えても分からないけど、二人が楽しい時間を過ごせていたのなら嬉しい。
眠気が覚めてしまった亜莉香を見て、サイも外を眺めて問う。
「ねえ、アーちゃん」
「何ですか?」
「君は今、幸せかい?」
突然の質問に少し驚いたが、亜莉香の口角は上がった。
「ええ、幸せですよ」
「そうか。それでも、この先の未来で、君が悲しくなったり泣きたくなったり。途方に暮れて動けなくなったりした時は、僕の名前を呼べばいい」
どこかで聞いた台詞に、亜莉香は視線をサイに向けた。
ウイは黙っている。月を見上げるサイは優しげな顔で、そっと言葉を紡ぐ。
「救われる資格も、必要もなかった僕を助けたのは君だ。君が嬉しかったり楽しかったり、どこか遠くに行きたくなったりした時も、僕の名前を呼べばいい。いつだって――君が僕を呼んだら、どこに居ても飛んでいく」
真っ直ぐに亜莉香を見据える瞳は、宝石のペリドットを思わせる色だ。
その瞳の奥に光が宿り、名前を呼ばれることを亜莉香に願う。
「君なら、僕の名前だって呼べるだろう?」
妙に自信に溢れた声だった。目の前にいる鴉の名前なら知っている。それでもサイが願っているのは、ただ名前を口にすることではない。それだけなら亜莉香でなくても良い話。
言葉に詰まった亜莉香に、今度はウイが話し出す。
「サイだけじゃなく、私の名前も呼んでね。私達は二人で一つ。一緒に居る時こそ、その力を強く発揮できるから」
「だな。僕は風を捕まえ、風と謡う」
「私は風を駆け抜け、風と遊ぶ。私達はシノープルを――貴女を守る風になる」
同じ色をした瞳が亜莉香を見つめ、その翼を広げた。
ウイの羽が一枚、零れ落ちる。その羽は真っ白で、亜莉香の膝の上に舞い落ちた。羽を両手で優しく包み込めば、とても柔らかくて温かい。視線が下がっていた亜莉香に、降り注ぐような優しい声が問いかける。
「僕が風を捕まえるのに、必要なものは何だと思う?ウイが風を駆け抜ける為に、何を身に纏っていると思う?」
それが答えだと言わんばかりに、サイが言った。
顔を上げれば、ウイと並んで亜莉香の言葉を待っている。まだ何も言えないのに、と困った顔をすれば、握っている羽から伝わる温かな何かがあった。
夜風が亜莉香の頬を撫でる。
月夜の空に舞う、二羽の鴉の幻を見た。
遊ぶように軽々と空を駆け抜ける鴉と、その鴉を追いかける鴉。羽のように軽く急転換しては、もう一羽を困らせる。困った鴉が風を捕まえ飛びながら、謡うような声で鳴いた。
どちらの鴉も、風を衣のように身に纏う。
そして先を行く鴉の羽がまた、一枚だけ輝くように舞った。
やがて羽は二つの金属を合わせた鎖に変わって、音も立てずに消えた。
二羽の鴉も見えなくなった。
その幻が意味する言葉を、瞳を伏せた亜莉香は心の中で考える。間違ってもいいやと思いながら、目の前にいる白い鴉達を見据えた。微笑んで、そっと口を開く。
「貴方達の傍にある風は、とても美しく、決して色褪せない衣みたい」
ウイとサイが静かに言葉の続きを待つから、少しだけ自信が湧いた。
「風を駆け抜ける為に、その身に纏っているのは羽ですね。軽くて、掴みどころがない風と一体の羽。そんな風を捕まえる為に必要なのは、形ないものを繋ぎ止める鎖だと思います」
だから、と一呼吸を置く。
手にしている想いを意識して、意味を知って名前を呼ぶ。
「貴方達の名前は――羽衣と鎖衣」




