87-3
辿り着いた庭園は、亜莉香が一度だけ訪れた場所。
街の外れ。人の気配のないススキ野原の中。その中を進んで急に開けた視界の先、葉も花もない薔薇のアーチを抜け、突如として現れる結界と幻想に守られた庭園。
圧倒的に薔薇が多い庭園は、青々とした葉を纏う垣根で囲まれている。
しつこくない薔薇の香りが特に濃いが、薔薇以外の花も咲き乱れ、幾つもの匂いが混ざる。小鳥の囀り、草木の揺れる音。どこからともなく湧く水の音がして、空は夕暮れ、橙色に染まり出す。
「凄いな」
「というより、俺達全員で来て良かったわけ?」
「駄目とは言われてないから、問題ないでしょ」
「駄目と言われても来たけどな」
ルカの言葉に、頷いたのはトシヤとルイ。
亜莉香とサイ以外が、それぞれ感想を述べた。何度見ても美しい庭園の中の空気が澄んでいて、とても落ち着く空間である。中央で集まっている数人に目を向ける前に、傍の垣根に立っているピヴワヌに気付いた。
腕を組むピヴワヌは亜莉香と視線を交わし、また前を向く。
「早かったな」
「近くにロイさんがいましたので。ピヴワヌも、呼ばれたのですか?」
偶然ではなく、同じく鴉に導かれて迎えに来たロイが馬車で案内してくれた。ロイだけはススキ野原の手前で待つと言い、やって来たのは亜莉香を含む六人。
「儂とばばあは、ウイの奴に強引に引っ張られてだな」
「それでまさか、あんなことになっているとは思わないわよね。あれは私達の出る出番じゃないもの。手出しする気も起きないわ」
ピヴワヌの隣でしゃがみ、頬に両手を当て、ため息をついたネモフィル。
あれ、と言われ、中央の固まっている人達を見た。
「だから、もう一回!頑張ってくれよ!」
「そうだよ!ここで諦めないで!」
立ち止まっている亜莉香に背を向けるように、透とウイが座り込んでいる。どちらも地面にいる何かに向かって必死に話しかけているが、何に向かって話しかけているのかまでは見えなかった。透の肩には小さく白い兎であるフルーヴがいて、はわー、と可愛らしい声を出す。
一体何がどうなっているのか。
おそるおそる近づいたのは亜莉香だけで、ルカとルイが先に、その後にはトウゴも続いた。亜莉香はトシヤと一緒に、座り込んでいる二人の後ろから覗き込む。
そこにいたのは、黒くて小さな生き物だ。
覗き込んだ面々が驚き言葉を探す中、亜莉香は遠慮がちに問いかけた。
「えっと…狼の、子供ですか?」
黒い毛並みに、美しい緑色の瞳を持つ狼の子供。フルーヴよりは大きいが、両手で抱えられそうな大きさ。ヒナが従えていた狼に似ている。
泣きそうな顔をしたウイが振り返り、ゆっくりと首を横に振った。
「違う。かっちゃんなの」
「…え?」
「兄さん、いい加減に人の姿に戻ろうな。亜莉香も来たから、その姿じゃなくて人の姿で話そう。その方が場所も移動出来るし、落ち着いて話せる」
「人の姿は面倒。無理」
小さくも聞こえた声は、亜莉香達を庭園に導いた鴉の声。
可愛い見た目に反して、声が低かった。フルーヴは興味津々の様子であり、ウイが悲しそうに肩を竦め、透は両手を後ろに置いて空を仰いだ。
「面倒って…」
「これなら街を歩いても、あまり人は気にしない」
「そういうけどね、かっちゃん。狼の子供はシノープルの街で見かけない。そもそも狼は、滅多に街に下りて来ない。子供であれ大人であれ、面倒でも狼以外の姿になるのが、街を歩くには不可欠だと僕は思う」
説得するのを諦めた透の代わりに、傍に寄ったサイの説教が始まった。
「だいたい前に一回、その姿で檻に入れられたのを忘れたわけ?僕が見つけたから良かったものの、あのままだと物わかりの良い狼として、見世物になるところだったよ?」
「そんなこともあったね。かっちゃん、利口な狼として目立つ必要ないでしょ。私とサイが間一髪で助けたことすら、忘れたの?」
「忘れてないけど、やっぱり人の姿になるのは面倒。それにあの時だって、自力で逃げられたと思う」
「「かっちゃん」」
ウイとサイが怒るように言えば、可哀想な鳴き声を出した狼が項垂れた。
それでも姿を変えない。人である亜莉香達が何も言えない現状になる。それを見かねたかのように、白い梟はやって来た。
「それくらいにしてあげてよ、二人共」
ウイとサイに睨まれて動けない狼の真後ろに、梟が舞い降りた。
瞬く間に人の姿になったローズは、狼の子供を軽々と抱え上げる。
「小さくなっただけ、ましだと思わないと。もう二十年近くも大きな狼として、野生の狼として暮らしをしていたのに。やっていたことは気になる子の匂いを嗅いで追いかけるという、犯罪すれすれの行為」
「うぐ」
「今更、人の姿になれないよね。万が一、あの子に人の姿を見られて嫌われたら、立ち直れずに泣くだろうね。それも見物だけど」
追い打ちをかけるローズによって、ウイとサイの瞳に軽蔑と同情の色が浮かぶ。
狼の頭が下がって、尻尾まで力なく揺れた。
呆れ果てた透は胡坐を掻き直し、深く息を吐く。
「兄さん、なんて馬鹿なことを」
「あれはその…地下アイドルを追っかけている気分というか。遠くから見守ろうとしていただけで、決して嫌がることはしていない」
「その表現は、俺と亜莉香しか分からないと思う。それもなんで地下アイドル?」
話が分からなくても、トシヤもトウゴも、ルカもルイも距離を置いた。トシヤに守られるように亜莉香も一歩足を引くことになり、近くにやって来たピヴワヌとネモフィルが会話に混ざる。
「どうでもいいが、結局人の姿に戻るのか?」
「戻るとしたら、自力で戻るしかないわよ。それは自分でかけた魔法なわけで、それを解くのも自分自身の力だわ」
「…解くのが面倒」
最終的に辿り着く回答は、全て同じ。
魔法を解く気のない狼は、やっぱりヒナの傍にいた狼と似ていた。じっと見ていた亜莉香に気付いたのか、狼があからさまに顔を背ける。
なあ、と話しかけたのはピヴワヌで、狼と顔がくっつきそうなくらい近づいた。
「こやつ、最近儂と会ったことがあるな」
「あら、よく見れば私も会った気がするわ」
ネモフィルにまで近寄られ、ローズに抱えられた状態では逃げ場がない。
狼が冷や汗を流すように震えた。動揺を隠せない様子に、かっちゃん、と呆れたのはウイとサイ。ローズが狼の頭を撫でながら、仕方がないと言わんばかりに話し出す。
「二人共、勘違いじゃなくて会っているよ。ピーちゃんは温泉街で、ネモちゃんはセレストの洞窟、だったかな。その時は大きい狼の姿で、私は会ったことを聞いただけだけど」
ローズは黙っていた亜莉香を見た。
「アーちゃんも会ったことあるよね?」
「ヒナさんの、傍に居ました?」
「そうそう。その子の傍をうろうろしていた、狼さん」
全てをばらされ、項垂れた狼が哀れにも見えてくる。そっと地面に下ろされ、とぼとぼと亜莉香の傍までやって来た。
ちゃんと座って、亜莉香を見上げた後に、とても申し訳なさそうに謝る。
「ごめんな。あの子の前だと話せなくて」
「私は構わないのですが…?」
「二十年前に、灯と約束したからさ」
ここに来て出てきた名前に、ローズ以外が驚いた。
顔を伏せた狼は気にせず、話を続ける。
「君に見つかるまで、自分からは何も言わない。関わらない。あの子の為には動くけど、君の為には行動しない。もう一度、君が同じ道を辿るか。それとも別の道を辿るか、見極める必要があって…ずっと、待っていたからさ」
顔を上げた狼は笑って、亜莉香を見て肩の力を抜いた。
何を言いたいのか。まだ分からない。小さな狼であり、凬の護人でもある奏での言いたいことに気付けない。それを察した声は、静かに亜莉香の耳に響いた。
「君こそ、砕け散った最初の繋がりを結ぶ者。我々が探していた希望の光。千年の時を経て、ようやく灯が見つけた唯一の存在」
話の途中で、息を呑んだのは透とネモフィルだった。周りの視線が亜莉香に集まっても、声を出せない。奏の伝えたい言葉の意味を理解するには、時間が必要だ。
呆然と立ち尽くすしかなかった亜莉香に、優しい言葉が添えられた。
「――初めまして、新たに王冠の役目を担う者」




