86-1 花筏薄氷
最初に瞳に映ったのは、深い森の色だった。
どこまでも続き、僅かな光しか入らない深い森の色。絨毯の柔らかさは靴越しでも伝わり、とてもふかふかだ。トシヤの足が止まれば、亜莉香も自然と立ち止まることになる。
そっと顔を上げると、ソファから立ち上がりそうになったツユと目が合った。
安堵の表情を浮かべたツユの傍にはミスズが控え、こちらも肩の力を抜く。生成りのテーブルを挟んで座っているシンヤは立ち上がる素振りなく、亜莉香を見て笑いかけた。そのまま何も言わずに紅茶を飲み、一人優雅に寛ぐ。
部屋の中にはロイの姿もあった。ソファの後ろに控え、紅茶の支度を整える。
先に姿見を越え、ルカの手を引いたルイがツユの隣に座った。トウゴは座らず、ロイの手伝いに向かった。トシヤがシンヤに脇に行き、亜莉香もソファに腰を下ろす。後ろから付いて来たピヴワヌも座ろうとすれば、四人で座るには狭かった。それなのに無理やり押され、ぎゅうぎゅう詰めで肩身が狭くなる。
「小僧、もっと詰めろ」
「無理」
「あはは、狭くなったな」
奥へと追いやられたシンヤだけが楽しそうで、愉快に笑った。
狭いなら、と亜莉香が立ち上がろうにも動けない。トシヤとは手を繋いだままで、前に乗り出すピヴワヌが邪魔をする。
首だけを動かし、歩いた道を振り返った。
里と繋がっていたのは、一枚の絵画。
その絵画に描かれているのが、長老の家にあった姿見。瓜二つとも言える姿見は原寸大で描かれ、周りの部分は空白だった。姿見の鏡部分が仄かに白く光ったままで、小さな一部の欠片が真っ白。
その姿見から次に姿を現したのは、ウイとサイ。
鴉の姿をしていたはずのウイも人の姿になり、頭を抱えながら境目を越えて来た。サイは平然とした態度で現れ、集まっている面々を見るなり、にやりと笑う。
「さて、これだけが集まって。また何か楽しいことでもするかい?」
「阿呆。そんなことせん。さっさと好きな所に行け」
「そんなこと言わないでよー、ピーちゃん」
ピヴワヌの名前を呼びながらも、ソファの後ろに回って抱きつかれたのは亜莉香で変な声が出た。前に倒れそうにもなる。サイまで亜莉香の後ろに回り、ソファの背もたれに座るようにして立った。
人数が増えても、ロイは慣れた様子でティーカップを個人に配る。
それぞれに配られたのは、桜の花びらが浮いた紅茶。熱く白い湯気が揺れる。亜莉香の分はテーブルに置かれ、ウイに抱きつかれた状態では飲みにくい。手を付けられずにいれば、腰を上げたピヴワヌがウイを引き離してくれ、トシヤと繋いでいた手も離れた。
ティーカップは軽く薄く、真っ赤な苺と兎の柄。
視線を巡らせると、それぞれ柄が違った。葡萄と鹿や林檎と熊。無花果と猫や梨と子犬に、桃と猪など。よく分からない組み合わせばかりであるが、どれも可愛い絵柄。
誰もが一息ついたところで、絵画を振り返ったサイが問う。
「それにしても、良い絵を描いたな。誰が描いた絵だ?」
「絵の才能があったのは、そこにいるロイだ」
「恐れ入ります」
シンヤに名前を呼ばれ、後ろに控えているロイが、丁寧に頭を下げた。
ティーカップを掲げるようにして見せたのはサイで、サイの隣に腰かけたウイが尊敬する眼差しを向ける。
「凄いね。こんなに綺麗に絵を描いた人に出会ったの。かっちゃん以来だよ」
「お主らの主は、絵が上手かったのか?」
「まあね。かっちゃんは手先が器用だから、この部屋の天井絵の一部も手がけているし。絵を描くのも、手妻も得意だよ」
紅茶を飲みながらサイが言い、ミスズは質問をした。
「手妻とは、手品と同義ですよね?」
「そうそう。白い半紙を破って蝶を作ったり、着物の袖から物を取り出したり。紙で作った人形が一人で動かしたり、そのまま姿を消して帰って来なくなったり」
「そうだった。そうやって二十年前、私達の前から姿を消したきりだったの」
「まあ、紙鳥を寄越すぐらいだから元気だろうさ。僕達に指示を出すのだから、そう遠くない場所にいる筈だろ?」
ウイの顔が曇った。気にするな、と言いながらサイがウイの肩を叩いた。
あまり後ろを向いていると首が痛くなるので、亜莉香は視線を前に戻す。基本的に沈黙を貫くロイが、今度は紅茶ではなくケーキを配った。
そのケーキの皿も、ティーカップと同じ柄。
配られたケーキは同じかと思えば、それも全て違う。
深い紫の葡萄が乗ったタルトに、煮込んだ林檎のタルトタタン。無花果のソースを添えたヨーグルトケーキに、洋梨を上に飾ったパイ。大きな桃の入った蒸しケーキなど。
誰も文句を言わないし話題にしないが、ケーキの種類が多い。
亜莉香の前に置かれたのは、シンプルな苺のショートケーキだった。
我慢しようと思ったが耐え切れず、フォークで一口分をすくい、口に入れる。甘酸っぱい苺に、柔らかいスポンジケーキ。生クリームは甘めで、スポンジケーキとの間に苺のソースが入っていた。
見た目も綺麗で美味しいケーキに頬が緩み、美味しい、と本音が零れる。
隣ではピヴワヌが、あっという間に葡萄のタルトを食べ上げた。もう一口、と食べようと集まっている視線に気付く。精霊以外から向けられているのは、何やら温かな視線であり、トシヤと目が合うと恥ずかしくて頬が熱くなる。何もしていないはずなのに、隣にいることを意識してしまった。
フォークを口元まで運んだ状態で、亜莉香は首を傾げる。
「…えっと?私、何かしました?」
「いや、食欲があるようで良かった。暫く甘いものを食べていないだろうから用意してくれと兄さんから頼まれた時は驚いたが、用意したかいがある。普段は少食だが、甘いものなら何でも食べるというのは、あながち間違いではないようだな」
代表して答えたのはツユだった。心の中で余計なことを言った透を恨む。
言われて見れば、まだ昼食には早い時間。ケーキに手を付けていたのは亜莉香とピヴワヌだけ。ティーカップを片手に一人立っていたトウゴが笑いを耐え、紅茶を零しそうになっていた。
深く同意したシンヤが、ティーカップを片手に言う。
「何が食べたいか分からなかったのでな。ピヴワヌ殿もいることだし、色んな種類をホールで作らせて良かった」
「それで、これだけの種類が並んでいたわけか。何か企んでいるのかと疑ったよ」
「それなら安心して食べられるな」
ルイとルカまで言い、何も疑わずに食べた亜莉香の恥ずかしいが増す。せめて食べる前にケーキの種類を話題にすれば良かったと後悔しつつ、ケーキを食べる。
ピヴワヌの前に、すかさず次のケーキが運ばれた。
生クリームが添えられているのは、スライスした檸檬のケーキ。
何種類のケーキがあるのか。
ちらりとロイの顔を伺えば、優しい笑みを返された。
「お好きなだけ召し上がり下さい」
それを言われると、頷くしかない。せめてゆっくり味わおうと、苺のショートケーキを口に含んだ。何度食べても美味しくて、亜莉香の口元が緩む。
亜莉香の後ろでは、ウイが喜んでケーキを貰い、サイは遠慮していた。ルカはケーキを食べるが、ルイは手を付けずに皿ごと隣に回す。ケーキに手を付けないのはトシヤやシンヤ、ツユも同じで、それらの皿はロイ経由で亜莉香とピヴワヌの前に並ぶ。
こんなには食べられないと思いつつ、美味しそうなケーキばかりだった。




