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Last Crown  作者: 香山 結月
序章 薄明かりと少女
43/507

09-4

 コウタの家を出たのは、お昼過ぎ。

 アンリへの手紙を書き終わる頃に、ようやくムツキは探していたものを見つけた。お昼をご馳走になり、亜莉香は家に帰って、ケイに頼まれていた着物を仕立て終えた。

 本来なら昨日の夜に終わるはずだった着物は、夕飯の騒動のせいで時間がなく、あと少しと言うところで終わらせることが出来なかった。三十分弱集中して、出来上がった着物を持ち、亜莉香は再び家を出る。


 日差しが眩しいくらい太陽は輝き、青く澄んで、晴れた青空だった。

 あと数日で、水張月が終わり、七夜月になる。

 七夜月に近づいているおかげで、雨が降っている日は段々と減っている。夏になると、ガランスの隣の大きな町、瑞の土地のセレストで風船祭りがある、と前に聞いた。


 夏が終わって秋になればガランスの灯籠祭り。今から楽しみにしている亜莉香は笑みを浮かべて、足取り軽く市場の中を歩く。


 顔を上げて市場を歩けば、いつの間にか顔見知りが増えていた。

 八百屋に豆腐屋、米屋に魚屋、和菓子屋や行きつけの喫茶店、ケイの店。人づてに出会い、出会った多くの人々は、顔も名前もしっかりと覚えた。


 吉高亜莉香と呼ばれることはなく、ただの亜莉香として名前を呼ばれる。


 名前を呼ばれることがどれだけ嬉しいことなのか、知っているのは本人だけで、誰かに言うつもりはない。嬉しさを隠しながら、亜莉香は今日までの日々を振り返る。

 神社で初めてルグトリスに襲われたこと。

 魔法をこの目で見て、その存在を知ったこと。

 毎日が楽しくて、笑いが絶えなくて、時々泣きそうになって。ガランスに来るまで想像も出来なかった日々を送っている。それが嬉しくて、いつか覚めてしまう夢だとしたら、と考えると怖くなる。

 下ばかり向いていた日々は遠く、もう戻りたいとは思わない。


「早いな」


 何もかもが、と心の中で付け加えて、亜莉香は空を見上げた。

 呑気に歩いていると、目的地を通り過ぎてしまって、慌てて道を戻った。

 ケイの店は相変わらず繁盛していて、ガラス戸の中の店内は色鮮やかだ。ガラス戸を軽く叩けば、帳簿を眺めていたケイが顔を上げる。

 それを合図に、亜莉亜は引き戸を開けた。


「本日二度目になりますが、お邪魔します」

「着物を縫い終わったら、明日来る予定だったんじゃないかい?」

「その予定でしたが、早くケイさんに渡したいものがありまして」


 その前に、と亜莉香はケイの傍、畳に腰掛け、持っていた風呂敷を広げた。

 家で完成させた真っ赤な着物の赤は、深く上品な蘇芳色。黒みを帯びた赤色で、目立った柄はないが、角度によってはほんの少し色の違う蘇芳色の細かい柄があり、大きさからして男物。初めての練習用として手渡された布で、ケイに一から教えてもらいながら仕立てた着物を、ケイはじっくりと眺めた。


「どうですか?」

「うん、問題ない。縫い目も均等で綺麗に仕上がっているみたいだね。ちょっと、誰かに着せてみるか」


 ケイは手の空いた男性店員一人を呼び寄せた。何度か話したことのある、年上の男性店員がやって来ると、ケイは亜莉香の仕立てた着物を見せる。


「ちょっと、これを着てみてくれないかい?」

「いいですよ。羽織ればいいですかね」

「ああ、それでいい」

「あの、不手際な部分もあると思うので、出来たら人のいない場所で――」


 亜莉香が止める暇もなく、男性店員は軽く着物を羽織った。羽織った男性は少し驚いたように、着物を見下ろした。


「これ、着心地いいですね。俺が着ると少し小さいですが、縫い目も綺麗に仕上がっていて、反物自体も高級品でしょ?」

「まあね、随分昔に旦那に着せるために買った反物だから、そこそこ値はするよ」


 そこそこ、がどれくらいの値段なのか、亜莉香は分からない。

 黙って話を聞いていると、男性店員は着物を脱いでじっくりと眺めた。ケイと話をしながら、細かいところまで確認して、着物を畳の上に綺麗に広げて座り、亜莉香に微笑む。


「いつも、店主に縫い方を教わっていましたよね。まさか初めてでこれほどまで綺麗に仕立てるとは、思いもしませんでした」

「あ、いえ…」


 深々と頭を下げられ、亜莉香は驚いてケイを見た。

 ケイは男性店員の態度を見て、呆れながら話し出す。


「あんた達、アリカちゃんが縫えるかどうかで、賭けをしていただろ。これで、賭けの結果は出たのかい?」

「…ばれていましたか?」


 素直に賭けを認めた男性店員は、悪びれもない表情で顔を上げ、にっこりと笑った。亜莉香が他の店員を見れば、ケイと目を合わせないように、こっちを見向きもしない。

 ケイに隠れて賭けをして、その対象が亜莉香自身だっただけに、口を挟めない。

 男性店員は着物を畳みながら、嬉しそうに言う。


「賭けをしているのを知っていたのなら、店主も言ってくれれば良かったのに」

「馬鹿だね。わざと知らないふりして、最後までアリカちゃんには仕立ててもらったのさ。それで結果は?」

「三分の二が負けましたね。俺は勿論、勝ちましたけど」


 全く、と呆れた声で、ケイが言った。話を聞いている限り、三分の一も期待してくれていた人が居たのが事実。でも多数は縫えるとは思っていなくて、亜莉香は肩を落とす。


「私、期待されていなかったのですね」

「いや、そうじゃないとも言い切れないですけど。正直、誰も予想が出来ませんでした。店主自ら誰かに仕立てを教えるのは初めてのことで、最初はどうなるか予想していただけだったのが、途中から店員全員の大きな賭けになって…」

「気分を害したのなら、私から謝る。すまなかったね」


 ケイが頭を下げたので、男性店員も慌てて頭を下げる。

 謝罪をされるとは思っていなかったので、亜莉香はすぐに口を開く。


「謝らないで下さい。驚きはしましたが、気にしてはいませんので」

「それなら良かった。俺、今すぐお茶とお茶菓子持って来ます」

「その前に、着物を他の連中にも見せて来な。どうせ自分の目で確認しないと、納得出来ない連中だろう」


 亜莉香の言葉に胸を撫で下ろした男性店員は、ケイに言われた通り着物を持って、そそくさとその場を離れた。男性店員がいなくなり、亜莉香はケイに笑いかける。


「面白いですね」

「その一言で済むなら良かった。途中で止めようともしたんだがね、気付いた時には相当の賭け金を集めていたみたいで」


 ケイは店を見渡した。ぎくっと肩を震わせた店員数名に笑いを隠す。なるほど、と亜莉香は優しく言う。


「それで、賭けを見守ることにしたのですね」

「賭けが済めば、それで終わりだからね。無かったことにするより、早めに終わらせることにしたのさ」


 着物は、と言って、ケイは亜莉香を見た。


「持って帰って、トシヤに渡せばいい。これからも仕立てを頼むと思うが、今回の代金はこの着物で勘弁しておくれ」

「そんな…お代を払っていないのに、着物を持って帰ることなど出来ません」

「いいんだよ。元々あの反物は捨てるつもりだったんだ。それをアリカちゃん自身で仕立てただけ、次からは代金を貰うよ」


 それでいいかい、と問われれば、亜莉香が拒否する理由もない。


「分かりました。有難く、頂きます」

「その言葉が聞けて安心したよ。アリカちゃんには色々と世話になっているからね、賭けの一部は今度来た時に渡すよ」

「え…それは要りませんよ?」


 何故貰えるのか分からず、亜莉香は首を傾げた。ケイははっきりと言い返す。


「勝手に賭けの対象にされたんだ、その分のお金は貰うべきだよ」

「そうですね、私もそう思いますよ」


 ケイの言葉に同意して、お茶と和菓子を持って来た女性店員が言った。

 亜莉香より年上だけど若く、二十代に見える女性は何度か見かけたことがある。誰よりも華やかな花柄の、薄い紅色の着物。髪をまとめている女性は、亜莉香とケイの傍に腰を下ろし、お茶と和菓子を差し出した。


「内緒で賭けの対象にされたのだから、それぐらい貰っていいものです」


 どうぞ、と差し出された浅く広い湯呑は深い緑で、内側は薄い緑。湯呑の中は抹茶が入っていて、本日二度目の和菓子は朝の枇杷のゼリーとは違い、四角い水羊羹。

 三人分のお茶と和菓子を用意して、女性は亜莉香に向き直った。


「きちんと挨拶したことはないですよね。店主の孫、イトセです。因みにさっきの彼が、私の恋人です」

「イトセ、仕事は?」

「休憩時間です。それに私、一度はきちんと話したいと思っていたのに。いつもお婆ちゃんとばかり話していて、やきもきしていたの。今日ぐらい話をさせて」


 誰よりも早く湯呑に手を伸ばし、抹茶を飲むと、イトセは息を吐く。

 湯のみを置くと、一人分の水羊羹を盛りつけた小さな皿を左手に持ち、楊枝を使って一口サイズに切り分けた。その一つを口に運びながら、イトセは言う。


「お婆ちゃんったら、孫の私よりアリカさんを可愛がっているのよ。別にそれはいいけど、むしろ私のことは放って置いて欲しいけど。どんな子か気になっていたのに、話す時間さえ今日までなかったもの」

「イトセ、お客様の前だよ」

「あら、やだ。私、敬語で話していませんでした?」


 ケイに注意されて、イトセは口元を隠した。


「イトセさん、親しみやすい方ですね」

「そうなの。お客様にもよく言われて、イトセちゃん、なんて呼ばれるの」


 大きな咳払いに、イトセは肩を竦めて見せた。


「仕方がないでしょ?休憩中だと思うと、どうしても気が抜けちゃうの。これくらい許して、お婆ちゃん」

「挨拶したなら、さっさと戻りな。用事は済んだだろう」

「そうだけど…そうじゃないかな」


 お茶目に言ったイトセは、さて、と言って姿勢を正した。


「実はお客様にお願いしたいことがございまして。今月の末に行われる予定の、恒例の催しにご協力を得られたら、またその件に関して店主の許可を得られれば、と」

「あんた、それを頼もうとしていたのかい?」


 呆れた、と言ったケイが、湯呑を持って、口に運んだ。

 イトセは真面目な顔からお茶目な顔になり、話の分かっていない亜莉香に言う。


「催し、と言っても。季節ごとに行われる、着物の合わせのことなの。店の全員が集まって、流行りそうな着物や組み合わせを話し合うのだけど。その時に、誰か一人が着物を実際に着て、話し合いが行われるわけで、まあ誰でもいいのだけど――」

「誰でもいいじゃなくて、今回の担当はイトセだよ」


 説明の途中でケイが口を挟めば、イトセは頬を膨らませた。分かっている、と言って、ケイを苦々しく見る。それから話が読めない亜莉香を、まじまじと見た。

 上から下まで見ると、イトセは力強く言う。


「本当なら私だけど、やっぱり私も話し合いに参加したいの!それなら誰かに頼もう、なんて話になった時にアリカちゃんのことを思い出して。お願いします!」


 イトセに頭を下げられても、亜莉香は頷けない。

 よく分からない、と言うのが正直な感想で、言葉を選ぶ。


「えっと…私は話し合いに参加出来ませんよ?着物の知識なんてありませんので」

「話し合いは、むしろ何も言わなくていいの。黙って着物を着こなしてくれるだけで、それだけで十分です」


 駄目、と顔を上げて涙目で言われると、断りづらい。どうすればいいのか、と亜莉香がケイに視線を向けると、イトセもケイの方を見て両手を合わせて頼み込む。


「お願い、お婆ちゃんからも一言」

「アリカちゃんに頼みな。それより気になるのは、どうしてそんな話になったんだい?」


 ケイの質問に、イトセは言葉に詰まった。


「えっと…その…私が駄々を捏ねまして。担当だと話し合いに参加できる時間が減るし、実際に着るより全体のバランスを見たいし。その話を皆にしたら、アリカちゃんの存在が目に付いて」

「私ですか?」


 突然名前が出て驚けば、イトセは頷いた。


「だって、お婆ちゃんのお気に入りでしょう?それにその黒髪、珍しいだけじゃなくて着物の色が映えるから、さぞどんな着物でも似合うだろう、と」

「誰が言っていたんだい?」

「ほぼ、皆です」


 うぅ、と唸りながら、イトセは素直に白状する。

 イトセが頭を下げたので、ケイは呆れて質問をやめた。困った表情をしていた亜莉香を見て、申し訳なさそうに言う。


「断っていいんだよ。うちの子の、馬鹿なお願いだから」

「あ…いえ。私でも手伝えることなら、喜んでお願いを引き受けますが――」

「本当!」


 安易にお願いを受け入れた亜莉香に、イトセが顔を上げた。表情は明るく、亜莉香の両手を掴んで、力任せに上下に動かす。


「嬉しい!ありがとう!それなら今すぐ皆に言って来るわ」


 ありがとう、と繰り返したイトセは素早く立ち上がり、まるで風のようにいなくなった。イトセが他の店員に何かを話せば、その店員の顔も一気に嬉しそうな顔に変わる。

 亜莉香とケイが黙って見ていれば、目が合って頭を下げられた。手が空いた店員を片っ端から捕まえて、イトセが言いふらす様子に、ケイは視線を残っていた和菓子に戻した。


「あの様子だと、着せるだけじゃなくて髪もいじられそうだよ。いいのかい?」

「一日だけなら、特に気にしませんよ。飲み物、頂きますね」


 一言断って、亜莉香は湯のみに手を伸ばした。

 冷たかったと思われる抹茶はぬるくなっているが、喉を潤した。一息、深呼吸をしてから、亜莉香はケイに微笑む。


「イトセさん、素敵なお孫さんですね」

「そうでもないよ。毎日五月蠅くて、こっちは呆れてばかりさ。なんであの年ごろで、あそこまで五月蠅い子に育ったのか」


 深くため息を零したケイが、水羊羹に手を伸ばす。

 イトセと同じように楊枝で一口サイズに切って食べる様子を真似して、亜莉香も水羊羹を食べる。先に食べ終わったケイが、今日は、と話し出す。


「着物を届けに来ただけ、だったかい?」

「それも用事の一つで、実はもう一つ早く届けたいものがありまして」


 亜莉香は袖に隠していた物を取り出した。

 アリカに頼んで用意してもらい、コウジとムツキ経由で受け取った物をケイに差し出す。レースの小さめな布で包まれた中身を、亜莉香はまだ確認していない。


 亜莉香の目の前で、中身を開けてもらった。


 中から出てきたのは、漆黒の丸い卵のような小箱。

 牡丹の花が描かれて、金の装飾が施された小箱に手を伸ばし、ケイはそっと箱を開ける。

 箱を開けた途端に、仄かで上品な匂いがした。亜莉香は嗅いだことのない匂いだったが、ケイは驚き、亜莉香と小箱を見比べる。


「アリカちゃん…これは?」

「アンリちゃんにぬいぐるみを直すと約束した時に、お礼の代わりにお願いをしたのです。アンリちゃんのお母さんが渡したはずの匂い袋の匂いが消えてしまったから、もう一度その匂いが欲しい、と。あ、別のお願いをすれば良かった――」


 ですか、と尋ねる前に、ケイは小箱を両手で包んで、匂いを嗅いだ。

 何も言わずに、静かに一筋の涙を流すケイを、亜莉香は黙って見守る。


「この匂いで合っていますか?」

「合って、いるよ。私の好きな匂いだ。駄目だねぇ、年をとると涙もろくなってしまう」


 掠れた声でケイは言い、顔を下げた。

 きっと誰もケイが泣いていることなど気付いてない。慌ただしい店内は、イトセに視線が集まっていて、誰も亜莉香とケイの方を見ていない。

 アリカちゃん、と名前を呼ばれた。


「よく、こんなお願いをしたね」

「何となく思い浮かんだら、アンリちゃんにお願いしていました。ずっと大切にしていた匂い袋に匂いがないのは、ずっと気になっていたので」

「そうだね。大事な匂い袋だったから、ずっと持ち歩いていた。匂いがなくなっても、持ち続けていたんだ」


 ケイは胸元に入れていた匂い袋を取り出した。

 小箱の中の匂いの元は、綿につつまれたお香。震える手で匂い袋を開き、綿ごとお香を入れようとしたので、亜莉香は余計なお世話と知りつつ、手を伸ばす。


「手伝います」

「お願い出来るかい?」

「はい、任せてください」


 ケイの手から匂い袋を受け取って、そっとお香を中に入れた。中身はすぐに取り出しが出来るように紐が付いているので、しっかりと結んでケイに戻す。

 そっと匂い袋を抱きしめたケイは、声を絞り出す。


「ありがとう、アリカちゃん…本当に、ありがとう」


 どういたしまして、と言った亜莉香の声は掠れた。

 見えない縁を繋げた気がして、誰かの役に立てたのだと実感が湧いて、どうしようもなく胸が温かくなる。アンリにも早くぬいぐるみが届くことを祈り、ケイが落ち着くまで、亜莉香は黙って、残っていた抹茶を口に運んだ。

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