85-3
開いていた黄瀬の家の扉を越えた瞬間、何か違和感を覚えた。
囲炉裏の傍に、人がいるのは問題ない。座布団の上に座って湯呑を持って、真顔でお茶をすすっている黄瀬は不自然だ。その腕に上機嫌でしがみついているのがネモフィルで、美女とも言える姿で胸を押し付けるようにして黄瀬にくっついている。
よく見れば、近くには見たことのある着物と帯。
その着物と帯は、元々は亜莉香の物だった。色々な事情があり、ヒナの元にあったはずのもの。特に酷い有様だったのは着物の方で、帯には色んな薬や液体が染みこんでいたことを、何故か今になって思い出す。
着物と帯の存在。
それからネモフィルが黄瀬にくっついている状況が、凄く違和感。
二人の仲が良かった記憶はない。黄瀬の傍に居るだけで幸せいっぱいのネモフィルの姿は初めて見て、真顔の黄瀬との温度差が激しい。
「何故?」
「何故だろうな」
亜莉香の疑問に答えたのは、壁に背を預けて腕を組んでいたトシヤだった。その頭の上には小さく白い兎であるフルーヴがいて、はわー、とよく分からない声を出す。どちらも視線は黄瀬とネモフィルに向けたまま。
トシヤが呆れ果てた表情をして言う。
「俺とトウゴ、黄瀬とフルーヴが家に帰って来た時は、こんなじゃなかった。ただ精霊達が一塊になって何かを企てている最中だったけど」
「…けど?」
「その途中で乱入者が現れて」
トシヤが深いため息をついた。
乱入者のことを聞き返す前に、フルーヴが亜莉香に首だけ向ける。
「ヒナが来たの」
「ヒナさんが?」
「うん。わすれものって、おいて言っていたの」
あれ、と言ってフルーヴが見たのは、間違いなく着物と帯。それが指し示すことを考えると導き出される結論があり、亜莉香の頭が痛くなる。
「もしかして…あの帯が関係していますか?」
「多分な。あの帯を調べようとしたネモに、喧嘩を売ったのがピヴワヌ。その喧嘩を止めるのでなく仰いだウイとサイ。その勃発した喧嘩の最中に、転んだネモの顔に帯が巻き付いたと思えば、何かを察した精霊達が黄瀬を突き出して。この状況」
分かりやすい説明に反比例するように、亜莉香の頭は痛くなる。
置いていったというのだから、今頃ヒナは近くにいない。それは全く問題ない。問題なのはネモフィルの顔に帯が当たった、という事実。
因みに精霊達は、とトシヤは付け加える。
「逃げた」
たった一言を理解するのに数秒かかり、ゆっくりと繰り返す。
「逃げた、のですか?」
「全力だったな。兎と鴉二匹が。トウゴが捕まえて来るとか言って出て行ったけど、帰って来やしない。黄瀬はネモに言い寄られる事態に途中から耐え切れなくって、ここ数分無言。二人きりにしたら許さない、なんて最初に言われたから俺は残ったけど――」
どこか遠くを見るトシヤの眼差しは、黄瀬とネモフィルを映しつつ見ていない。
「俺、無関係だよな」
ごもっともの意見に、亜莉香は素直に同意した。
どちらかと言えば、その場にいなかった亜莉香の方が関係者だ。帯の持ち主は亜莉香で、ネモフィルの現状を作り出したのは契約しているピヴワヌ。
誰かに助けを求めたくなれば、腕の中にいた梟が口を挟んだ。
「あの帯って、どんな魔法がかかっているの?」
「魔法と言えるか分かりませんが。ただの唐辛子入りの液体と身体が痺れる薬と、若返りの薬と惚れ薬が混ざっています」
嘘をつく必要などないので、即答した。魔法薬まで混ざり染み込んだ帯の対処法を、亜莉香が知るはずない。このままにはしておけず、何か知っているのかローズに少し期待した。
ふーん、と興味が湧いたのか分からない声を出したローズは、亜莉香の腕から飛び跳ねた。そのまま黄瀬の元に辿り着くなり人の姿に変わって、空いていた片側に座り込む。
ネモフィルとは違い平らな胸を押し付け、にやっと笑った先の視線は黄瀬。
「黄瀬ちゃんったら、私という存在がありながら酷い!」
演技がかった台詞に、吹き出したのはお茶を飲もうとしていた黄瀬だった。咳き込む黄瀬をお構いなしに、ローズが詰め寄る。
「昔は一緒に寝たり、お風呂に入ったりしたのに。私のことは遊びだったの?」
「ちょっと、ローズ。二人の時間を邪魔しないでよ」
「いいじゃない。私だって黄瀬ちゃんのこと大好きだもの。それこそ遠い昔から――」
喋り出したローズの口は止まらず、もう誰も止められなかった。
ネモフィルが悔しそうに言い返せば、ローズも負けないように過去を語る。それが本当にあったことか分からない。もう勝手にしてくれ、と物語る黄瀬は胡坐をかいていて、片肘を足に乗せ、頭を抱えた状態で項垂れた。
亜莉香やトシヤが入れる隙などない。
トシヤの横にずれ黙っていれば、遠慮がちに花の腕輪が話し出す。
「私も行って来ていい?」
「どうぞ――あ。こちら、蕾ちゃんです」
言い争いが激しくなっていく傍らで、亜莉香はトシヤに言った。
花の腕輪は淡く光る。瞬く間に人の姿に変わった蕾がトシヤに一礼して、恥ずかしそうに黄瀬達の元に向かう。
「何でもありだな」
トシヤの呟きは、亜莉香も思ったことである。
騒ぐ二人には目もくれず、黄瀬の目の前に蕾がしゃがんだ。また誰か来たと顔を上げた黄瀬の瞳に、可愛らしく首を傾げた蕾が映る。
数秒見つめ合ったのち、蕾が小さな声で訊ねた。
「私のこと、覚えている?」
「…いや?」
「そう」
蕾に耳があったら項垂れていたのかと思う程、しょんぼりと肩を落とした。傍で言い争いをやめない二人の精霊とは違う雰囲気に、黄瀬が僅かに戸惑う。
トシヤの頭の上で静かにしているフルーヴは、蕾の存在を不思議そうに見ていた。亜莉香もトシヤも、蕾が次に何をするのか行動を読めない。段々と熱くなっていくローズとネモフィルの声だけが土間に響き、俯いていた蕾が勢いよく顔を上げた。何事かと口を開こうとした黄瀬の首にしがみついて、騒いでいた二人に言う。
「二人共、私の子供を苛めないで」
放たれた声は鈴の音のような可愛さあったが、その場を静めるには十分な内容だった。普段の雰囲気ではあるものの、蕾は頬を膨らませる。
「ろーず、ちゃんも。もう一人さんも。黄瀬ちゃんは私の子供だから、これ以上、嫌がることをしないで欲しいの」
「ツボミちゃん…育て親は私のようなものだよ?」
「関係ないの。黄瀬ちゃんは私の子供なの」
断言した蕾の言った意味を、知っていたのは黄瀬から離れないローズだけ。
ローズ以外の頭に疑問が浮かび、黄瀬に至っては思考が追いつかずに表情が固まった。蕾の顔すら知らなかった様子で、衝撃的な発言に最早何も言えない。
「えっと、貴女の子供なの?」
「そう。百…三百年前に、産んだ子供?私が産んだのだっけ?」
困惑したネモフィルが訊ねると、必死に過去を思い出そうとする蕾は声を絞った。ローズは平然と情報を正す。
「どれくらい前なのか私も忘れたけど。間違いなく、ツボミちゃんの子供だよ。もしかして黄瀬ちゃんに会いたくて、ご神木から離れたの?」
「そういうわけじゃないよ。綺麗な花が咲いている場所があるって、ご神木が教えてくれたから。たまには出歩いてみようと思っただけ」
「それって、近くの山の菜の花畑かしら?それとも、今満開の桜のことかしら?」
ネモフィルの興味が削がれ、会話に混ざる。精霊とは言え、女性にしか見えない面々に囲まれたままの黄瀬の眉間に皺が寄り、遠慮がちに頼んだ。
「俺から離れて喋ってくれない?」
花の話から、美味しいお菓子の話にすり替わる。誰も黄瀬の話など聞いてない。
お調子者のローズは嬉々として語り、ネモフィルは馬鹿にしつつも豊富な知識を披露する。何でも受け入れる蕾が笑い、黄瀬が亜莉香やトシヤに無言で助けを求める。
助けを求められても、ネモフィルの異常事態を治す術が分からない。
このまま会話してくれていた方が平和なのではないか、とさえ思い始めた。それはトシヤも似たようなものらしい。黙っている横顔を盗み見れば、視線を感じたのか目が合った。
お互いに反射的に微笑んで、今朝からの行動を思い出した亜莉香は恥ずかしくなる。二人きりではないし、トシヤの頭の上にはフルーヴもいるのに、傍に居るだけで心臓が五月蠅い。黄瀬の方に視線を戻すふりして俯いた。
熱くなった頬を見られまいと思ったが、耳まで赤くなっていたに違いない。トシヤの笑い声が微かに聞こえ、恥ずかしさが増す。黄瀬とは違った意味で動けない。
周りの音を聞かないように意識した。
亜莉香が土間の端で静かにしていれば、扉から誰かが顔を出す。
「うわ、また人増えてない?」
「誰だよ、あれ」
楽しそうなルイと呆れたルカの声がして、亜莉香は急いで顔を上げた。二人と目が合って、どちらも片手を上げる。もう片手にはどちらも野菜を抱えていて、亜莉香の後ろからトシヤが話しかける。
「お前ら、長老の家で休憩するとか言ってなかったか?」
「休憩していたよ。その途中で八重さんが来て、夕飯をどうするか聞かれたわけ。黄瀬の家で食べると答えたら用意してくれるって話になって、材料を運ぶのを手伝っていただけ」
「精霊も含めたら大人数だよな」
「本当、本当。それも食べるだけの精霊ね」
「それはルイも同じだろ」
明るく軽い会話が居心地よく飛び交い、亜莉香の肩の力が抜けた。
白菜や大根、南瓜に人参、色鮮やかで新鮮な野菜が沢山。寒い冬なら囲炉裏を囲って鍋も美味しいが、それにしても人数が多すぎる。そもそも鍋一つでは足りないだろう。
鍋は汁物として、とろけるぐらい白菜を煮込みたい。大根は焼いて味噌を付けて食べても美味しいし、細く細かく切って軽く味付けすればサラダ代わり。甘い南瓜の煮物や、人参を使ってお菓子を作ると精霊達が喜ぶはずだ。
ふむ、と野菜を見て夕食を考える時間は懐かしい。
何を作るとしても、夕食を用意すると言っている八重を手伝おう。今度こそ役に立とうと一人決意すれば、立ち止まっていたルカとルイの後ろから八重が顔を覗かせた。
「止まってないで中に入ってくれない?」
素っ気なく言った八重が言い、その瞳に土間の現状を映した。
美女と美少女達に挟まれた黄瀬の顔が、真っ青になったのは一瞬だ。真顔になった八重の表情から色が消え、野菜が入っていた籠ごと手から落ちる。
ルカとルイは両脇にどけたが、八重は涙を浮かべて一歩下がった。
黄瀬の傍に居た精霊達は八重を振り返り、何事かと首を傾げる。
「邪魔して、ごめんなさい」
「――誤解だ!八重、ちょ!八重!?」
小さく謝った八重が踵を返して駆け出した。焦った黄瀬の声など届かず、大半が同情とも言える視線を黄瀬に向ける。
伸ばそうとしていた手は、宙で止まっていた。
寧ろ黄瀬まで泣きそうで、ルイが代表して提案する。
「追いかけなくていいの?」
その一言が合図となって、瞬く間に精霊を振り払った黄瀬は立ち上がった。誰も引き止めることなく駆け出し、八重の名前を呼びながらいなくなる。
いなくなった二人について、察することが出来なかったのはフルーヴぐらいだ。
ふざけて黄瀬に絡んでいたローズは腰を下ろして、惚れ薬が全面に出ているせいで通常ではないネモフィルは座り直してすすり泣く。泣いているネモフィルの頭を撫でて慰めるのは蕾で、よしよし、と言いながら膝立ちしていた。
外に出て行った二人ではなく、精霊三人を見てからルカが問う。
「――で?」
「なんか、変な空気?」
ルカに続いて、ルイも言った。
精霊達が亜莉香達を気にしないので、声を潜めて説明する。
「何故か…ネモフィルが黄瀬に惚れてしまい、その原因を作った精霊達は逃亡中です。トウゴさんが探しに行ったのですが、まだ帰って来ていません。そうこうしている内に、ローズさんを含む精霊三人に囲まれた黄瀬が八重さんに目撃され現状になった、と言えるかと」
「「それは酷い」」
ほぼ同時に言われ、亜莉香は頷くしかなかった。
因みに、とトシヤも言う。
「もう一人いる奴。彼女も精霊で、黄瀬の母親だとさ」
「ネモフィルは惚れ薬で惚れているだけで本心ではありませんし、母親である蕾さんは久しぶり我が子に会えた喜びで黄瀬の傍に居ましたね。ローズさんも本気ではないでしょうが、とんでもない修羅場とも言えました」
「しみじみ言うなよ」
野菜を持ったルカは言い、ルイは開いていた扉から外を振り返った。
黄瀬の家からなら、里の様子がよく見えるに違いない。何だか面白いものでも見つけたようで口元が緩み、ルカの肩を叩く。
「畑の中心で愛を叫んでいる人がいるけど…面白過ぎない?」
ルイの言葉が気になって、亜莉香もトシヤも外を覗いた。
里の人や警備隊がいる中で、黄瀬が八重の腕を掴んで必死に訴えている。その内容は間違いなく先程の件についてであり、一向に信じない八重は泣きそうになるばかり。
時々、黄瀬は真っ直ぐな気持ちを八重に伝える。
それすら信じてもらえず、里の人達の生温かい視線の中で二人の言い争いが続く。警備隊の人達は最初こそ驚いていたが、気にしないように言われたようで里の修繕を再開する。
傍には木蓮や葛の姿もあり、大人達に耳を塞がれていた。




