85-1
昨晩は空に月が昇るまで、ぐっすりと眠ってしまった。
挙句の果てにはトシヤと手を繋いでいた、というのだから恥ずかしい。起こしに来た面々が部屋に来るまで、一回も目が覚めなかった。寝ぼけたトシヤが布団を半分かけていた、とまで言われた。先に起きたトシヤには寝顔を見られたこともあり、恥ずかしさは増すばかりで消えない。熱くなった頬の熱が冷めるまで、亜莉香は抱きしめている梟に顔を埋めながら歩く。
「んふー」
「アーちゃん…奇声は聞き慣れたから落ち着いて」
顔を埋められた白い梟の声に言われ、ハッとしたのは一瞬だった。
寝起きでトシヤに笑いかけられたことを思い出すと、どうしても顔が赤くなる。ぬいぐるみ感覚でローズを抱きしめ、分かっています、と呟き返すのも数回目。
「これは本当、使いものにならないね」
深いため息をつかれるが、事実なので言い返せなかった。
亜莉香の傍に居るのは、梟の姿になっているローズだけ。亜莉香が歩いているのは日中の森の中であり、所々に太陽の日差しが射し込んで明るい。
雪に覆われ静かだった森では、今や新緑が溢れ、風で葉が揺れる。爽やかな空気が漂い、風の音も、鳥の鳴き声もよく響く。足元の雑草ですら元気に成長する兆しがあり、木々の根元から新しく芽吹く命がある。
前回、ご神木を訪れた道は見違えた。
春を取り戻したのは里だけの話ではなく、近隣の森も同じ。
小さな精霊達に道案内されながら、亜莉香はローズと一緒に進む。正確に言えば、使えないとか、無能とか。散々言われた挙句、ローズと一緒に里を追い出された。
冷静になって振り返ると、確かに意味不明な行動をしていた。
朝ご飯を手伝うと八重に名乗り出て、堂々と砂糖と塩を間違えた。包丁で手を切りそうになったり、調味料を入れる分量を量り違えたりは序の口。
階段を踏み外して落ちそうになったり、小さな石で転びそうになったり。トシヤを意識し過ぎた挙動不審な行動を多々目撃され、ピヴワヌとネモフィルに呆れられた。
それだけでは終わらない。明日には里を出ると決まったので、里の修繕を手伝おうとすれば断られた。多くの人に休むように諭され、仕方なく里の外でぼんやりすれば、小さな精霊達に囲まれ、よく分からないまま里の中の人間関係を聞かされた。精霊達の知る秘密や隠し事をばらされていると黄瀬が悟るなり、即座に家の中に放り投げられた。その様子を見ていたウイとサイは腹を抱えて笑い、亜莉香が聞いた以上に面白おかしい話を探しに行った。
何故か亜莉香のことは敬う里の人達と、ルカとルイは仲良くなっている。
昨晩だって亜莉香は黄瀬の家に泊めさせてもらったが、狭いと言う理由で二人は長老の家に泊まった。長老と奥さんと楽しそうに話しているのは確認済みで、他の里の人達とも他愛のない話をしていたのも確認済み。
トシヤとトウゴ、フルーヴは黄瀬の家にいたが、朝早くから畑仕事に駆り出された。体力があるだろう、という理由で。亜莉香の傍にいようとしたトシヤは無理やり、トウゴは嬉々として付いて行った。トシヤがいない場所の方が正常に行動する亜莉香だと判断したのは八重で、行け、と命令した表情は冷ややかだった。
透とシンヤは一部の警備隊の人とシノープルに戻ったので、今日は姿を見ていない。他にやることはないかと訊ねた結果、ローズがご神木に会いに行こう、と提案した。
いつもならついて来るピヴワヌは、野暮用があると言っていた。ネモフィルやフルーヴ、ウイやサイまで巻き込んで何かを企んでいた様子で、その内容を亜莉香は聞いてない。
内容を聞く前に、ローズと一緒にご神木を目指している。
仲間外れにされ、一人にさせられない亜莉香を押し付けられたローズは、最初こそ不貞腐れていた。段々と亜莉香の奇声に慣れ、これは目が離せないと結論を出され、大人しく亜莉香に抱えられている。
他の精霊に比べ、白い梟は丸くて大きい。頭の上でも、肩の上でも邪魔だったから持ち直すしかなかったのが本音ではある。
「ローズさんは、人の姿より梟の姿の方が好きなのですか?」
「そんなことないかな。どっちの姿も嫌いじゃないよ。人が溢れる街なら人の姿でいる方が紛れられるし、里や森なら梟の姿の方が馴染む」
不意に訊ねた質問にローズは素直に答えた。ほくほくと楽しそうな言葉が続く。
「どっちか片方、なんて私は考えていないのね。時と場合を見て考え、その都度で姿を変えることにしているの」
小さな精霊達に導かれながら、進む道は静かになる。
腕の中のローズの話し方も、いつもの雰囲気を潜めた。
「折角精霊として生きて、人にも梟にもなれるのに、片方だけに偏るのは愚かだと思うの。片方ばかりで見ていると、もう片方が疎かになるでしょ。本当は、そのどちらの見方も大事だと忘れたくない」
はっきりと断言した瞳は、真っ直ぐに前だけを見据える。
「何事にも裏と表があるように、私にとって二つの姿は手離せない裏と表。それでいいじゃない。誰にだって裏と表があって、ウイとサイの存在も同じことが言えるわけ。防御と攻撃、未来と過去、本人達が気付いていないだけで全てが均等。どちらが消えても成り立たない」
「それなのに、サイさんを切り捨てるような嘘を?」
「あれは、いい薬になったでしょ?」
楽しそうに笑ったローズは上機嫌だ。
「いつも心を隠していたサイが本音を晒す。都合の悪いことに向き合わなかったウイが現実に向き合う」
二人だから、と呟いたローズの言葉は、宙で消えた。
目の前で飛び交う色の違う小さな精霊の光を、ローズが目で追って微笑む。
桃色と緑。似てない二色の精霊は笑いながら、こっちだよ、と先に進む。他の精霊もいるのに目もくれず、ただただ二つの色を瞳に映して、この場にいない人達を想って話す。
「二人だからこそ、足りない部分を補え合える。ウイとサイが私の跡を継いでくれて、本当に良かった。おかげで私は心置きなく――…」
最後の声は風に消され、亜莉香の耳に届かなかった。
着いたよ、と耳元で精霊の声がして、ご神木へ続く木の根元に到着していた。空洞を見るなり歓声を上げたローズは羽ばたき、一足先に入る。置いていかれないように亜莉香も足を踏み出し、根が絡み合った階段のような場所を下りる。
ご神木である大樹は、前回と変わらずに存在していた。
空から降って来る雪はなく、代わりに降り注ぐ太陽の光で輝いて見える。黄金や虹色の細かな結晶を纏い、天井から覗くは晴天。外の温かな空気が天井の丸い穴から巡り、きらきら輝く大樹は幻想的で美しい。
どんな小さな枝も、折られて落ちてはなかった。
青々と覆い茂る葉ですら一枚も落ちてもいない大樹の姿に、亜莉香は安心する。
「良かった」
「あれ?もしかして、ご神木の心配していた?」
先に大樹の根元にいたローズが振り返り、梟の羽を大きく広げながら言った。
「ええ…折れたと伺っていたので」
「新芽があれば枯れても元に戻るし、そもそも枝ぐらいなら折れても大丈夫だよ。その都度精霊達が掃除をするし、私なんて梟の姿で何回も枝を折っているもの」
あはは、と笑い事ではない話を聞いてしまった。
何度も折ったと言われるとは思っていなくて、ローズのように笑えない亜莉香も、大樹の幹に近づく。ローズは羽ばたき、数メートル頭上の枝まで飛んだ。
大樹の手前に立ち、そっと右手を伸ばす。
まるで亜莉香の存在に気が付いたように一斉に葉が揺れ、ローズも大樹を見た。
「うん、彼女だよ」
亜莉香には聞こえない声に返事をして、ローズは言う。
「心配しなくても、もう大丈夫。全てが上手くいったから」
淡々と答えた瞬間、梟は人の姿に変わった。幹に寄りかかるようにして、枝に座っているのは一人の少女であり、ローズである。新緑の髪は葉に紛れ、着物も帯も深い緑。裸足の足は宙に浮き、瞳を閉じて黙り込む。
大樹とローズが話しているような空気を感じ、亜莉香は手を引いた。
木々の葉が順番に揺れる。揺れる度に太陽の光を反射して、揺れる音は何かの音楽を奏でているように聞こえる。
耳を澄ませば、どこかで聞いた旋律だ。
遠い昔の記憶の中。懐かしさを含む旋律は、亜莉香の記憶の欠片の中にある。光の王冠、三つの宝石、闇を払って、平穏が訪れる。どこかで聞いた唄の続きを、木々が唄う。
「最初に現れたのは、光だったの」
いつの間にか瞼を閉じていた亜莉香を見下ろして、ローズはそっと語り出した。
「その光は三つの宝石で、分け与えたのは今亡き精霊達。それぞれの宝石に清める力と平穏を護り続ける願いを込めて、当時の王に託した。託された王は金の王冠を作り、宝石に秘められた力を一つにしたの。その力を借りて、闇に飲み込まれそうだった国を救った。代々引き継がれた王冠は願いの続く限り、その役目を果たし続けた」
亜莉香の瞳に、悲しそうに微笑むローズが映る。
どこで聞いた唄を思い出せない。
「けれども、ある時に願いが途絶えた。王冠を持つ者が願ったのは国の平穏ではなく、破滅。破滅を願った者によって生まれた闇を、宝石の中に宿っていた光は拒絶した。光と闇は相容れない。闇は光を呑み込もうとして、光は闇を弾こうとして。宝石を繋ぎ止めていた王冠は、二つの強大な力に耐え切れずに砕け散った」
耳の奥で、何かが砕ける音がした。
空耳にしては鮮明な音。ローズの話を聞いていると心臓が痛くなって、亜莉香は両手を握りしめていた。いつの間にか鼓動が速くなって、息が上がりそうになる。
一呼吸を置いたローズに見つめられ、何も悟られないように唇を噛む。
決して目を離さず、続きを待った。
「光と闇にとって散り散りになった王冠は変わりのない居場所だったの。それに気付いたのは、お互いに失った後の話。失われた場所を今でも光と闇は探している。失われた繋がりを求めて、その繋がりを辿った先に何があるのか分からないまま」
ローズは大樹を見上げた。
亜莉香からは見えない大樹の頭上。覆い茂る葉に隠された誰かを見て、間違っていないか問いかけるような眼差しを向ける。
「――ねえ、アーちゃん」
不意に話し方が変わって、名前を呼ばれた。今度は亜莉香を見向きはしない。ただ名前を呼んだだけで、不思議そうな声は続いた。
「王冠は、何を願ったのかな?」




