84-2
一人になるのは、とても久しぶりだ。
特に闇の中から戻った後は、心配性のピヴワヌやネモフィルが絶えず傍に居た。ガランスにいる時は一人で買い物に出たり、家に一人でいたりしたのに。ここ数日、偽物の灯が現れてからは一人になる時間がなかった。
もう暫くは、一人きりになる時間は得られないと思っていた。
それだけに、高台に一人でいると不思議な気分。
見下ろす里は花舞う里で、とても美しい光景だ。
山々の花々が咲き、里の草木が芽吹いている。人が住んでいなかった茅葺き屋根の家は崩壊したり、住んでいても一部が壊されたりした家もあるが、里の者が、透が連れて来た人達が、お互い力を貸し合い、里を元に戻す。
荒らされた畑では黄瀬が嘆き、木蓮と葛が遊んでいる。
楽しそうで笑い声が溢れ、幸せな亜莉香の隣に誰かが立った。
「わざわざ僕だけを呼び出すとは思わなかったよ」
声がしたので、亜莉香は隣を見た。
並んでみると、あんまり背は変わらない。少しサイの方が高い。ぼさぼさの髪の根元は新緑に戻ったが、毛先は黒い。白い着物に桜柄の帯。森に溶け込む緑の無地の着物を羽織っていて、光を取り戻した明るい緑の瞳はペリドットを思わせる。
無傷、とは言えずに、あちこちに包帯を巻いていた。
亜莉香を見ることなく、その瞳は里を見つめる。
愛おしそうに、哀しそうに。もう戻れない過去の日々にも想いを馳せているサイに、亜莉香は声をかける。
「急に呼び出して、すみません。ですが、お話ししたいことがありまして」
「アーちゃんに呼び出されるのは、嫌いじゃないよ。迷惑をかけた自覚はあるし、謝罪するべき相手だと思っていた」
ただ、と言ったサイの声が低くなる。
「鴉鍋の具材にするからと、真顔の八重ちゃんに連れ去られた時は肝が冷えたね」
「おかげで疑われることなく、ここまで来られましたよね?」
「もしかして、アーちゃんの入れ知恵?」
ようやく目が合い、亜莉香は微笑み返した。肯定も否定もしない。
サイに会いたいと、頼んだのは亜莉香だ。どうやったら二人で話せるか、ピヴワヌやネモフィル、トシヤ達に聞かれて困る話ではないが、広めたい話でもなくて策を練った。
サイだけを連れ出してくると請け負ってくれたのは、八重。
葛の力を借りて人知れず高台まで来たのが、亜莉香。
鴉鍋の単語を出したのも亜莉香だけど、それを理由に連れて来ると言ったのは八重だった。先に高台に行って待っていてと言われ、待ち人が来たので亜莉香は後ろを振り返る。
「あの木に登りたいのですが、手伝ってもらえませんか?」
「…そのために呼び出したわけじゃないよね?」
指差したのは、いつかの精霊が見せた記憶でサイとナノカがいた場所。
頷いた亜莉香が先に歩き出す。サイは渋々と後ろをついて来て、目的の木に辿り着くなり先に登るようにお願いした。亜莉香は一人で登れない。
太い木の枝にサイは座り、一人分の距離を置いて亜莉香も座った。
落ちないように、いつでも幹に捕まれる場所。最悪落ちそうになったら、サイに助けを求める。その前にピヴワヌを呼べばいいかと呑気に考えれば、春の風が木々の葉を揺らした。
サイは何も言わない。黙って里を眺めていたので、亜莉香が話し出す。
「復讐は、叶いそうにありませんね」
「おかげさまで。アーちゃんが捕まえた男は里の人間の手に渡った。僕が手を出しにくくなったよ」
少し刺々しかったが、明るく言い返す。
「これで良かったのですよ。サイさんが手を下せば、悲しむ人がいます」
「ウイのこと?別に、あいつは一人だって大丈夫さ。元々、僕とは違う。悲しみだって乗り終えて、また笑って暮らすさ」
「いえ。一番に悲しむのは――ナノカさんではないですか?」
亜莉香が出した名前に、サイの鋭い視線を感じた。
睨みつけるサイに目を向ければ、お前が何を、と訴えられる。何も知らない亜莉香が口を出すな、とも取れる視線を受け止め、笑いかけて口を開く。
「ナノカさんは絶対に、復讐を望んでいません」
「好き勝手に言うな。あの男がいなければ、あの男が情報を売らなければ、ナノちゃんは里の外に出てからも狙われることはなかった!死ななかった!あいつを殺さない限り、僕は幸せになれなかった!!」
思いのほか響いた声に、サイ自身が驚いていた。
声を荒げたサイを静かに見つめ続ければ視線が逸れる。正気を取り戻し、舌打ちをした。
「ごめん…アーちゃんに当たることじゃなかった」
サイの両手が掴んでいた枝は、強い力にも耐えていた。頭を抱えるように項垂れて、独り言のように言葉を重ねる。
「これは僕の問題だ」
「そうかもしれませんが、そうとも言えないと思うのですよ」
「僕はアーちゃんの言いたいことが、全然分からないよ」
呆れも混ざった声に、亜莉香は里を眺めた。
その瞳に映すのは長老の家であり、そこにいるはずの青年を想う。
「運命って、あると思いますか?」
急に話を変えた亜莉香に、サイが怪訝な眼差しを向けた。
「あってもなくても、どっちでもいいかな、と私は思うのですが。もしもあるのなら、この里に私が訪れたのは運命だったと思います。だから私は今ここで、サイさんと話をしなくてはいけない。話がしたいのです」
嘘じゃなかった。声が届くなら、サイに伝えたいことがある。
それはサイの大切な人を取り戻す術じゃない。ナノカが戻って来ることではない。過去の記憶から読み取って、現在と結び付けて知った事実。
両手を膝の上に乗せたまま、亜莉香は足をぶらぶらと揺らす。
「ナノカさんは、きっと幸せでした。里を出てから沢山の出逢いがあって、別れがあって。日々を幸せに生きていたと思います」
「…そんなの、アーちゃんには分からないさ」
サイが話し出したので耳を傾ける。
「彼女は強かった。その力を狙う敵がいた。僕がもっと彼女の力を危惧して、里に引き止めれば死ななかった。助けたかった彼女は最期まで――」
苦しそうに顔を歪めたサイの横顔を、亜莉香はじっと見つめた。
「僕の名前を呼ばなかった」
それが、ずっとサイの心の棘になっていたに違いない。
サイとナノカの間にあった約束。ナノカに名前を呼ばれたら、サイはどこに居ても飛んでいくと言っていた。悲しくなったり泣きたくなったり、途方に暮れた時に呼ぶよう、約束を交わした場所は、亜莉香もいるこの場所だ。
その約束の続きを、思い出して欲しい。
「幸せだったから、名前を呼ばなかったのではないですか?」
「――違う」
「違いません。絶対に幸せになるから呼べないと、ナノカさんは言ったはずです。だから呼ばなかった。サイさんを呼ばなかったのは、幸せだった証です」
頑なに認めようとしない否定の声には、即座に反論して黙らせた。
揺れ動く瞳が亜莉香を見つめ、一呼吸を置く。
「サイさんは暴走してでも復讐を遂げ、自分で始末をつけると言いましたよね。その最期は、本当に幸せなのでしょうか?もういないナノカさんを想って悲しんで、苦しい心のままは、幸せだと言えるのでしょうか?」
突き付けた言葉に、サイは唇を噛んだ。
「ナノカさんの最期は、とても悲しいものでした。その光景を見たからこそ、私はそう思います。あの時は助けを呼ぶ暇がなくて、傍に居る人達を守ることに必死で。幸せとか不幸せとか、そんなことを考える時間はなかったのです」
亜莉香が見たと言った時、サイは驚いた。
膝の上の両手を強く握りしめ、当時の光景を思い出す。
ずっと前に見た記憶。ガランスの灯籠祭りの日の記憶を呼び起こし、脳裏に浮かんだのは最期まで光を宿していたナノカの顔。
そのナノカと同じ瞳を持つ子供を、亜莉香は知っている。
「サイさんのことを最期に呼べなくても、幸せだった証拠はあります」
「…証拠?」
「ナノカさんの息子は、今幸せに生きています」
言い切った亜莉香に、サイが呆然とした顔を向けた。
何を言われたか理解していない。この事実を伝えることこそが、亜莉香の役割だったに違いない。信じて欲しくて言葉を重ねる。
「ナノカさんと同じ瞳を持った青年です。トシヤさんと一緒に私を探しに来てくれて、明るい性格で周りを笑わせてくれて。父親譲りの髪の色で、顔つきもナノカさん寄りではないのですが、精霊に好かれて。あ、ナノカさんと同じで水魔法が得意です」
トウゴの話になれば、自然と亜莉香の笑みが零れた。
「精霊だけじゃなくて、人にも好かれる人なのでしょうね。色んな女性に言い寄られていたこともありますし、職場の人達との仲も良好です。家族が大好きで、もういない両親のことも、今一緒に暮らしている人達のことも大切にしていて――」
肩の力を抜き、トウゴがいるはずの場所を見て、知っていることを話す。
初めて出会ったトウゴには、軽いという印象があった。悩みなんて無さそうで、実は抱えている苦しみも悲しみもあって、血の繋がらない家族に支えられて今は笑っている。
サイは黙って、話を聞いていた。
途中から相槌を打って、泣き笑いしそうになっていた。
知っている限りの話をした。母親であるナノカとの違いを、サイに聞いてみたりもした。亜莉香が出来ることは限られているとしても、話をしながら切に願う。
サイの心の棘が消えるように。
もう二度と、悲しみや苦しみで心を見失わないように。
沢山の願いを込めて、亜莉香は語った。




