09-3
翌朝、亜莉香が午前中にパン屋に顔を出すと、店には誰もいなかった。
診療所に顔を出し、ワタルとモモエに会いに行くと一時間近く捕まり、その後にケイの元に行き、兎のぬいぐるみを仕上げた。発注していたリボンはトシヤが届けてくれて、元の状態に戻ったぬいぐるみを、ケイは可愛い花柄の手ぬぐいに包んで亜莉香に手渡した。
手渡された兎のぬいぐるみをアンリに届けるために、向かった先は住宅街。
以前聞いた記憶を頼りに家を探せば、濃い藍色の屋根の一軒家はすぐに見つかった。
木製の門の外から家を眺めれば、白に近い黄色の外壁の、煉瓦造りの平屋。住宅と同じ広さの庭があり、綺麗な花が咲き乱れている。
庭で洗濯物を嫌々干していたコウタは、亜莉香の存在に気が付いて声を上げた。
「あ、アリカ姉ちゃん!どうしたの!?」
「こんにちは、コウタくん。お母さんいる?」
「いるいる。ちょっと待っていて」
答えるとすぐに、コウタは干していた着物を持ったまま、家の中に駆け込んだ。
ドタバタと音が聞こえ、コウタとムツキの声が微かに聞こえる。走るな、と怒るムツキの声と、走ってない、と言い返すコウタの声は、家の外までよく響く。
少し待てばコウタの首元を捕まえたムツキがやって来て、にっこりと笑っていた。
「こんにちは、アリカちゃん。私に用だって?家の中で話す?」
「いえ、すぐに失礼しますので…あの、コウタくん大丈夫ですか?」
用事を言う前に、どうしても気になって亜莉香は言った。
必死にムツキから逃げようとしていたコウタが、力尽きて首を掴まれた子犬にしか見えない。憐れなコウタを見て言えば、ムツキは気にしない。
「いつものことよ。それで、どうかしたの?」
「あ、はい。これを、コウジさんに渡して貰えますか?」
亜莉香は大事に抱えていたぬいぐるみをムツキに差し出した。
中身を言わなくても、ムツキはどういうものか悟っている様子。コウタを放して、しっかりと受け取ると亜莉香に微笑んだ。
「あの人に渡しておくわね。これを受け取ったら、代わりに頼まれていたものを渡すように言われていたの。家に寄らないなら、ここで待っていて。すぐに戻って来るから」
言い終わると同時に、ムツキは家の中に戻って行った。あまりの早さに、亜莉香は立ち尽くす。洗濯物を持ったままだったコウタもその場に残された。
「母さん、物忘れ激しいから。探し物見つけるのに時間かかるよ」
「そうなのですか?」
「うん。前は、ほんの数分前にご近所さんから貰った煮物をどこかに置き忘れて、一時間ぐらい家の中で探していた」
呆れているコウタに、亜莉香は笑みを零す。
「それなら見つかるまでの間、一緒に洗濯ものを干しましょうか?」
「え…うん!手伝って!」
亜莉香の提案にコウタは喜んで、門を開けた。
物干し竿の前に行き、コウタは持っている洗濯物である着物を適当に干す。その隣で亜莉香は着物一枚一枚を伸ばしながら、コウタに尋ねる。
「コウタくんのお父さんは、毎日帰って来るのでしたっけ?」
「うーん、毎日じゃないよ。三日も帰らない時もあるし、昼過ぎに出て朝帰って来る日もある。最近はよく帰る方だと思うけど…警備隊は忙しいってさ」
「なるほど」
コウタに話を聞く限り、ルグトリスの話は出て来ない。
警備隊としての仕事は、街の見回りだと、トシヤから聞いたことがある。街の見回りに貴族の護衛も入るのだな、と考えて、亜莉香は確認する。
「どんな仕事をしているのか、コウタくんは聞いたことあるのですか?」
「あるよ。いつもは街を見回って、怪しい人がいないか探すんだって。たまに偉い貴族の護衛や家の警備もして、お土産にお菓子をくれる!」
嬉しそうにコウタが言い、持っていた洗濯物を全て干した。
コウタの話を聞いていると、怪しい人、が無意識にルグトリスに変わる。警備隊がルグトリスの存在を知っているのなら、その存在を隠す理由が知りたい。
ルグトリスとは何なのか。
どうして襲われるのか。
考えることが多くて、亜莉香は口を閉ざした。
亜莉香を真似して着物を伸ばしながら、コウタは話題を変えた。
「俺ね、アンリに手紙書いたんだ」
「え、手紙?」
突然の話に、亜莉香は驚いてコウタを見た。にかっと笑ったコウタが、楽しそうに言う。
「だって、父さんの知っている貴族の女の子でしょ?母さんに手伝って貰って、駄目元で手紙を書いたら、返事くれたよ」
「なんて書いたのですか?」
「それは秘密。でもね、元気だって。また今度皆で街に行こう、て書いてあったよ。どこの貴族か分からないけど、これから手紙の交換しよう、てさ」
今にも鼻歌を歌い出しそうなくらい、コウタは嬉しそうに言った。
手紙か、と呟いて、亜莉香は言う。
「私も、アンリちゃんに手紙書きたいですね」
「書こうよ!姉ちゃんが書いたら、アンリも喜ぶよ。母さんが昔に使っていた紙や万年筆があるから今すぐ書けるし、家に入って一緒に書こう!」
今すぐに、と言ったコウタの勢いに押され、亜莉香は瞬きを繰り返す。
「今すぐは…ムツキさんの邪魔になりますので。それに道具なら自分で揃えますよ?」
「いいから、いいから。どうせ母さんの方が、時間がかかるもん」
干してある着物を伸ばすのをやめて、コウタは亜莉香の右手を掴んだ。少し強引に家の中に押し込まれ、亜莉香は午後からの予定を頭の中で立て直すことにした。




