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Last Crown  作者: 香山 結月
第5章 花明かりと薔薇
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83-6 Side日菜

 座り心地の良い椅子の上で、ヒナは目蓋を開けた。

 両手をひじ掛けに乗せ、深く腰掛けていた。ぼんやりする頭のまま呼吸をすると、温かで柔らかい風が頬を撫でる。漂う香りは仄かな花の匂いで、降り注ぐ光がある。


 顔を上げれば、ガラスの天井から太陽の光が降り注いでいた。

 ゆっくりと前を向くと、瞬きする度に鮮明になる景色がある。


 そこは広々とした温室だった。

 砂利を引いた小道。大地に根を張り、青々と覆い茂る木々。桜に梅に、桃に林檎の木もあれば、枇杷や蜜柑や檸檬の木もあった。牡丹や山茶花、薔薇や百合や向日葵、瑠璃唐草や勿忘草。数えきれない花が少しずつ、季節外れでも花を咲かす。目には見えない力を宿して、色鮮やかな世界を作る。


 座っている椅子から、温室は見渡せた。

 これは現実ではないと分かってしまう。


 懐かしい記憶の景色。幸せだった日々の欠片。傍らには壁に立て掛けられた姿見があり、僅かな光を反射していた。温室にいるのが夢だとしても、もう二度と帰れない場所にいると思えば、込み上げてくる感情があった。


 この家には、もう誰も住んでいない。

 夢から覚めた現実で、会いたいと望む二人には会えない。

 真の主として誓った人を守れなかった。家族だと言ってくれた人を守れなかった。傍に居れば不幸にさせると離れたのに、意味はなかったのだ。物心ついた時に交わした契約のせいで早々に主に見つかり、最後には命令通りに動いて、彼女達を追いつめた。


 彼女が、正統な王位継承権を持つ者だとは知らなかった。

 知っていたら、自らの命を絶っていた。


 結局、裏切ったのだ。血の契約に裏切れず、相手の顔も知らずに追いかけた。どこかで幸せでいてくれることを願ってばかりで、自ら立てた誓いを破った。

 契約なんて結ばなければ良かった。

 例え両親に命令されても、殴られ殺されかけても。死にそうな日々を過ごすことになっていたとしても、逃げ出すべきだった。自らの意思を持つべきだった。


 あの選択は間違いだった。

 そして気付けば、両親に見放された。


 最初に闇に落とされたのは、その時だ。たった一人で暗闇を彷徨って、力尽きて動けなかった。死んだと思っていたのに、気が付いた時には真っ白な雪の世界にいた。見放された両親を求めてしまったのは、幼さのせい。泣いてしまったのも、幼さのせい。


 今でも、どうやって闇から抜け出したのかは分からない。

 あの日、彼女と出会ったのは偶然なのか。

 束の間の幸せを手に入れたのは、運命なのか。


 幸せを知らなければ、苦しまずに済んだ。大切な誰かを失う辛さを、守りたいと願う気持ちを知らずに済んだ。

 二人を失った日に比べたら、どんなことも苦しくなかった。

 精霊の血を引く母親が反逆だと言われ殺されたと聞いても、頭の狂った父親が事故で死んだと聞いても悲しくなかった。

 それなのに二人を失ってからは、心にぽっかりと穴が開いてしまった。


 生きる理由は、たった一つしか残されていなかった。

 彼女と同じ瞳を持つ子供を守ること。


 それが彼女の為に出来る、唯一のことだと思えた。死にたくても、殺されたくても、人を傷つけ、何人も殺しても生き延び続けた。

 彼が先に死ぬようなことだけはあってはいけない。

 蔑ろに出来ない彼の身体を、心を守りたかった。

 両親を亡くしてからの彼は、以前の彼とは違っていた。心の底から笑わなくて、主との契約のせいで苦しんだ。扇の力を使って記憶を奪ったせいで、ヒナのことなど一切忘れ、赤の他人と日々を過ごしていた。

 暫く経つと、少しずつ笑顔が戻って安心した。

 子供らしく遊んで、年の近い少年少女と兄妹のように育てられて幸せそうだった。声をかけられなくても、誕生日に祝ってもらって喜んでいる姿は見た。色んな人に囲まれて花見をしたり、暑い日々でも一生懸命働いたり。焼き芋を食べ歩きしたり、全力の雪合戦ではしゃいで、風邪を引いて数日寝込んだり。


 見守っていた彼と、深く関わるつもりはない。

 今までも、これからも関わってはいけない。

 分かっているはずなのに、と視線が下がれば、足跡が聞こえた。顔は上げるが、夢の中なので座ったままでいると、誰かがやって来てヒナを見つける。


「ヒナさん?」


 不思議そうに首を傾げた少女の方が、ヒナにとっては不思議な存在だった。

 不機嫌な顔を隠さずに、ため息を零す。


「なんで貴女が、ここに?」

「適当に歩いていたら辿り着いただけなのですが――夢の中ですよね?」


 傍まで来て、当たり前のように訊ねた。

 本人は夢だと自覚しながら、どうやら一人で来たようだ。物珍しそうに温室を見渡し、興味津々な瞳を輝かせる。真っ赤な椿が気に入ったようで、そそくさと歩き出し、傍にしゃがんで花を眺め出す。

 そんな少女を見ながら、ヒナは呆れて言った。


「貴女、自分の現状を分かっていないでしょ」

「私の現状ですか?夢の中に居るのが現状だと思っていますが、他にありますか?」


 振り返りもしない少女は、当たり前のように答えた。

 間違ってはいない。

 けれども少女が考えている現状は、おそらくヒナが言いたかったことと違う。

 少なくとも、ヒナが夢の世界に入った時から眠っていた。里の中で倒れるように意識を失った少女が起きない、と勝手に報告してくる小さな精霊伝手に聞いた。


「現実で倒れて、周りは騒然。寝ていると分かったのは精霊達だけで、貴女の仲間は大慌て。里の連中も外に出て来るわ。シノープルから来た連中はいるわ。人が増えて騒いで大混乱。その隙に私は逃げ出したわけだけど、呑気に夢の中を歩く余裕があったのね」


 振り返った少女の顔は間抜けで、きょとんとしていた。


「えっと…そんなに大混乱でしたか?」

「まあ」


 どれだけ大混乱だったのかは、本人に勝手に想像して貰った。頭を抱えた少女は現実以上に想像して、時々零れる独り言には見当違いも入っていたが否定はしない。

 このまま夢の中で話しているのは馬鹿馬鹿しくなって、ヒナは椅子から立ち上がった。動いた気配を感じた少女が顔を上げ、ヒナに問う。


「どちらに?」

「このまま寝ているつもり?」

「いえ、起きます。どうしたら起ますか?ピヴワヌを呼んだ方が早いのでしょうか?」


 どこかに行くなら付いて来る気満々な少女も、着物の裾を払って立ち上がった。

 付いて来て欲しくない。もう一緒にいる理由もないのに、構ってくる少女を無下に出来そうもなかった。それはきっと、名前を取り戻してくれたせいだけじゃない。


 ずっと忘れられなかった彼女と、少し雰囲気が似ていたせいだ。

 目が合って微笑んだ少女の姿が、諦めの悪い強い意思が、彼女と似ていた。揺れ動く感情を心に押し込める。少女から目を逸らし、近くにあった姿見を見た。


 ここはヒナの夢の中。

 願えば姿見が光り出し、少女が驚いた声を出す。勝手に人の夢を出入りする少女の存在の方が驚きの塊であることは、言う必要はないのだろう。

 姿見の前に移動した少女の一歩後ろに、ヒナが立つ。


「ほら、先に行きなさいよ」

「ヒナさんも起きますよね?」

「当たり前でしょ」


 即答しなければ、少女がいつまでも居座りそうだった。その回答に満足した少女は嬉しそうで、姿見に手を伸ばす。

 触れる前に、少女はヒナに笑いかけた。


「ねえ、ヒナさん」

「…何よ」

「自分の気持ちを決めるのは、いつだって自分だと思いませんか?」


 花が咲いたように明るい表情は、とても眩しかった。

 何も言えなかったヒナに、向き直った少女は言葉を重ねる。


「どんな過去があっても、どんな罪を犯しても。苦しくて悲しくて、今まで絶望ばかりの日々だったとしても。今日までの自分の気持ちは誰も否定出来ません。気持ちは、私の心は私だけのもの。貴方の心も、貴女だけのものだと思いませんか?」


 少女は質問を繰り返す。全てを見透かされているような気がした。

 喉に詰まりかけた言葉を、何とか吐き出す。


「勝手な…意見を押し付けないで」

「そうですよね。でも言いたいことって、その時に言わないと、後になって凄く後悔してしまいますので」


 困ったような顔をした少女が、だから、と言って一呼吸を置いた。


「――選んだ未来で、生きて下さい」


 面と言われた言葉に息が止まりそうになった。

 未来を望むことは、もうないと思っていた。

 少女の真っ直ぐな瞳に、過去のヒナの姿が映る。大切だった人達が傍にいてくれる。光を教えてくれたナノカがいて、花の名前を教えてくれたソウゴがいて、幼かったトウゴが絵本を読んで駆け寄る。

 幸せだった日々があった。


 その幻が消えて、少女の傍に別の幻を見てしまう。

 小さな精霊達が飛び交い、ヒナの名前を呼ぶ。女の子の姿をした精霊が手を繋ごうと傍に来て、笑顔を取り戻したトウゴが笑いかけてくれる。

 瞳に涙が滲みそうになって、瞼を閉じた。

 次に目を開けた時には幻は全て消え去り、深呼吸をして微笑む。


「ええ」


 たった一言で、少女は安堵した表情を浮かべた。

 足が止まっていた少女に、ヒナは素っ気なく言う。


「分かったから、さっさと行きなさいよ」

「そうします。では、また後で」


 後で会う、なんて約束していない。

 笑顔の少女が姿見に向き直り、今度こそ手を伸ばして触れた。瞬く間に淡く白い光に呑みこまれるように消えてしまえば、一人きりになって息を吐く。


「変な子」


 自分自身の言葉に笑みを零してしまった。

 気を引き締めて、姿見ではなく温室の中を歩き出す。太陽の光を浴びながら、青々とした木々や草花の傍を通りながら、噛みしめるように地面を踏む。


 探していた花は、日当たりの良い場所で咲いていた。

 小さな雑草。青紫色の花が枝の先に一つずつ、上を向いた花が咲く。五ミリ程度しかない花びらは五つで、可愛らしくて名前が同じ花。

 雛桔梗、と幼い頃に書いた名札は記憶のままだ。

 この花を好きだと言ってくれる人達がいた。

 しゃがんで膝を抱えた。花を眺めて、もう会えない人達を想い囁く。


「生きて償います」


 誓いを胸に刻む。

 もう二度と大切な人を失わないように。心を失わないように、言葉を紡ぐ。


「幸せだった日々を、教えてもらったことを忘れません。ナノカさんとソウゴさんの代わりに、トウゴの笑顔が曇らないように見守り続けます。だから私は――」


 返事はないと分かっても、聞かずにはいられないことがあった。先程の少女の言葉を思い出す。下がっていた視線を上げ、後悔したくなくて口を開く。


「私は、生きていいですか?」


 返事はなかった。当たり前だ。それでも良かった。

 ゆっくりと腰を上げながら、これからのことを考える。

 現実の世界に戻ったら、まだ為すべきことはある。名前を取り戻して自由を得ても、主はヒナを簡単に手放してはくれないだろう。レイに見つかることも厄介の種にしかならず、一度纏った闇は隙を伺い、いつだって背後に忍び寄る。


 そっと頬を撫でた風が暖かく、笑みを浮かべて真っ白な髪を押さえた。

 ヒナ、と頭の奥で呼ぶ声は、もう会えない人達の声。会えなくても、心に光を宿してくれる人達に呼ばれた気がして、何となく花を見下ろす。

 どこからともなく、温室を吹き抜けた風があった。


 生きて、と声がした。


 誰の声なのかは、分からない。ナノカの声だったかもしれないし、夢の中にまで来た少女の声だったかもしれない。もしかしたら空耳だったのかもしれない。

 ただ、小さな花は頷くように揺れていた。

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