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驚きトシヤにしがみつけば、名前を呼ばれた気がして振り返った。
倒れていた男性の脇に、まるで蜃気楼のように現れた姿がある。
茶色の髪がふわりと揺れた。その髪に付けている黄色の髪飾りのリボンが揺れた。派手な花柄の着物に、焦げ茶の帯と靴。真っ黒なショールのような布を羽織って、今まさに舞い降りたと言わんばかりに足を下ろす。
「――麗良」
現れた少女の名前を、亜莉香は呼んだ。
有り得ないと、夢でも見ているのではないかと現実を疑う。
亜莉香を見て微笑んだ麗良が、傍にいる男性を見るなり蹴った。蹴っても踏んでも呻いただけで起きない男性に、麗良は深いため息をつく。
「起きなさいよ、ニケ。いつまで寝ているつもり?」
麗良の声に反応はなかった。舌打ちして、指を鳴らした途端に影から人が現れる。正確に言えば人の形をしたルグトリスで、袴姿の成人男性のように見えた。軽々と男性を抱えた様子を見て、ぼそっと呟いた言葉は役立たず。
あまりにも冷たく言い放って、麗良は亜莉香に目を向けた。
「久しぶりね。亜莉香。それとも灯?」
話しかけられて戸惑った。
麗良が名前を呼んだことも、亜莉香だけでなく灯の存在も知っていたことも驚くが、表情には出さない。笑いかける相手でも、仲良くしたい相手でもない。
レイの影がちらついて、亜莉香は素っ気なく訊ねる。
「なんで、ここに貴女が?」
「貴女のせいでしょ?折角、あの世界に陸斗と二人でいたのに連れ戻された。戻って来たら、あっちで二十年も経っていたのに、こっちでは数日。おかげで色々と準備したのは無駄にならなかったけど――」
「その人を、どこに連れて行くつもり?」
麗良とレイが混ざった会話を、長々と聞くつもりは毛頭なかった。話していた声を遮って、聞きたいことだけ言う。兎の姿のピヴワヌが肩に戻ったのを感じ、亜莉香の対応に傍に居るトシヤが日本刀を持った。
味方じゃないというのは、誰もが分かったことだろう。
サイのことも解決していないのに麗良が現れ、問題が増えてしまった。
「どこへ?」
聞き返されても答えない。麗良は遠くを見つめ、聞こえていたはずの質問を繰り返す。
「どこに…連れて行くのだっけ?」
まるで自分自身に言い聞かせるように言い、違和感を覚えた。
麗良は近くにいるはずなのに、何だか掴みどころのない雰囲気だ。何かをしようとして、何かを忘れ、会話が成り立たないのは今回が初めての話じゃない。
本来の役目、も忘れているに違いない。
ヒナが知っていることを、聞いておけば良かった。今更だが、とも思いつつ、麗良と対峙して引く気はない。
「何の用があって来たのですか?その人を連れて行く為に来たのですか?」
「それは、おまけ。だって私は別の用事で来ただけだもの。そのついでに、ようやく隠れ里を見つけられた。この里が廃れ、主様の脅威にならないことがよく分かった。ご神木なんて言って、ただの木ね。ちょっと力を加えたら折れちゃった」
聞いてもいないのに、よく口が動いて喋ってくれた。
悪いことをした認識はない。それは子供のように無邪気な言葉だ。
蕾が言っていた意味を理解する。ずっと隠れ里を狙っていた大きな力。亜莉香達に危険だから離れるように言った蕾も、美しく幻想的だった大樹の無事も気になるが、それ以上に心を占めたのは静かな怒り。
どうして、と問いかけたところで望んだ答えは返って来ない。
「――どうして、そんなことを?」
亜莉香ではなく、耐え切れなかった黄瀬が振り返った。
黄瀬の魔法が途切れ、サイの鳴き声が響き渡る。ネモフィルの騒ぐ声やウイの声が一層大きくなっても、黄瀬は麗良を睨みつけた。
落ち着け、と小さく言ったピヴワヌの声は黄瀬に届かない。
両手を握りしめた黄瀬が今にも殴りに行きそうで、咄嗟に亜莉香は着物を掴む。
「黄瀬」
行っては駄目だという意思を込めて、名前を呼んだ。一瞬だけ目が合った黄瀬が思い止まって、踏み出そうとした足を引く。
つまらない、と言いたげに麗良は顔を顰めた。
「殴り掛かってでもくれたら、喜んで相手をしてあげたのに」
「貴女の相手をする者は、ここにはいません。だから――その人を返して」
低く言った直後、足元の雪が鋭い氷となってルグトリスの心臓や頭、手足を貫いた。麗良を掠めもしなかった鋭い氷がルグトリスを消し、地面に倒れた男性の身体を拘束したのは地面から生えた木の根っこ。
そう簡単には切れない頑丈な根は、気を失ったままの男性の手足を押さえた。
他のルグトリスが現れれば、それすらも即座に倒すつもりで見つめる。亜莉香と男性を見比べた麗良は、嬉しそうな笑みを浮かべ両手を叩いて拍手する。
「流石、流石!一筋縄ではいかないと思った。本当――ヒナの言った通り」
「…え?」
今度は驚きを隠せなかった亜莉香に、麗良が怪しく笑ってみせた。
冷たい風が頬を撫でる。真っ白な髪が麗良の隣で靡き、夜空を背景に現れた人影を見間違うはずがない。その女性は、最初から麗良の傍に居たに違いない。足跡が残っている。ぼろぼろの見覚えのある着物を羽織って、真新しい黒い着物を身に付け、胸元で輝くように揺れるのは懐中時計のような羅針盤。
亜麻色の瞳が亜莉香を捕らえ、表情を消して見つめ合う。
目を逸らすことも、声を出すことも出来ない。
「貴女を、迎えに来たの。主の命令で」
ヒナが言葉を選んだ。
たったそれだけで、それがヒナの意思でないと分かってしまった。ヒナの過去を少しだけでも垣間見たから、その主が、ヒナが誓った真の主でないと知っている。
命じられたら従うしかないのだと、言っていた。
トシヤが引き寄せるように繋いでいた手を握りしめ、肩にいるピヴワヌが殺意を込めて二人を睨みつけた。何も持っていない黄瀬すら警戒したのに、亜莉香だけはヒナから目を逸らせない。
戦いたくない、と言えなかった。
ヒナの影が揺れ、薙刀を持った人影が浮かび上がる。真っ黒な闇を纏った、先程の麗良が出したルグトリスと格が違う存在。手にしていた薙刀に一瞬で焔を纏わせ、徐々に姿が変わって見えていく。
さらさらの長い髪が夜風に揺れ、亜莉香とそっくりな顔で微笑む。
ピヴワヌとトシヤ、黄瀬にも、その姿が見えて息を呑んだ。誰もが浮かべる疑問の答えを、亜莉香も知らない。灯の姿にしか見えないルグトリスが、ヒナの傍に居る理由を、まだ教えてもらっていない。
きっと、逃げることは許されない。それを証明するかのように最初に動いたのは、灯にしか見えなかった敵だった。




