81-2
「――もう、大丈夫そうね」
ネモフィルが零した安堵の言葉が、急に亜莉香の耳に届いた。
瞬きを繰り返し、視界が戻る。横たわる八重に乗ったままのフルーヴは、座り込んだままの体勢で頭を下げている。
「つかれたー」
「得意分野で何を言っているのよ」
「つかれたの!」
怒ったかのように言えば、フルーヴは首だけを動かして亜莉香を見た。その表情は笑みに変わり、勢いよく亜莉香に抱きつく。
「フルーヴ、がんばったの!」
「ありがとうございました」
「うん!」
疲れていたはずなのに、亜莉香のお礼で一気に元気になった。
頭を撫でてあげたかったが、亜莉香の両手は血まみれだ。どうしようもない両手は宙を彷徨って、冷たい雪で落とすか迷う。
ネモフィルとフルーヴに至っては、水の魔法でさっさと洗い流した模様。
ひとまずフルーヴに離れるように頼んだ。
支えてくれていたトシヤから起き上がり、亜莉香は座り直して自身を見下ろす。すでに乾き始めている両手に、折角貰った黄瀬の母親の形見の着物も血まみれ。着替えないと人前に出られる格好ではなくなってしまった。
申し訳ない気持ちでいっぱいになって、両手を膝に置いた亜莉香は言う。
「黄瀬…すみません」
「え、何が?」
八重を軽々と抱え上げた黄瀬が振り返って、首を傾げた。
「お母様の着物が、その…汚れてしまって」
「いやいや、気にしてないよ。それより八重の怪我を治してくれたから、お礼をしたいくらいだし。新しい着物はもうないから、長老にでも聞くかな」
ぶつぶつと呟く後半の言葉は聞こえず、視線は外れた。
立ち上がった葛が黄瀬の袖を引っ張り、兄貴、と小さく呼ぶ。
「僕の魔法の中を通る?」
「そうだな。その前に、この氷が消えないと家にも帰れないけど」
四方を囲む氷の壁を見て言えば、ネモフィルが指を鳴らして氷が砕け消える。
まるで最初からなかったかのような空間に戻り、ピヴワヌとネモフィルは辺りを見渡した。ウイは泣いていた顔を拭って、空を見上げて瞳を閉じる。
「気配…しないね。ピーちゃんとネモちゃんは、何か感じる?」
「儂は何も感じない。犯人を追跡するにも、矢を射た奴は即座に気配を消したな。あの動きは人間じゃなかった」
「私は防御と治癒に徹したから、そこまで意識しなかったわ。他の精霊の記憶を頼りに犯人を捜してみるとして、誰か近くを見に行く?」
「私が空から、ピーちゃんが地上に行くのは?」
「その前に我が主を安全な場所に移動させるぞ。そうでなければ、儂は行かん」
言い切ったピヴワヌの言葉に、ネモフィルもウイも納得と呆れた顔をした。
着々と次の計画を立てていく精霊達に、亜莉香は口を挟めない。とりあえず立ち上がろうと思えば、じっと亜莉香の着物を見つめるトシヤの視線の先に気付いた。
「トシヤさん?」
「あ…何でもない」
真剣な表情は一瞬で消え去り、トシヤが先に立ち上がった。差し出された手を握るか迷い、自力で立ち上がろうとして腕を掴まれる。
気を遣って手を繋ぎはしないが、そっと離れた手は肩に回って引き寄せられた。
驚く亜莉香が顔を上げれば、トシヤの顔が間近にある。緊張した身体は動かず、兎の姿になったフルーヴが飛び跳ねて亜莉香の頭に乗った。
「ありかといっしょ!」
「フルーヴ、トウゴは家の中にいるのか?」
「うん。さっきまで一緒にお昼寝していたの」
楽しそうに答えたフルーヴは、しっかりとしがみついていた。
現在の時刻は、お昼寝の時間じゃない。未だ夜が明けず、寝ていても不思議じゃない時間帯だ。眠気のない亜莉香は八重に目を向け、その容体を確認した。
黄瀬に抱えられた姿はぐったりとしているが、呼吸が落ち着き、顔に赤みが戻っている。亜莉香と同じくらい血まみれの着物姿であるが、僅かに見える素肌に傷はない。
安心した亜莉香と目が合い、黄瀬は口を開こうとした。
それを遮ったのは両手を叩いたウイで、その場に響いた音に視線が集まる。
「よし。そういう手筈で行こう」
「えっと…何が決まったのですか?」
思わず亜莉香が訊ねれば、振り返ったウイは言う。
「私とピーちゃんが見回りに行くから、他は全員黄瀬ちゃんの家で待機ね。下手に家の外に出ないこと。ネモちゃんも一緒に行くから、結界を強化して身を守ること」
「特にお主のことだぞ、アリカ」
「目を離すと厄介ごとに巻き込まれちゃいそうだものね」
以前他の人に言われた台詞を、精霊であるネモフィルに言われなくなかった。
否定出来ないのが悔しい。何とも言えない表情をした亜莉香が口を閉ざせば、黄瀬がはっきりと声を上げる。
「俺も行く」
「それは駄目だよ」
やんわりと断ったウイに、黄瀬は首を横に振った。
「犯人を見つけ出さないと俺の気が済まない」
怒りを秘めた眼差しを受け、ウイは肩を竦めて見せた。ネモフィルはピヴワヌを見て、ピヴワヌは頭を掻きながら話し出す。
「だから駄目なのだ。そんな状態の奴を外に出しておけるか。家で大人しくしていろ」
「里のことは里の者が手を下す。寧ろ精霊様達が下がるべきだ」
対等に言い合う黄瀬の気持ちも、分からなくはなかった。
葛は不安そうに黄瀬とピヴワヌを見比べる。フルーヴは首を傾げ、ネモフィルとウイは何も言わないがピヴワヌの味方だ。亜莉香とトシヤは成り行きを見守るしか出来なくて、無言の空気が暫し訪れる。
ピヴワヌは決して首を縦には振らなかった。
「その感情に振り回されるな。怒りに身を任せて力を振るえば、制御出来なくなって己を見失うことになるぞ」
「そんなことにはならない」
「黄瀬ちゃん、今回は私達に任せて欲しいな」
ずっとしゃがんだままだったウイが顔だけ上げ、悲しそうな笑みを浮かべた。
「八重ちゃんの仇を討ちたい気持ちだけで行動しないで。もし犯人を見つけたとして、どうするの?冷静な判断を下せる?」
「当たり前だ」
「具体的にどうするの?」
繰り返した疑問に、黄瀬の言葉が詰まった。八重を抱えている両手に力がこもる。ピヴワヌやネモフィルも懸念していることを理解した。復讐しようとする黄瀬が無茶をしないように、道を踏み間違えないように言葉を重ねる。
「八重ちゃんを傷つけた犯人を逃がしはしないよ。でも黄瀬ちゃんは、よく考えて欲しいの。その決断が間違ってないと言えるなら、私達は止められない」
真っ直ぐで揺るぎない眼差しに、黄瀬は耐え切れず視線を逸らした。
それでもウイは問いかける。
「今の感情だけで自分を見失ってない?」
黙りこくった態度が、黄瀬の答えだ。安心したウイが立ち上がり、ピヴワヌは頭を掻いた。静かに息を吐いたネモフィルは黄瀬の傍に行き、八重の乱れた前髪を優しく撫でる。
「容体が安定しても心配だから、私も一緒に行くわ。大切な子なら尚更、目が覚めるまで傍にいてあげるわよね?」
「…分かった」
頷いた黄瀬を見て、ネモフィルが不安そうだった葛にも微笑んだ。
亜莉香の頭の上のフルーヴは始終大人しい。おそらく何も分かっていなくて、口を閉ざしていただけ。亜莉香の名前を小さく呼んで、他の人に聞こえないように言う。
「がんばったから、お腹すいたの」
気が抜ける発言に、思わず笑ってしまった。とても可愛らしいお腹の音もして、恥ずかしくなったのか身体を亜莉香に押し付ける。
傍に居たトシヤには音が届き、頭を撫でられ嬉しそうに喜んだ。
精霊達と黄瀬の話はまとまった。
場所を移動する前に、どうしても気になったことを亜莉香は問う。
「矢を射た犯人は…人、ですよね?」
「そうだろうけど、何か気になるでもあったのか?」
「何となく狼を見た気がしたのです」
自信なく言い、無意識に右手は口元に伸びた。
眉間に皺を寄せて目を閉じ、脳裏に浮かぶは木々の間を駆けて消えた黒い生き物。狼にも見えた姿で、見間違いだったとは言い難い。
周りの精霊が耳を立てていたのに気付かず、それに、と続ける。
「裏切り者は里の中、と誰かが言っていて」
ぽつりと呟いた一言が、やけに響いた。
その声の主は亜莉香の知らない精霊だ。どんなに思い出そうが、言葉を思い出せても存在は分からない。ただ声が聞こえただけで、それ以上の声はなかった。
そっと開いた視界の先に、見慣れた足元が見える。
いつの間にか目の前で腕を組んでいるピヴワヌがいて、無理に笑おうとする顔に思わず身を引いた。それでも伸びた両手が亜莉香の頬を引っ張り、低い声で言う。
「そ、れ、を、先に言え!」
「なにが、れすか?」
「裏切り者が里の何いると、誰が言った?儂は聞いてない!」
断言したピヴワヌは手加減をしてくれなかった。痛いと何度か繰り返した後に両手が放れて、痛みが消えない頬を擦る。
心配してくれるのはトシヤとフルーヴだけで、他は驚きや呆れ顔。
腕を組んで頬を膨らませたピヴワヌに、亜莉香は正直に話す。
「さっきまで集まっていた精霊の誰かが、そう言っていたのですよ?」
「…どの精霊だ?」
「それは分かりません。薬を作り終った後にぼんやりしていたら、精霊達の声がして、その中の誰かが言っていたのです」
嘘をついていないことは、ピヴワヌに通じているはずだ。
傍に集まっていた精霊の誰かの言葉を繰り返しただけなのに、想像していなかった反応をされた。意味が分からないと思うのは、精霊達の声が聞こえるのは亜莉香だけの話じゃないからだ。ピヴワヌやネモフィル、ウイやフルーヴだって精霊だ。
ピヴワヌは髪が乱れるくらい頭を掻いて、ウイがひょっこり顔を覗かせる。
「アーちゃん、あれだけいた精霊の声を聞き分けたの?」
「聞き分けたつもりはないです。次々と声が聞こえただけ――えっと、そのウイちゃんにも精霊の声は聞こえますよね?」
「それは勿論だけど」
だけど、と言って十分な間が空いた。
首を傾げたウイは少し困った顔をする。
「例えるなら、アーちゃんは風の音を聞き分けているようなものなの。私達には同じ声に聞こえる声を聞き分け、聞き流すことをしていない。どうしても伝えたいことがある精霊なら傍に来て教えてくれるし、わざわざ離れている精霊達の声を拾おうとは思わないから」
疲れるでしょう、と首を傾げたウイの言葉で、血の気が引いた。
人と比べることをしなかったせいで、亜莉香の常識が覆される。当たり前だったはずの状況が普通ではないのだと、今更思い知った。




