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Last Crown  作者: 香山 結月
序章 薄明かりと少女
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09-1

 雨が上がった橙色の空の下を、亜莉香とトシヤは歩く。

 夜が近づき、いつもなら騒がしい市場は人が少なく静かだった。

 市場から外れた裏路地はさらに静かで、人の気配はなく、道自体はいつもより薄暗い。一人分よりは狭くて、それでも肩が決して触れることのない距離を空けて、トシヤは亜莉香の隣にいた。一人じゃなくて良かった、と思いながら、亜莉香は話しかける。


「ヤタさん、とても優しい方でしたね」

「そうか?俺らをいつまでも子供扱いする、愉快で変な爺さんだろ。医療に関しては尊敬出来るけど、それ以外のことは普通以下」


 ヤタを馬鹿にするようにトシヤが言い、深いため息を零した。

 不思議そうな顔で、亜莉香は問う。


「ヤタさんって、どんな人なのですか?」

「どんな人…て、改めて言われると。出会った時から、医療以外に取り柄がなくて、家事の一つもろくに出来なくて、俺らを診療所に連れて行くのはいいけど、そのまま仕事が忙しくて放置するような爺さん」


 淡々と、トシヤは思うが儘に言った。なんて言えばいいのか分からずに、亜莉香は聞いているだけ。でも、とトシヤの表情が柔らかくなって、言葉が続く。


「本当の親でもなく、ましてや血の繋がりなんてないのに。爺さんは最初から俺らを大切な家族として、受け入れてくれた人だから。本人には言わないけど、感謝している」

「育ての親、でしたよね?」


 聞いていいのか、迷いながらも亜莉香は言った。トシヤは気にする素振りを見せず、空を見上げながら軽い口調で話し出す。


「まあな。俺とトウゴは小さい時に事故に遭って、両親がいなくなったんだと。それでその事故から助けてくれたのが爺さんで、その頃にはユシアが爺さんの家にいた。事故でそれまでの記憶を失くした俺だったけど、爺さんのおかげで今がある」


 もう何年も昔の話、とトシヤは付け加えた。

 昔のことを思い出しているトシヤを、亜莉香は少し見つめた。


「記憶、ないのですか?」

「ないよ。事故以前の記憶がないから、両親のことなんて一つも覚えてない。別に、今更思い出したいとも思わないけどな。昔はどこかに両親がいる、なんて、こんな時間でも平気で家を飛び出していたわけで。それで、爺さんによく怒られた」

「ヤタさんの怒る姿は、想像出来ませんね」


 今日出会ったばかりのヤタの姿を、亜莉香は思い出した。優しそう、と言う印象の強いヤタが怒る姿など思い浮かばない。

 そうか、とトシヤは首を傾げる。


「普段があの調子だから、滅多に怒らないけど。怒らせると、めちゃくちゃ恐いよ。無言の圧があって、蛇に睨まれた蛙の気分」

「それはきついですね」


 亜莉香が同意すれば、目が合ったトシヤが笑みを浮かべた。


「アリカの両親は?怒ると怖かった?」

「私ですか…?」


 突然両親の話を振られ、戸惑って言葉に詰まる。

 両親のことを思い出すと、亜莉香の心は一気に重くなる。ずっと考えないようにしてきたが、何も言わないわけにはいかず、亜莉香はトシヤから視線を外した。


「私の両親は…その、いなかったわけではないのですが。私にとっては、いないような存在でした」

「どういうこと?」


 意味が分からないトシヤの声に、亜莉香はわざとらしく一歩前を歩き出す。


「前に、私がアンリちゃんみたいに人探しをしたことがある、と聞きましたよね。会いたい人がいて、探して。親友が見つけてくれて、私は親友に嫉妬した話」

「数日前に聞いたな」

「あの話で私が探していたのは、誰だと思います?」


 意地悪く質問してみれば、トシヤは何も言わない。何も言わないので、亜莉香は背中を向けたまま、すぐに口を開く。


 父親です、と言った声が掠れた。


 アンリには言えなかった話の続きを、話そうとしている。無理やりでも話を変えてしまえば、トシヤはそれ以上聞かない。それが分かっているからこそ、このタイミングを逃したらもう話をする機会はなくなるかもしれない。

 ずっと、誰にも言えなかった。

 当時のことを思い出せば、今でも心は痛い。


「家からいなくなった父親を探して、見つけて。別の女性と楽しそうに笑っている姿を見たら、何も言えずに帰るしかありませんでした」


 アンリには言えなかった事実を口にすると、苦しかった。

 乗り越えられるはずだと思っていた過去は苦々しく、まだ忘れられそうにない。


「確かに、その後は有能な親友には嫉妬しましたよ。でもそれ以上に、怒って泣いたのは、親友が幸福な家族を持っていたことに対してです。今思えば、ないものねだりですね。家に帰って、母親に父親のことを言って。それまでぎりぎりで保たれていた家族は、一気に崩壊しました」


 幼かった亜莉香は、両親が離婚する最中だったことを知らなかった。

 別の女性と暮らす父親と、そんな父親と別れたくないのに不倫をしていた母親。両親の仲の良い姿なんて、見たことがない。家の中に笑い声が響いたこともなければ、片親でも家にいればいい方。両親がいなかった方が圧倒的に多い日々。

 どうして父親は別の女性と暮らしているのか。

 たった一言で、母親は変わった。笑みが消える瞬間は、目に焼き付いた。

 その時の母親の顔は、今でも忘れられない。感情のままに怒鳴り散らして、父親を捜した亜莉香を叱って、騒ぎを聞きつけた近所の人にも迷惑をかけた。

 だから、と亜莉香は話をまとめる。


「父親がいなくなって、母親もその後にいなくなりました。家族が崩壊する前から、私は一人で過ごす時間が多かったので、両親との記憶なんてないに等しいのです。笑い合った記憶もなければ、両親が私の名前を呼んだ記憶もないですね」


 そんな感じです、と話を区切って、振り返って立ち止まった。戸惑うトシヤが何か言いたそうで、何も言えずにいる。その様子を見て、亜莉香は申し訳なくなった。


「ごめんなさい。勝手に話して、聞いてもらって。楽しい話ではありませんでした」

「いや、なんか。こっちこそ、無理やり聞き出したみたいで、ごめん」

「トシヤさんが謝らないで下さいよ。私が話したかっただけで、それにほら、昔の話ですから、大丈夫ですよ」


 何が大丈夫なのか、亜莉香自身もよく分からないまま言った。無理やり笑みを作った亜莉香に、トシヤは遠慮がちに質問する。


「両親がいなくなって、一人で暮らしていたのか?」


 違うよな、と言いたげなトシヤの顔を見られない。

 嘘をつくのは簡単だけれど、それはしたくなかった。ありのままでいたいから、嘘はつきたくなくて、事実を述べる声が路地裏に静かに響く。


「一人でしたよ。両親がいなくても、私には三人で暮らすために建てられた一軒家がありました。父親が仕送りだけはきちんとしてくれたので、生活には困りませんでしたし、必要な時だけ顔を合わせました。元々両親がいなくても、私は一人で生活出来ましたから」


 話が止まって、視線が下がった。

 振り返れば、記憶の中に両親はいない。

 いつも傍にいてくれたのは幼馴染の親友。それ以外の友達を作ることもなかった。他の誰かに頼ることは出来なくて、必死に一人で暮らした。料理も洗濯も掃除も、出来るようになったのは当たり前のことだったに違いない。

 両親が帰って来る、なんて希望は最初の数日で消えた。

 仕方がない、と諦める以外の術を知らなかった。


 いらない子だったのだ、と誰かが言っていたのだ。


 だから亜莉香のことを誰も知らない場所では、必要とされる存在になりたかった。どんなことでもいいから誰かの力になって、お礼を言われることが嬉しかった。

 向かい合っていたトシヤが、亜莉香の名前を呼んだ。

 顔を上げれば、優しい笑みを浮かべたトシヤがすぐ目の前にいる。


「話してくれて、ありがとう」

「いいえ。私の方が…話を聞いてくださり、ありがとうございました…」


 首を横に振りながら、泣きそうになったのは、さりげなく亜莉香の右手を握って、優しく包み込んでくれるトシヤの左手が温かかったせいだ。

 口を閉ざした亜莉香に、トシヤは言う。


「早く帰るか。皆が待っている」

「…はい」


 亜莉香が頷けば、トシヤはゆっくりと歩き出す。

 一人でいることには慣れていたはずなのに、隣にトシヤがいてくれるだけで心の底から安心する。じわりと涙が零れそうになって、亜莉香はトシヤの手を強く握り返した。

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