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Last Crown  作者: 香山 結月
第5章 花明かりと薔薇
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79-4

 亜莉香の名前を呼ぶ声で、現実に引き戻された。

 ピヴワヌやネモフィル、ウイまでもが亜莉香の名前を呼んでいる。無意識に空いていた手で左目を覆っても、見えていた景色は頭の中の光景が消えてくれない。


 サイと話していた女性が、トウゴの母親であるナノカの声が頭の中で木霊する。

 幸せになるって、と彼女は言った。

 約束を交わしたサイとは出会い、ナノカはもういない。助けを求めた精霊は、サイを助けて欲しいのだろうか。今のサイは、幸せではないのだろうか。


 ぼんやりとした頭では何も答えられないまま、幸せの意味を考える。

 幸せを探している途中で、明確な答えなんて知らない。次から次へと望みが湧き上がった先で、それを全て叶えて幸せを手に入れられる確証もない。

 何度も瞬きを繰り返すうちに、視界が鮮明になっていった。

 声が耳に届いて、頬を引っ張られた。


「立ったまま寝るな」

「ちょっと!乙女の頬を引っ張らないで!」

「ばばあの頬を引っ張ったわけじゃないのに、いちいち騒ぐな!」

「五月蠅い!」


 ピヴワヌの手を叩き落としたネモフィルに、亜莉香は守るように抱きしめられた。頬を引っ張られはしたが、痛みはない。いつもよりも手加減をしてくれたようで、引っ張ったと言うよりは、つままれた程度。大袈裟に反論する必要はない、とネモフィルに言いたい。言いたいだけで言えないのは、ピヴワヌに噛みつく勢いがあるせいだ。

 声を出したところで、聞く耳を持ち合わせている様子。

 先程の光景を見せた精霊を探せば、少し離れた場所にいた。何かを聞くには遠い。呼び寄せようにも名前を知らず、あっという間に他の精霊に混ざって見失った。


 現実の時間は過ぎていない。

 その証拠に、ピヴワヌもネモフィルも通常とも言える喧嘩を続ける。亜莉香の変化に気付かず、亜莉香も何も言わずに黙ることに徹した。

 不意に一人で考えていたウイが手を叩き、明るく提案する。


「分かった。アーちゃんを黄瀬ちゃんの家まで連れて行くのは?ピーちゃんも顔見知りなら預けても安全だし、その間に私達三人で原因を探そうよ」

「「誰がこいつと!」」

「一緒にとは言ってないよ」


 即答したウイは可哀想になるくらい、二人に睨まれ身を縮ませた。

 これは亜莉香が間に入らないと収まりそうにない。何を言えば効果的か考え点くより早く、ピヴワヌが勢いよく後ろを振り返った。舌打ちをしたのはピヴワヌで、あら、と不思議そうな声を零したネモフィルと同時に言い合うのをやめる。


「私達と同じ道を通って、誰か来たみたいだね」


 呑気なウイの発言が気になった。

 誰か来るとしたら透かもしれない。それならそれで、この現状を打破する方法を思い付くことを期待する。せめてピヴワヌとネモフィルが喧嘩しないような話題を教えて欲しいと望めば、聞こえた足音は一つ。


「――アリカ!!!」


 聞き間違えることのない声に、亜莉香は振り返る。

 黒に近い焦げ茶の瞳と視線が交わり、時間が止まったように感じた。


 雪明かりでも、見間違えない姿がある。


 亜莉香達が通った森と里の境目に、ずっと会いたかった人がいる。


 近くの木に片手を当てて、真っ黒な着物に、黒の袴姿は見慣れない。羽織っている着物なしの格好は寒いはずなのに、全速力で駆け付けたせいで息が上がっていた。落ち着いた茶色の髪は亜莉香の記憶より短くなって、走ったせいで少し乱れているようにも見える。


「…あ」


 トシヤさん、と声が掠れた。


「アリカ」


 安堵した声で、もう一度名前を呼ばれた。

 泣き出しそうにも見える顔を、その声を、その姿を忘れたことなんてない。会いたくて、話をしたくて、名前を呼んで欲しかった。涙が浮かんで、夢でも見ているのではないかと思ってしまう。それくらい信じられなくて、亜莉香の足は動けない。

 息を整えながら、雪を踏み締めながら近づいて来るトシヤから目を離せなくなった。


「ほら、いつまで立っているの?」


 呆然と立ち尽くす亜莉香の背中を押したのは、ネモフィルだ。後ろに回って両肩辺りを押され、耳元で囁くように話し出す。


「自分の気持ちを偽らなくていいの。素直に生きていいの。言葉なんて要らない。貴女は貴女の心のままに――会いたかったのでしょう?」


 小さく頷くことも出来なかった。

 会いたかった。会ったら、何を言えばいいのか分からなかった。でも、と呟き、涙で視界が滲みかけた亜莉香に、ピヴワヌはたった一言を言う。


「行け」


 短く素っ気ない言葉が胸に響いた。


「考えるより動け。考え過ぎるな」


 行け、と繰り返された言葉で、手にしていた枝が地面に落ちた。

 踏み出した足は勝手に走り出し、顔は泣きそうだった。途中で駆け出したトシヤの胸に飛び込んで、着物にしがみつく。幻なんかじゃなかった。触れられる距離に居て、顔を埋めた亜莉香を抱きしめてくれる腕も本物だ。


「アリカ」


 はい、と返事をするのが精一杯だった。

 それ以上言えなくて、一緒に雪の上に座り込む。雪の冷たさより、抱きしめてくれる温かさで満たされる。腰と肩に回った腕の力は強くなって、ごめん、と小さな声がした。


「辛い思いをさせて、ごめん。傍に居るって約束したのに、破ってごめん。今更遅いかもしれないけど、どうしても謝りたかった。謝っても許して貰えなくても、ごめん」


 繰り返す謝罪に、何か言いたかった。

 何も言えなくて、代わりに涙が頬を伝った。押さえようと思っていた感情が溢れる。溢れた涙を流す度に、亜莉香の泣き声はトシヤに届いているはずだ。

 名前を呼ばれたのに、顔を上げられない。

 離れることも考えられない。


「帰ろう」


 降り注いだ声は、あまりにも優しかった。


「一緒に帰ろう」


 顔を見られず、言葉も出ない。必死に頷けば、亜莉香の気持ちは伝わった。

トシヤの名前を呼ぶことしか出来ない。伝えたかった言葉を一つも伝えていない。トシヤの腕の中にいると、今までの苦しさや悲しさなんて消え去ってしまう。

 分かったことは一つだけ。


 幸せは、今この瞬間だ。

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