79-3
随分と前にも、同じことがあった。
精霊が何かを見せてくれることがあるのを、すっかり忘れていた。驚いて閉じた瞼を開ければ、傍に居たはずの三人の姿が消えた。亜莉香は高台で立ち尽くして里を見下ろす。
灯の過去を知った後に、森を抜けて黄瀬と話した場所にいる。
空は晴れ渡り、鳥達が飛び交う。目下の里では畑を耕す人がいて、子供達が楽しそうに走り回って遊ぶ。里の家の数は大して変わらないが、青々とした葉が風に吹かれて飛んでいき、温かな日差しの穏やかな時間。
人々の声は亜莉香のいる場所まで届かなくても、誰もが笑っている。
幸せそうに、楽しそうに生きている人達がいる。雪の降り積もる隠れ里しか知らなかった。こんなにも温かで、ゆっくりとした時間が流れる里は平和そのもの。
いつまでも眺めていたくなれば、亜莉香の後ろを誰かが通り過ぎた。
勢いよく振り返ると、一人の女性がいた。
色素の薄い水色の髪を高い位置で一つに結び、腰まで伸ばした髪が揺れる。菜の花色の着物に、濃紺の帯と渋い黄色の帯紐。下駄を履いた女性は後ろ姿で、その先の木に向かって声を上げる。
「サイくん。またここにいたの?」
「…ナノちゃんこそ、何をやっているわけ?」
太い木の枝に、座っているサイの姿があった。
亜莉香が出会ったサイと、その姿形は変わらない。深緑のぼさぼさの髪に、明るいペリドットの緑の瞳。白い着物に桜色の帯、髪と同じ色の無地の着物を羽織って座っていた。
女性が両手で持っていた籠をサイに差し出し、受け取るように言う。
仕方なく籠を受け取って、女性は着物であることを気にせず木に登る。サイの隣まで行けば顔が見え、その口には菜の花をくわえていた。
もぐもぐと菜の花にしか見えない草を食べる女性に、顔を引きつらせるサイが籠を戻す。
「あのさ、それ生で食べるの。ナノちゃんくらいだからね」
「美味しいよ?」
「要らないよ」
籠の中の菜の花を差し出されて、サイは即座に遠慮した。
里を眺めるサイの横顔を盗み見し、女性は食べ終えてから話しかける。
「この場所、本当に好きだよね。見ているだけじゃなくて、ウイちゃんみたいに混ざればいいのに。案外楽しいかもよ?」
「嫌だね。黄瀬に鍬の使い方を習っても、何の役にも立たない。僕は見ているくらいで丁度いい。この土地の平和が続けば、それだけでいい」
サイの優しい笑みに、ふーん、と興味なさそうに女性は相槌を打った。退屈そうに宙に浮いている足を前後に動かし、黙っているサイとは対称的にじっとしていられない。
澄んだ水色の瞳は空を見上げ、深く長い息を吐く。
「…何か言いたいわけ?」
「サイくん、暇じゃない?」
「暇なのは僕じゃなくて、ナノちゃんだ」
「そう、暇なの。もう子供達と遊ぶ年じゃないけど、畑仕事を手伝おうとしても失敗するでしょう?家の手伝いもしなくていいと言われて、槍でも振り回そうものなら、私は戦わなくていいと皆が言うの。戦う場面は来ないからと、そんなこと誰にも分からないじゃない」
頬を膨らませた女性に、サイは返事をしなかった。それでも気にせず言葉が続く。
「私が誰の血を引いていようがいまいが、関係ない話のはずよ。継承すべきことだって、私一人の責任にしないで欲しい。血が途絶えたっていいじゃない。その時はその時、なるようになると思わない?」
顔を覗き込まれたサイは目が合い、嫌々ながら答える。
「僕には関係ない話だ」
「だって、サイくんは私のお父さんでしょ?」
数秒無言の空気になった。耐え切れなくなったサイが器用に枝の上に立ち上がり、ビシッと女性を指差し叫ぶ。
「誰がお父さんだ!」
「似たようなものだって、ウイちゃんも言っていたよ。私がこんなに小さい頃から、サイくんがお世話をしたって。里の皆も言っていたし、そろそろ認めてよ」
こんな、と言いながら女性が親指と人差し指で示したのは十センチ程。それは赤ん坊の大きさではない。口角を引きつらせたサイの怒りを亜莉香は感じても、女性はきょとんとした顔で首を傾げた。
「それとも、お母さんかな?」
「それも違う!勝手に僕の子供になろうとするな!」
「一緒の布団で寝たし、一緒にお風呂も入ったし」
「何年も前の話を持ち出すなよ!それはナノちゃんが僕から離れようとしなくて、仕方なくかっちゃんに命令されて世話をしただけの話だって。何度も言っただろ!」
「生まれた時から、私はサイくんの母性に魅かれたわけだね」
話が通じない相手に、サイの腕が段々と下りた。
代わりに頭を抱え、小さく呟く。
「…育て方を間違った」
「ほら、育てたのを認めた。私はサイくんのことを尊敬しているよ。いつも困っている時に力を貸してくれたし、私を置いて行かないでくれたし、一人にもしなかったでしょう?多分、出会った瞬間に、この人は何があっても私の味方だって感じ取ったの」
瞳を輝かせながら前を向いた女性を、サイは見下ろした。目が合いそうになって逸らし、空を見ながら言う。
「尊敬しているなら態度を改めてくれ」
「だってサイくんは、育ててくれた親であり、なんでも話を聞いてくれた友達だよ。友達に遠慮は要らない」
「言っていることが滅茶苦茶だな」
呆れつつも、サイの言葉は優しさに満ちていた。
そんなサイを見上げた女性は、寂しそうに見つめる。じっと見つめてから瞳を伏せると、深呼吸をして口を開いた。
「――決めたよ」
「…そうか」
「本当に、私が村を出ること止めないの?」
まるで女性は決断を止めて欲しいかのように言った。
サイは決して女性を見ない。里を眺め続けて、ああ、と答えた。
「ナノちゃんの人生、ナノちゃんが選べばいい」
「いつもそればっかり。親や友達に止められたら、私だって悩むのに。里に残ってもいいかもと思えるに」
段々と声は小さくなり、女性は下を向いた。
ため息をついたサイは枝に座り直し、素っ気なく言う。
「親も友達も同一人物じゃないか」
「サイくん以外に言えるはずないのを知っているくせに、意地悪」
「話は最後まで聞けよ」
不貞腐れた女性の声に、サイは言った。
ゆっくりと顔を上げた女性の顔を見つめ、笑みを零す。
「里の中に居て不安を感じるなら、一度外に出るのは悪くない。帰って来たくなったら、いつでも帰ってくればいいよ。僕は母であるローズの意思を受け継いで、シノープルを守る役目を果たす。常しえの契約に基づき、凬の護人に従う」
それでも、と言葉を止めて、見た目では年上にしか見えない女性の頭を撫でる。
「もしも悲しくなったり泣きたくなったり、途方に暮れて動けなくなったら、僕の名前を呼べばいい。君が僕を呼んだら、どこに居ても飛んでいく」
サイ、と囁くように彼女は名前を呼んだ。
その名前の意味を知らない亜莉香には何も感じ取れなくても、サイは満足そうに頷く。女性は泣き出しそうな目を擦り、それから花が咲いたような笑みを浮かべる。
「そんなこと言われたら、呼べないね」
「そうか?」
「そうだよ。だって私、絶対に幸せになるもの」
断言した女性の言葉に、サイまで声を上げて笑った。
嬉しそうに幸せそうに、頭を撫でていた手を離す。見つめ合う二人の間にあるのは、お互いを想い合う愛情なのかもしれない。それは親愛に近く、とても強い絆に見えた。
ねえ、と女性は小指を差し出し言う。
「サイくんも約束して、幸せになるって」




