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カーテンが靡いて、影が揺れた。
不意に後ろを振り返れば、当たり前だが誰もいない。ピヴワヌが亜莉香を連れて行くのは無人の部屋ばかりで、数えて三カ所目。廊下を使わず外から侵入することが可能なのは、精霊であるピヴワヌだからこその話。瞬時に姿を消したかと思えば部屋に侵入して、内側から窓の鍵を開けてしまえば、亜莉香でも部屋に入れる。
鍵など意味を持たない。
手にしていた本を閉じた亜莉香は、元の場所に戻して本棚を眺める。
最初の部屋は物置で、埃の被った壺ばかりが置いてあった。細かい模様のあるものから、変な形の壺まで大小様々あり、綺麗に並べられていた壺の一つを割りそうになった。咄嗟にピヴワヌが手を伸ばしてくれなければ、割れた音で人が来たかもしれない。
二つ目の部屋は、彫刻品の部屋。今にも動き出しそうな動物の彫刻から、実物大の男女の彫刻もあった。一つ目の部屋にも言えることだが、どこか不気味で怪しい部屋。何かに見られている気さえして、落ち着かなくて早々に部屋を出た。
三つ目の部屋は古い本棚に本が詰まり、使われていない寝室だ。
ベッドの下に何かないか探るピヴワヌが、探り出したのは汚れた布巾。舌打ちと共に後ろに投げて、他に何かないか探す。
「地味だな」
「分かっていたことですよね?」
「ここまで気配が探れないとは、思っても見なかったぞ。適当に歩けば精霊がいるかと思いきや、その姿形もない。一部屋ずつ探していたら、夜が明ける」
立ち上がり、ピヴワヌは着物の裾を払った。
「それで、そっちに何かあったか?」
「これと言って、気になるものはありません。まあ――あれは気になります」
本棚に目を戻し、亜莉香は一冊の本を指差す。
いそいそと傍にやって来たピヴワヌは本の背表紙を見て、呆れた顔をした。
「郷土料理の基本辞典…なんて、読んでいる暇はない」
「探し物とは関係ないと分かってはいるのですが、どんな料理があるのか気になって。ピヴワヌの好きな料理も載っているかもしれませんよ?」
「儂は食えれば文句は言わん」
そう言いながら、ピヴワヌが手を伸ばしたのは別の本だった。
色の名前と書かれた本を、一枚一枚丁寧に捲って読む。亜莉香も郷土料理の本を手に取り読みだせば、目の片隅で紙が一切れ落ちた。
落ちたのはピヴワヌが手にしていた本からで、亜莉香は腰を下ろして紙を拾う。
そのまましゃがんで紙を裏返せば、描かれていたのは一人の女性だった。
椅子に座って背筋を伸ばし、優しい笑みを浮かべた若い女性。水彩画で描かれた紙は黄ばんでいても、絵の具は色褪せていなかった。淡く、柔らかい筆先で描かれた女性の髪は深緑、腰より伸び毛先がはねている。
桜色の着物に、濃い紅の帯。緑の薔薇の髪飾り。
鼻緒が髪飾りと同じ色の下駄を履き、綺麗な緑のペリドットの瞳を持つ女性。
その面影は、ウイとサイに似ていた。
「…ローズだな」
「え?」
ピヴワヌも紙を覗き込み、ぼそっと呟いた。
「ウイとサイの、生みの親。正確に言えば親ではないのだが、あの二人に自らの魔力を分け与えた精霊。消えかけていた精霊に、魔力を与えて子供のように育てた変わり者で、凬の護人と最初に契約を交わしたのだ」
紙から目を離さずに、懐かしそうに言った。
ウイが自己紹介した時に出た名前を、亜莉香は思い出す。母なるローズの意思を受け継いだと、シノープルを守っていた精霊がいたと言っていた。
過去系の話に、遠慮がちに問う。
「ローズさんは…今は?」
「もう…いない。元々戦うのは苦手な奴だった。何もない所で転ぶし、儂とばばあの喧嘩の仲裁に入ろうとして、巻き添えをくらう間抜けだ。戦いの最中で魔力を使い果たして消えたと、儂は他の精霊共から聞いた」
淡々と語りながらも、ピヴワヌの瞳に悲しみの色が浮かんだ。
それ以上は聞くつもりはなかったのに、ふっと零れた笑みと言葉が続く。
「ローズは、誰よりも平和を願う精霊だった。楽しいことが好きで、いつだって笑顔で、ふらりとガランスに現れることもあった。用事もないのに儂から灯を遠ざけて、ローズには何度も嫌々街を案内させられたのだ」
ローズと名前を呼ぶたびに、親しみがこもっていた。
灯以外で初めて、ピヴワヌが気を許していた相手を見つけた気がする。差し出した紙を素直に受け取り、ローズを見つめる眼差しから読み取れるのは好意。
「ピヴワヌは――ローズさんが好きだったのですね」
「そうだな」
素直な返事に少し驚けば、ピヴワヌは紙から目を逸らさずに言う。
「馬鹿可愛い阿呆だったな」
「それ、褒めていますか?」
「最大級の褒め言葉だ。見た目は美少女だが、女としての胸が足りない。理想の姿になれないと嘆いては、酒が弱いのに飲んで酔っぱらう。性格はウイ寄りだが、頭の悪さはサイと同格で、よくばばあの魔法薬作りの邪魔をして爆発を起こしていたな。あれはあれで、見ていて飽きない奴だった」
昔を懐かしむ台詞が、相手を馬鹿にしているようにしか聞こえない。
仲が良かったのかもしれないが、相当な問題児にしか思えなくなってしまった。描かれた絵からは想像出来ない姿に、亜莉香は何とも言えない表情を浮べ、話題を変える。
「えっと…その紙、どうします?」
「捨てるのは勿体ないな。ばばあにやるか?」
「ネモフィルも知り合いなのですものね」
納得いく回答に相槌を打てば、いや、と小さな否定があった。
「ウイとサイに渡しても、すぐに失くすからな。それにしてもローズがよく読んでいた本に、こんなのが挟んであるとは…本ごと、ばばあにやるか」
落とさないように、ピヴワヌが本の途中に紙を挟んだ。立ち上がったピヴワヌを見上げて、亜莉香は首を傾げる。
「その本は、ローズさんの愛読書だったのですか?」
「そんな感じだ。僅かに違う色の名前を必死に覚えようとしていたようだが、すぐに忘れて儂に聞く。持ち歩いている姿は何度か見たが、無意味だったな」
本を片手に持ち、開けたままだった窓の外を眺めた。
「おかげで儂の方が、色の名前を覚えたな。あれは余計な知識だった」
「そういうことってありますよね。覚えたい本人より、周りに余計な知識がつく。私にも身に覚えがあります」
「そうなのか?」
意外そうな顔で振り返られ、亜莉香は料理の本を本棚に戻す。
これ以上、この部屋に居座るつもりはない。それはピヴワヌも同じで、お互いに何となく速度を合わせて窓辺に歩み寄った。
「子供の頃の話になりますが、透が魚の名前に興味を持った時期がありまして」
「ほうほう」
「図鑑に載っている魚の名前を憶え、近くの魚屋さんに行きました。けど覚えた魚の名前を当てられず、一緒に図鑑を眺めていた私の方が当ててしまうという…あの頃は役に立たない知識でしたが、今は夕食の買い出しで役に立っていますね」
「つまり儂が覚えた色の名前も、いつか役に立つな」
「いつでしょうね」
くだらない話をしながら、ピヴワヌの隣で亜莉香は笑った。
先に窓に足をかけたピヴワヌの真似して、窓の縁に乗る。落ちないようにカーテンにも手を伸ばせば、腰にピヴワヌの手が伸び、しっかりと抱えられる。
行くぞ、の掛け声と共に、本日四度目となる空中散歩が始まった。




