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Last Crown  作者: 香山 結月
序章 薄明かりと少女
39/507

08-5

 ユシアとモモエの待つ部屋に戻る途中で、亜莉香は立ち眩みに襲われた。

 疲れと今までの不安、それから寝不足が原因なのは明白で、少しの間だけ休ませてもらうことにして、空いていた部屋で休ませてもらうことにした。初日に通された部屋の二人掛けのソファに横になり、ほんの数分だけ、と目を閉じる。


 意識はすぐに遠のく。


 次に覚醒した時には、何故かトシヤとユシアの小さな話し声が、亜莉香の耳に届いた。


「ちょっと、起こさないように静かにしてよ」

「分かっている。それよりユシア、爺さんは?」

「外診中よ。トシヤこそ、どういう経緯で診療所に来たのよ。どうせ来るなら、もっと早くに来て欲しかったのに」


 苦々しく言ったユシアに、トシヤは言い返す。


「仕方がないだろ。俺は家に帰る途中でおっさんに捕まって、和菓子を買いに行くのに付き合わされたと思ったら、今度は奥さんの捜索。まさか、休診の札がある診療所の中で、出産が始まって、すでに子供が産まれているなんて夢にも思わない」

「確認してなかったけど、やっぱり扉に札かけてあったのね。アリカちゃんが来た時、後で確かめようと思って忘れていたわ」


 冷蔵庫を開く音と、グラスに氷と飲み物を注ぐ音がした。徐々に意識は覚醒して、名前が出たところで、亜莉香はそっと目を開けた。

 テーブルを挟んで、誰かが座っている。

 座っていたのはトシヤで、手に持っていたグラスを飲む前に亜莉香と目が合った。


「あ、やっと目が覚めた」

「…トシヤ、さん?」

「おはよう」


 おはようございます、と言って、亜莉香はゆっくりと起き上がる。

 ぼんやりとした頭で、結んでいた髪飾りを取り、ゆったりとした動きで結び直す。目を擦って、うとうとしていると、目の前にグラスが差し出された。


「アリカちゃん、よく眠れた?」

「はい…」


 頷いて、まだ寝ぼけている亜莉香は両手でグラスを受け取った。

 ユシアは空いていたトシヤの隣に、自分の飲み物を持って腰を下ろす。トシヤとユシアが黙って亜莉香を見ていると、何故かグラスを持ったまま、テーブルの一点を見つめて、全く動かない。

 数秒後、あれ、と亜莉香は首を傾げた。


「私、どれくらい寝ていました?」

「二時間ぐらい、かしら?」


 驚いてユシアを見れば、微笑みながら言う。


「相当疲れがたまっていたみたいで、ぐっすり寝ていたわよ」

「俺がおっさんと診療所に来た時はすでに爆睡していたよな。奥さんと生まれた子供見て、おっさんが嬉しさのあまり五月蠅いくらい泣き叫んでも、アリカは寝ていたな。あれ、結構な騒音だったけど」


 面白そうにトシヤが言い、亜莉香は頭を抱えて唸る。


「うぅ、そんなに寝るつもりなかったのに」

「寝不足だって、言っていたじゃない。最近、いつも私より遅く寝て、早く起きていたものね。そりゃあ、寝不足にもなるわよ」


 ユシアの言葉に、何も言い返せない。最近、とトシヤが腕を組んで尋ねる。


「そんなに忙しかったのか?」

「そんなに、とは思わないのですが。早くケイさんに頼まれた仕事を終わらせたくて、夜中に頑張っていたくらいなのですが」

「目が悪くなるわよ」


 ごもっともなことを言われ、話題を変えようと亜莉香は顔を上げた。


「それで、あの。モモエさんやワタルさんは?」

「奥の部屋で、子供の名前決めるのに騒いでいる。俺とユシアは避難して、この部屋に来たわけ」

「あれ、当分終わらないわよ」


 疲れた表情になったユシアが言い、トシヤも頷いた。

 亜莉香がお茶を飲んで一息つくと、トシヤは持っていた風呂敷をテーブルの上に広げた。


「お茶のつまみに、枇杷食うか?」

「なんでそんなの持っているのよ」


 呆れ顔のユシアが、丸くて綺麗な橙色の果物を一つ手に取る。

 トシヤが綺麗な枇杷の一つを亜莉香に差し出したので、おそるおそる受け取った。器用に皮をむいて口に放り込むユシアを真似して、亜莉香も皮をむいて食べた。口に入れると甘い果汁が広がり、美味しさのあまりに口に含んだままユシアとトシヤを見比べた。

 目を輝かせる亜莉香の様子にトシヤが吹き出し、亜莉香から顔を背けた。

 ユシアは優しく微笑み、亜莉香に問う。


「枇杷は初めて?」

「はい。美味しいですね」

「ここらへんだと、珍しいものじゃないのよ。トシヤ、これは誰に貰ったの?」


 笑い出した理由が分からない亜莉香とは違い、ユシアは隣に座り、笑い続けているトシヤの頭を叩いた。叩かれたトシヤは笑うのを止め、頭を擦りながら言う。


「八百屋の親父がくれた。アリカに渡す予定だったけど来ないから、俺が受け取って。ジャムを作るなら、もっと渡すってさ。どうする?」

「どうしましょう?このまま食べても美味しいですよ?」


 質問を質問で返せば、ユシアが、そうねえ、と話に入る。


「アリカちゃんなら、美味しくジャムを作れると思うわ。確かにそのまま食べても美味しいけど、美味しいジャムを作ってくれると嬉しいな」

「頑張って作りま――作るね?」


 敬語で話すのをやめるように言われていたことを思い出し言い直せば、ユシアはにっこりと笑った。うふふ、とユシアは笑い声を上げながら枇杷に手を伸ばし、亜莉香は何となく気恥ずかしくなる。

 瞬く間に数個の枇杷を食べ終えたユシアが、立ち上がった。枇杷で汚れた手を拭くタオルを持って来て、亜莉香に差し出す。ありがとう、と言ってタオルを受け取り、手が綺麗になると、タオルはユシアがテーブルの隅に置いた。

 亜莉香とユシアの様子を見ていたトシヤは、不思議そうに言う。


「アリカ、敬語やめたのか?」

「えっと…ユシアさんに対しては」

「何、トシヤ。羨ましい?でもごめんね、これは私の特権だから」

「どんな特権だよ」


 トシヤの疑問に答えず、ユシアはにんまりと笑う。それ以上はユシアが何も言い返さないと悟り、トシヤは興味がないと言わんばかりにユシアから視線を外した。


「それより、枇杷食わないなら、片付けるぞ」

「それより!?」

「いちいち、突っかかるな」


 呆れたトシヤが風呂敷を包み直す前に、ユシアは枇杷を数個抜き取った。その枇杷をタオルの横に置くと、トシヤは今度こそ枇杷を風呂敷で包み直す。

 さて、とトシヤが立ち上がった。


「今日はもう遅いから、八百屋に枇杷を取りに行くのは明日だな。今日はこれからどうする?アリカも起きたし、俺はそろそろ家に帰りたいけど」

「えー、折角だから。先生が帰るまで待たない?アリカちゃんを紹介したいし、トシヤも暫く会っていないでしょう?」


 ユシアの言葉に、トシヤは呆れた声で言い返す。


「爺さんには暫く会っていないけど。すぐに帰って来るならまだしも、いつ帰って来るか分からないのに待てない」

「それは分かっているけど…先生に顔ぐらい見せた方がいいとか思わないの?」

「いつも忙しいのは爺さんの方だから」


 きっぱりと、トシヤは言った。

 反論が出来ないユシアが、ため息をつく。


「その通りで、言い返せないわ。先生いつも予定より多く患者を診るから」

「アリカ、帰る支度ある?」

「いえ、何もないです」


 今にもトシヤが帰りそうなので、亜莉香も立ち上がった。引き止めたいユシアも渋々立ち上がり、悔しそうに言う。


「あと十分だけでも、待って欲しいのに」

「爺さんの場合はどこで誰に捕まっているか、予測出来ないだろ?それにルカとルイはもう家にいるだろうし、トウゴも家に着く時間だから帰らないと、数日前の惨劇がまた起こる」


 惨劇、の単語で思い出すのは、アンリと出会った日の夜。

 トシヤがケイの店に迎えに来てくれて、帰りが遅くなったアリカを待っていたのは、トウゴが滅茶苦茶にした台所。物が溢れ返り、食材が散らばり、見るも無残な台所に、アリカとトシヤは言葉を失った。

 本人曰く、料理をしようとした、らしい。

 どんな料理を作りたかったのか。それは本人すら分からない。

 あの惨劇を起こさないために、早く帰ろうとするトシヤの気持ちはよく分かる。


 亜莉香とトシヤが帰ろうとすれば、タイミング悪く診療所の扉の開く音が微かに聞こえた。一人分の足音が聞こえて、ユシアの顔が嬉しそうな顔になる。


「先生帰って来たみたい。ちょっと行ってくるわ」

「…嘘だろ」

「ちゃんと、挨拶してから帰りなさいよ」


 ぼそっと言ったトシヤの言葉を聞き流し、ユシアは意気揚々と部屋を出て行く。

 一瞬だけ眉間に皺が寄ったトシヤだったが、すぐに肩の力を抜いた。座る素振りを見せず、腕を組んで亜莉香を振り返る。


「挨拶したら、すぐ帰ろうぜ」

「そうですね。トウゴさんも心配ですが、ルカさんの様子も気になりますので」

「ああ、それもあったな。ルカの奴、トウゴと顔を合わせる度に敵意を剥き出しにして、ルイは火に油を注ぐ。あれ、どうにかならないかな」


 どうにか出来るのならどうにかしたいが、何も出来ない亜莉香は口を閉ざす。

 誰にでも社交的なルイとは対称的に、ルカは人によって態度が変わる。

 ルイと仲がいいのは周知の事実で、亜莉香とは少しずつだが話すようになった。トシヤとは喧嘩腰で話すこともあるが、基本はよく話す方で、魔道具の一件以降、ユシアには頭が上がらない。ユシアの命令で一緒に夕食を食べるようにはなったが、口数は少なく、トウゴと話している光景を見たことがない。

 馴れ馴れしくトウゴが話しかければ、すぐにルカが怒り出すのは一度や二度のことではなかった。


「ルカさん、なんでトウゴさんに対してだけ敵意を抱いているのでしょうか?」

「最初からあんな感じだったから、俺は分からない。アリカがルカに聞いてみたら?」

「教えてくれますかね?」


 自信のない亜莉香の質問に、さあ、とトシヤは返した。最初から期待されてはいない提案に、亜莉香は名案を思い付く。


「私より、ユシアさんが言った方が答えてくれそうではありませんか?」

「無理やり聞き出すなら、ユシアは有効だろうな」


 ですね、と言って、亜莉香は笑う。

 トシヤも一緒になって笑っていると、コンコン、と誰かが扉を叩いた。


 会話が止まって、二人は同時に扉を見る。

 真っ黒い帽子を被っていた老紳士が扉を開け、笑顔のユシアがその後ろにいた。亜莉香とトシヤの姿を確認して、老紳士は微笑む。


「待たせて悪かったね」

「お邪魔しています」

「えっと、初めまして」


 軽い口調のトシヤの後に、亜莉香はぎこちなく言って会釈した。

 顔を上げ、亜莉香はたれ目が印象的な老紳士を見る。

 地味な深い緑の着物に、ぼろぼろの下駄。風呂敷を左手に持って、被っていた帽子を外した。帽子で隠れていた白髪は薄く、見るからに優しそうな風貌だった。

 先生、とユシアが呼んで、老紳士の横に移動した。


「こちらが話していた、アリカちゃん。アリカちゃん、こちらが診療所の先生で、私達の育ての親」

「初めまして、アリカさん。ユシアとトシヤがお世話になっているようだね」

「いえ、お世話になっているのは私の方です。私はなんとお呼びすればよろしいですか?」

「私の本名は、ヤタと言う。先生でも爺さんでも、好きに呼んでくれて構わんよ」


 ほっほっほ、と独特の笑い声を上げた老紳士、ヤタのまったりとした話し方に、亜莉香は思わず笑みを浮かべた。愉快で楽しそうなヤタに、トシヤが呆れた声で言う。


「爺さん、相変わらずだな」

「そうかね。トシヤとはもう随分会っていなかったが、あまり変わっていないようで安心したよ。トウゴも元気かい?」

「元気だよ。あいつも相変わらず」

「それは何よりだ。健康が一番、笑っているのが一番だ」


 ほっほっほ、とまた笑い声を上げたヤタが壁際の机に真っ直ぐ進み、持っていた風呂敷と帽子を机に置いた。風呂敷を広げ、道具を片付け始めようとしたので、すかさずユシアが近づく。


「先生、片付けは私がやります」

「いや、自分のことぐらい自分で片付けないと」

「先生は片付けが苦手ですから、私に任せてくれればいいのです。それに、片付けよりトシヤとアリカちゃんと話してくださいよ。トシヤは早く帰りたいみたいなので」


 わざとらしくトシヤを振り返り、とげとげしくユシアは言った。

 ユシアの様子に気付かず、いやいや、と片付けをしようとするヤタを、ユシアは押しのけて代わりに片付けを始める。てきぱきと片付けるユシアに場所を取られ、やることがなくなったヤタは、一歩下がった。少しばかりユシアの様子を見ていたが、頭を掻きながら困った顔で振り返る。


「片付けを終えてから話そうと思っていたんだがね。ユシアに仕事を取られてしまった」

「爺さんが片付け下手なのは仕方がない」

「そうかね?私はこれでも、片付けが出来る人間だと思っているのだが」


 ふむ、と考えたヤタが、亜莉香とトシヤを見て首を傾げる。


「時間がないのかね?」

「もう、夕飯の時間だから。今うちにはトウゴと、それからあと二人いるって、ユシアから聞いているだろ?」

「聞いているとも。あとの二人には、未だに顔を合わせたことがない。今度連れて来たらいい、と言いたいところだが、それこそ時間がない。アリカさんに会えたのは幸運だった」


 しみじみと言ったヤタの、深い紺色の瞳に、亜莉香の姿が映った。

 見られている、と意識して、無意識に背筋が伸びた亜莉香に、ヤタは優しく問う。


「アリカさん、一緒に住んで苦労していないかい?」


 突然の問いかけに戸惑ったのは一瞬で、亜莉香はすぐに首を横に振った。


「全然、苦労していません。皆さん優しいので、苦労なんてありません」

「なかなかに癖の強い三人を育てた覚えがあるから、正直に話してくれて構わんよ」

「おい、爺さん。癖の強い三人でまとめるなよ」


 ヤタの言い分に納得できないトシヤが、小さな声で言った。ヤタの言葉が冗談なのか本気なのか分からず、亜莉香は素直な思いを口にする。


「本当に、苦労なんてないです。最初の頃は何も分からなくて、そういった苦労はありましたが、皆さんと一緒に暮らしていると毎日楽しくて、毎日があっという間で、すごく幸せで。それ以外の言葉では言い表せません」

「それは何より」


 ほっほっほ、とヤタは嬉しそうに笑った。


「三人共まだまだ子供で目が離せないから、アリカさんみたいな人がいてくれて、本当によかった。これからも、よろしくお願いします」

「いえ、こちらこそ」


 ヤタにつられてお辞儀をすれば、トシヤとユシアは子供扱いをされて顔が少し赤くなっていた。気まずいトシヤが、咳をして話に割って入る。


「そろそろ、俺ら帰るから。いいよな、アリカ」

「あ、はい。えっと…失礼します」


 もう一度、今度は軽く、亜莉香は頭を下げた。

 トシヤは一足先に扉に向かって歩き出し、亜莉香は急いでその後を追う。片付けの途中で振り返って、またね、と手を振るユシアと、もう少し何か話したそうだったヤタに見送られて、部屋の扉は静かに閉まった。

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