77-3
その声が、止まる。
鴉の羽ばたく音が邪魔をして、即座に反応したのはウイだった。消していた身に纏う気配が蘇り、一気に結界の中に閉じ込められた。亜莉香を守るように立ち上がって、その胸に抱え込まれる。
ベンチに置いてあった一升瓶が落ちて、割れた音がした。
何が起こったか分からない亜莉香を他所に、低い声でウイは言う。
「サイ、殺気を消して」
「おいおい、僕相手に睨むなよ。何もしてないだろう」
「私に嘘をつくなんて無駄だと思わない?」
静かに怒り、相手を寄せ付けない空気を肌で感じた。亜莉香を包み込む腕は温かく柔らかいのに、突き刺すような冷たい言葉。
地面に白い鴉が降り立って、可愛らしく首を傾げた。
「想像以上に、祭りを満喫していたみたいだな。ピーちゃんは?」
「買い物に行っている。サイの言う通り、私は今を満喫しているの。私の邪魔をしないで。今日の私の機嫌を悪くしたら、何をしでかすか分からないよ」
ウイを纏う風が現れ、鴉に向かって風が吹いた。
ふむ、と呟いた鴉が一歩踏み出した途端、その姿が変わった。
ウイと瓜二つの、少年が両手を上げて立っていた。
深緑の髪は、ぼさぼさだ。明るい瞳は宝石のペリドットを思わせ、夜に溶け込む黒い無地の着物を羽織っている。その下は白い着物であり、桜色の帯。両手を上げた姿は何もしないという意思表示のように見えるが、ウイの警戒は消えない。
呆然とする亜莉香を見るなり、サイと呼ばれた少年は片足を半歩下げ、左手も後ろに回した。右手は腹の辺りで拳を作り、深々と頭を下げる。
「会えて光栄です。緋の護人」
「そんなこと思ってもないくせに」
棘のあるウイとは対称的に、顔を上げたサイは人懐っこそうな笑みを浮かべた。
「いやいや、思っているさ。挨拶に来るのが遅れて申し訳ないな、とね。かっちゃんからの連絡があって、来るのが遅れてしまったのさ」
「かっちゃんの…?」
揺らいだ風は、ウイの心境を表す。
主の名は、時に精霊の心をいとも容易く乱す。目の前にいる精霊は姿こそ同じ年頃の少年だけど、油断してはいけないと、サイを見据える亜莉香は思った。
ウイに守ってもらわなくても大丈夫だと判断して、腕から抜け出す。
背筋を伸ばし、真っ直ぐに瞳を見つめた。
「サイさん、ですね?」
「そうですよ。緋の護人」
亜莉香より、少し背が高そうだ。誰にでも好かれそうな笑みが、余計に警告音を鳴らす。
「それで、ご用件は?」
亜莉香も作り笑いを浮かべ、強気な態度を取った。驚いたサイの目が丸くなる。すぐに取り繕った笑みに変わったが、その変化を見逃さない。
「それは勿論、先程も言ったように。緋の護人にご挨拶を――」
「それなら必要ありません。私は緋の護人と言われるほどの人間ではないのです。そう呼ばれたくもありません。私は亜莉香と言います」
改めて、と前置きして繰り返した。
「ご用件は?」
背中に添えられたウイの手が、亜莉香の勇気を奮い立たせる。
じっと見つめ、相手の出方を伺った。数秒固まったサイの表情は、あっという間に崩れ、腹を抱えて笑い出す。
「いいね!ピーちゃんの新しい契約者は面白そうだ!」
「おい、儂がいない間に我が主に話しかけるな」
気配も立てずに、サイの背後にピヴワヌが立った。その場にいた誰も驚かない。結界の中にいるせいか、誰も見向きもしないし気にしないのは、亜莉香にとって好都合だった。
ピーちゃん、と喜びながらサイが振り返るより早く、目に見えぬ速さでピヴワヌの腕が動く。腹を殴られたサイはその場に蹲り、ピヴワヌは気にせず亜莉香の元へ戻って来た。
「ほれ、これでも飲んで身体を温めろ」
「ありがとうございます」
「ピーちゃん、私の分は?」
「こっちにある」
ピヴワヌはウイにも竹筒を手渡した。
亜莉香が受け取った竹筒と同じではあるが、結んである紐が違う。蓋を開ければ熱い飲み物が入っていて、桃色の液体の上に可憐な桜の花びらが一枚。添えられていた紐と同じ色の飲み物は、仄かに桜が香る甘酒だ。
美味しい、と思わず零れた感想に、ピヴワヌは満足そうに微笑んだ。
隣で美味しいと声を上げたウイの飲み物からは、酒の匂いが漂う。
「相変わらず、ピーちゃんも酒好きなのか?」
「ああ、いたのか。サイ。見えなかったぞ」
「自分で殴って、何を言っているのかな?」
サイに向けて放たれた言葉は冷たく、ため息交じりの声は誰も気に留めなかった。
ピヴワヌの片手には、風呂敷に包んだ大量の食糧が見え隠れしている。もう一つ竹筒を持って、黒い紐の付いている竹筒を見下ろしたかと思えばサイに投げつけた。
「これでも飲んで、頭を冷やせ」
「どうせ酒だろう。僕は飲まない」
「買ったのは普通の甘酒だ。餡子入りで、それならお主も飲めるだろう」
鼻で笑ったピヴワヌに、サイは少し頬を膨らませた。地面に胡坐を掻いて座り直し、蓋を開けて匂いを嗅ぐ。
一口飲んだかと思えば、むせたサイは咳き込んだ。
「美味かろう。儂が買った普通の甘酒は、美味さが増すように杏酒を足した」
「酒入りじゃないか!」
「それもいいなー。私も飲みたい!」
持っていた竹筒を掲げながら、ウイがけらけらと笑った。悪びれなく言ったピヴワヌは、亜莉香の隣に堂々と座る。足と腕を組み、亜莉香の身に寄せて風呂敷を開いた。
中から出て来たのは、食べ物だ。
やけ食いと言って傍を離れただけに、その量が多い。
焼きそば、たこ焼き、焼き鳥に。唐揚げ、イカ焼き、焼きとうもろこし。じゃがいもバターまでは塩気のあるもので、大福、団子、林檎飴や苺飴は甘いもの。どれも二人分以上で、透明な容器の外まで匂いが広がる。
甲高い歓喜の声を上げたウイに、サイはげっそりとした顔をした。
「三人でも食べ過ぎの量だろ?」
「阿呆。これは二人分だ」
「私とピーちゃんの分だよね」
上機嫌になったウイがイカ焼きに手を伸ばし、迷うことなく口に運ぶ。ピヴワヌは風呂敷を脇に寄せて、焼きそばの容器を開けた。食べ始めてすぐに、さり気なく苺飴を回してくれる優しさに、亜莉香の心は和らぐ。
甘い苺飴を舐めながら、両脇の会話は続いた。
「もう少し行った先に、物見屋があるらしいぞ。食べ終わったら行くか?」
「いいねえ。扇の舞はやっていそう?」
「そこまでは聞いておらん。儂が聞いたのは物見屋があることぐらいだ」
やけ食いの食べ物を買っているうちに、ピヴワヌの怒りは収まったようだ。
安心して飴を舐めていると、ウイが亜莉香の顔を覗き込んだ。
「アリカちゃんも、扇の舞を見たいよね?」
「はい。出来たら、でいいのですけど」
「次の行き先は決定だな。それで考えたのだが、儂が巨大な兎の姿になって、野宿するなら文句は言わん。常にお主を守れるし、あの小娘のいる場所なら野宿も悪くない」
買い物している間に考えたのか、もぐもぐと食べながらピヴワヌは言った。
「いいのですか?」
「これから宿を探して、お主を無駄に歩かせたくもない。後は物見屋を見て、朝飯を買ったら小娘の所へ戻るぞ」
「それなら私も便乗しよう!アリカちゃん、いいよね?」
頷いた亜莉香に、ウイは両手を上げて喜んだ。
泊まる場所が決まると安心して、肩の荷が下りた。ピヴワヌとつまらぬ言い争いをしなくて済むし、ヒナの所に戻れるのも嬉しい。
亜莉香も笑えば、タイミングを見計らったサイが口を挟む。
「――で、いつまで僕を無視するつもりだ?」
割り込んだ声に、亜莉香は視線を向けようとした。
それを遮ったのはピヴワヌで、名前を呼ばれた。桜の甘酒を手渡すことになり、直後にウイが団子を差し出す。
「アリカちゃん、これ美味しいよ。食べてみて」
「無理に食べさせるな。我が主は少食だ」
「そうだよね。何なら、食べられる?」
「いえ…もう、本当に今日は十分です」
遠慮した亜莉香に、ウイが不満そうに唇を尖らせた。そんな顔されても食べられなくて、ピヴワヌは亜莉香の後ろから顔を覗かせる。
「そんなことより――」
「そんなことより僕を無視するな!」
癇癪玉が弾けたように、サイが急に立ち上がった。
流石に無視できない音量で、ウイは両耳を塞ぐ。亜莉香は驚いただけで済ませた。表情の消えたピヴワヌはウイに竹筒を寄越すように言い、受け取り口に含んだかと思いきや、サイに向かって吹き散らす。
その場から身を引いたサイの悲鳴が響き、亜莉香は同情してしまった。
「やめろ!酒を撒き散らすな!僕が苦手なのを知っているくせに!」
「騒ぐな。五月蠅いぞ。シノープルの名物兄妹、その二」
「その呼び方もやめろ!新しいピーちゃんの契約者!何か言ってくれ!」
「アリカちゃん、何も聞こえないよね?聞こえていても、それは風の音だよ」
「ウイ!?」
サイの味方はいない。
こうなってしまっては、亜莉香の口の出す状況ではなくなった。ピヴワヌが桜の甘酒を亜莉香に押し付けて、ベンチから立ち上がる。指を鳴らしながらサイに近づく笑顔のピヴワヌを、止めようとは思わない。
甘酒を飲みながら、亜莉香は黙って見守ることに徹する。
隣のウイは見ないふりを決め込み、大福を食べ始めた。
さて、と瞬く間に姿を消したピヴワヌがサイとの距離を縮め、その胸倉を掴む。背丈はピヴワヌの方が低く見上げて、サイの身体は僅かに宙に浮いた。
「儂の食事の邪魔をしたのは誰だ?」
「してないだろ!」
悲鳴に違いサイの叫び声の直後、手放したピヴワヌの回し蹴りは綺麗に決まった。




