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Last Crown  作者: 香山 結月
序章 薄明かりと少女
38/507

08-4

 出産の様子を、亜莉香はよく覚えていない。何も考える暇がなくて、ユシアに命令されて無我夢中で行動した。気が付けば赤ん坊が生まれていて、ユシアが抱きかかえる赤ん坊と目が合って、泣き出したい気持ちになる。


「生まれた、のですね」

「そうよ。良かった…無事に生まれてくれて」


 安心した表情を浮かべているのはユシアも同じで、無事に生まれた赤ん坊、女の子を見ようと、モモエが起き上がろうとした。ベッドの横に立っていた亜莉香は、急いで起き上がろうとするモモエの背中に腕を回し、その身体を支えた。

 起き上がって、ユシアから赤ん坊を受け取ると、モモエの瞳から涙が零れた。

 よかった、と小さな声を零す。


「本当に、よかった。この子が生まれてくれて」

「可愛い、女の子ですね」


 亜莉香の言葉に、モモエが嬉しそうに頷いた。


「女の子だから、私に似て成長してくれると嬉しいわね。あの人に似たら可哀想」

「そんなこと言ったら、ワタルさんが可哀想ですよ」


 そうね、と赤ん坊から目を離さず、モモエが優しい声で言った。

 亜莉香はモモエと一緒に赤ん坊を眺めて、小さな赤ん坊の手に右手を伸ばす。ぎゅっと握った手は小さくて、温かい。泣き止んだ赤ん坊が今にも眠りそうで、亜莉香がそっと右手を離そうとすれば、小さく身体を動かした。

 亜莉香とモモエの目が合って、どちらかともなく笑みを零す。

 ベッドを挟んで亜莉香とは反対側に立っていたユシアは、一部始終を見守っていた。静かに後片付けを始め、道具を持つと微笑む。


「私は後片付けをしてきます。アリカちゃん、二人の傍にいてあげて」

「私も手伝います」

「いいのよ。すぐ戻って来るわ」


 すぐにその場を立ち去ろうとするユシアの背中に、待って、とモモエが声を掛ける。


「ありがとう、ユシアちゃん。本当にありがとう」

「…いいえ。これが私の仕事です」


 繰り返されたお礼に、ユシアは遠慮がちに目を伏せ、失礼します、と一礼した。

 ユシアが部屋から出て行くと、亜莉香は置いてあった椅子に座った。寝息を立て始めた赤ん坊を起こさないように、小さな声で話し出す。


「ユシアさんが戻って来たら、ワタルさんを探して来ますね。きっと、モモエさんがいなくなって心配しています」

「そうしてくれると、嬉しいわ。あの人、まだ家に帰っていないといいけど」


 ふう、とモモエは息を吐いた。慈愛に満ちた眼差しで赤ん坊を見つめ、言葉を付け足す。


「もし家に帰っていたら、私がいなくて発狂しちゃうかも。私を心配して、周りに迷惑をかけていないといいけど」

「それなら、今すぐ探しに行きましょうか?」

「いいのよ。アリカちゃんは少し休んで。大変だったでしょう?」

「私より、大変だったのはユシアさんです。私はユシアさんの言う通りに動いていただけで、モモエさんを診療所に連れて来ることしか出来ませんでした」

「アリカちゃんが見つけてくれなかったら、私は今ここにいないわ」


 ありがとう、とモモエは涙を浮かべる。


「何度も繰り返すことになるけれど、ありがとう。私と赤ちゃんを助けてくれて」


 ありがとう、の言葉が亜莉香の心に染みこんだ。いつもみたいに、いいえ、の一言を言おうとして、止めた。代わりに素直にお礼を受け取って、亜莉香は笑う。


「どういたしまして。お役に立てて、嬉しいです」

「今度、今日のお礼に、アリカちゃんとユシアちゃんには何か贈るわね。何か欲しいものとかないかしら?」

「そんな、要りませんよ。いつもパンをたくさん貰っているのに」

「あれはいつも買ってくれるお礼なのよ。決めた、絶対に今度お礼をするわ」


 何がいいかしら、と楽しそうなモモエは、遠慮したい亜莉香を見ていない。赤ん坊に夢中で話しかけているので、ワタルを探しに行こうか、と立ち上がる。


 立ち上がったタイミングと同時に、別の部屋から大きな音がした。

 ガシャン、とガラスの割れた音に、亜莉香は驚いて扉を振り返る。


「何でしょう。私、見て来てもいいですか?」

「ええ、私はここにいるわ」


 行ってきます、と言って、亜莉香は急いで部屋を飛び出した。






 廊下には誰もいない。モモエがいる部屋とは別に、開いていた扉が一つだけあり、亜莉香は部屋の中を覗き込んだ。

 壁一面の棚と、その棚の中に形の違う瓶が入っている。部屋には小さなテーブルが棚の隅に置いてあり、そのテーブルの傍でユシアは背を向けて座り込んでいた。床には割れた瓶と、中に入っていたと思われる液体が散らばっている。

 テーブルの上にあったタオルを手に取って、亜莉香はユシアの隣にしゃがんだ。


「ユシアさん、大丈夫ですか?」

「…大丈夫、よ」

「ユシアさん?」


 床を拭いてから、亜莉香はユシアを見た。呆然とした顔で、ユシアは座りこんだまま動こうとしない。両手は袴の裾をぎゅっと握りしめ、微かに震えている。

 亜莉香がユシアの肩に手を伸ばせば、ユシアは息を深く吐いた。


「モモエさんは?」

「部屋で待っています。私はユシアさんが心配で、様子を見に来ました」

「そう…」


 疲れ果てた顔のユシアが、割れた瓶の破片にゆっくりと手を伸ばした。危なっかしい手つきのユシアを止め、亜莉香が黙って欠片を集める。

 欠片を集める亜莉香に目を向けたユシアは、視線を下げた。

 水滴が、欠片の間に落ちる。ユシアの頬に流れる涙に気が付いて、亜莉香はユシアの名前を呼んだ。名前を呼ばれてもユシアは顔を上げず、か弱い声で話し出す。


「大丈夫だと思ったら、気が抜けてしまったみたい」

「そう、でしたか」

「先生がいないのに出産をすることになって。無我夢中で、もっと経験があったら良かったのに、なんて何度も考えた」


 語り出したユシアの邪魔をしないように、亜莉香は静かに手を動かす。


「怖かったわ。もし、私のせいでモモエさんと生まれて来る子供が死んでしまったら。どちらかを、助けられなかったら。私は…怖くて仕方がなかった。だから無事に二人を助けられてよかった」


 ずっと溜めていた気持ちが溢れ出して、涙を拭いながら、ユシアは言った。

 亜莉香がユシアの肩にそっと手を伸ばせば、気を張っていたユシアの身体から力が抜けた。肩に寄りかかったユシアが、声を殺しながら泣き出す。

 ユシアが泣いて、モモエも生まれた女の子も助かったのだと、改めて感じた。

 ぽつりと、亜莉香は言う。


「ユシアさんは、凄いです」

「…何が?」

「いつだって誰かを救って、助ける力を持っていて。最初に出会った日には私の怪我を治してくれて、今日はモモエさん達を救った。私にはないものをたくさん持っています」


 羨ましい、と言えば、ユシアは泣き止んで顔を上げた。


「何を言っているのよ!」


 突然の大きな声に、亜莉香は驚く。

 ユシアは気にせず、亜莉香に向き直る。勢いよく肩を掴んで、亜莉香の瞳を見つめた。


「アリカちゃんだって、私にはないものをたくさん持っているじゃない。美味しいご飯が作れて、気遣いが出来て。皆に好かれている」


 自信満々に言ったユシアに、違う、と亜莉香は声を絞り出した。


「私は、人から好かれるような人間じゃ――」

「ないはずが、ないわ。だって、私はアリカちゃんが大好きだもの」


 亜莉香の言葉を遮って、ユシアは言った。好意を直接向けられるのに慣れていなくて、戸惑いが増す。諭すように、ユシアはゆっくりと話し出す。


「アリカちゃんがいると、気が抜けて泣き出しちゃうくらい私は安心するの。隣にいてくれると、どんなことでも大丈夫な気がするの。一緒にいるのが楽しくて、嬉しくて、私はアリカちゃんと友達になれてよかった、と心の底から思っているわ」


 ユシアは決して亜莉香の目を逸らさない。


「私は、今のままのアリカちゃんが大好きよ。きっとこれからもずっと、気持ちは変わらないの。だから、人から好かれるような人間じゃない、なんて言わないで。アリカちゃんを好きな人は私以外に、たくさんいるわ」

「そんなこと――」

「何でも否定しないで」


 必死な祈りが、心に響いた。

 そんなことを、言われる日が来るとは思っていなかった。今度は亜莉香が泣きそうな気持ちになって、目頭が熱くなる。


「それが事実なら、嬉しい…です」

「もう、信じてよ!何なら、今から色んな人に聞きに行く!?」


 頬を膨らませて、ユシアが言った。突拍子もない提案に耐え切れず、亜莉香は着物の袖で顔を隠して笑いたいのか、泣きたいのか分からなくなった。

 ユシアはますます頬を膨らませ、顔を赤くしながら亜莉香の肩を揺らす。


「そんなに笑わないでよ!恥ずかしいじゃない」

「ちょ、ユシアさん!揺らし過ぎ、です!」

「そう言えば、敬語!そろそろ無くして話してよ!」

「今それを言いますか?」


 ますます笑う亜莉香と目が合い、ユシアも笑みを零すと、五月蠅いくらいの嬉し泣きの笑い声が部屋の中に響いた。

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