75-6
ウイ、と小さく亜莉香は繰り返した。
得体の知れない少女は微笑み、満足そうに頷く。その次の言葉が喉から出なければ、亜莉香の後ろから焔の塊が飛んで行った。派手な音がしたのは行き止まりに当たったせいで、攻撃を受けたウイの姿はなかった。
代わりに白い鴉が一羽頭上で飛び、普通の鴉のように鳴いた。
「さっさと消え失せ、相方の元へ帰れ」
「酷い言い草。ねえ、ここで変に目立ちたいわけ?」
ウイが指すは、路地の出入口。
細い路地をちらほらと何事か覗く人がいた。注目は集めたくない。逃げ場のない場所で立ち止まるのは危険で、ピヴワヌの片手に焔の塊が浮いていた。ウイに戦う気がないのは明白であり、亜莉香も穏便に済ませたい。
思い切って踵を返して、ピヴワヌに言う。
「行きましょう」
「だが――」
「木蓮ちゃん、葛くん。それでいいですよね?」
怯えて青ざめていた二人に、亜莉香は出来るだけ優しく言った。名前を呼んだからこそ、ピヴワヌがその存在を思い出す。舌打ちと共に焔を消して、木蓮と手を握ってくれた。震えているのは葛も同じで、名前を呼んで安心させる。
少し迷ってから手を握るか提案したピヴワヌに、葛は首を横に振った。
けれども木蓮の身体にくっつき、硬直しているようにも見える。
ヒナを落とさないように、亜莉香は腕に力を入れ直した。葛の傍に行き、もう一度、葛の名前を呼んだ。恐怖の色が浮かぶ目を見て、傍に寄り添い囁く。
「大丈夫。大丈夫ですよ」
着物越しでも触れた小さな身体が、深く息をするのが伝わった。
木蓮の顔も深呼吸をして、その表情に赤みが戻る。ピヴワヌに促され三人が歩き出せば、鴉は亜莉香の顔の隣を飛んだ。
「白い鴉を引き連れたくないのですが?」
「大丈夫。私の姿は、誰にも見えていないから」
広げた羽がぶつかりそうで、首を傾げた。
付いて来るので仕方がなく、三人の一歩後ろを歩く。明るい路地の人混みに紛れても気分は晴れず、ピヴワヌが何度も後ろを振り返るのも気になった。
「どこ行くの?」
「お医者さん」
周りに聞かれても不自然じゃない程度に、短く返した。
ふーん、と興味があるのか、ないのか。分からない相槌をしたかと思えば、今度は前を歩くピヴワヌの隣を飛ぶ。邪魔そうに腕で払われても気にせず、ウイは問う
「誰か怪我?」
「違う」
「じゃあ、病気?」
「それも違う。儂に話しかけるな」
苛立ちながらも返事を返すピヴワヌは律儀で、ウイは肩に止まろうとして叩かれた。それでもめげないウイに足を止めたかと思えば、目にも見えない速さで鴉の首を掴む。
ぐへ、と間抜けな声が聞こえたのは、亜莉香とピヴワヌ、木蓮と葛だけに違いない。
何事もなかったかのように腕を下ろし、歩き出したピヴワヌに、木蓮と葛は感動の眼差しを向けていた。ピヴワヌが腕を振る度に揺らされ、騒ぐウイは五月蠅い。
「ちょっと!前より容赦なくなったでしょ!」
「知るか。ついて来るなら、医者の所へ案内しろ」
小声ながらも鴉を睨みつけたピヴワヌは、大層ご立腹だ。
逃げ出そうにも身体が動かなかったウイが、力尽きて頭を下げた。何度か唸った後に、どうやっても逃げられないことを悟る。
「どんな医者が希望?貴族しか相手にしない金の亡者と、金さえあれば何でもしてくれる闇医者。貧乏で腕はいまいちだけど、優しく庶民に頼られる医者などなど」
「ろくなのがいないな」
「それは知っていた事でしょ。だってここは、表面だけの人間が多いもの。誰もが仮面を被って偽り、本当に力のある者や精霊が外に出て行くのは必然」
淡々とした声は悲しみが滲んでいた。
歩きながら亜莉香も辺りを見渡せば、精霊の姿が少ない。楽しそうに風に吹かれて笑う精霊も、花に寄り添う精霊も、水辺があれば喜ぶ精霊達の姿が、亜莉香の知っているガランスやセレストの街より極端に少ない。
人は変わらずとも、普通の人には見えない景色が違う。
前を向きつつも、ピヴワヌは言った。
「精霊の数、減ったな」
「ここ二十年でね。それは仕方がないことだもの。ねえ、どんな医者がいいの?ちゃんと教えてくれたら、私だって答えるよ。だって私、ピーちゃんのことは嫌いじゃないもん」
それは本心に聞こえた。それはピヴワヌも同じで、即座に心に声が響く。
【どうする?】
【ピヴワヌのお好きなように】
目を合わせずとも、亜莉香は即答した。
ピヴワヌは人の流れに沿って歩くのをやめ、方向転換して細い路地に入る。人の騒がしさが聞こえなくなるまで進み、誰もいなくなったのを確認して、足を止めた。
昼間でも薄暗い。人が十分に通れる幅はあり、ヒナを下ろすように指示される。
亜莉香がヒナを壁に寄りかかかるように座らせれば、人の姿に戻ったウイが前に出た。ピヴワヌも傍に来て、亜莉香は大人しく後ろに下がる。見守るしかないと思えば、同じく後ろにいるよう言われた葛が亜莉香の手を握り、木蓮も近くに来た。
「二人共、ごめんなさい」
腰を落とし、木蓮と葛と同じ目線にする。
「私達の方が二人を巻き込みました。折角、街を散策しようとしたのに、怖がらせもしてしまいましたね」
「気にしてないです。僕達だけでは街を回れないし、早くお医者さんが見つけて、目を覚まして欲しいです」
「それに――怖かったのは、あの人」
亜莉香に気を遣った葛の横で、ウイを凝視する木蓮が言った。
「ピヴワヌ様は怖くないけど、あの人は怖い。怒らせては駄目な人。怒らせたら最後、誰も止められなくなる人。そんな気がする」
「木蓮の直感は鋭いから、多分当たります」
「多分じゃない。よく当たるの」
いつもの調子に戻り始めた木蓮に、ほっとした。
亜莉香が微笑んでいると、視線に気付いて目を逸らされる。ふてくされたように顔を背けられ、そんな木蓮を見て、葛は微かに笑みを浮かべた。
ピヴワヌに名前を呼ばれ、亜莉香は立ち上がる。
「ちょっと、良いか?」
「はい」
頷き歩き出そうとすれば、葛が強く手を握った。置いて行かれたくないらしい。木蓮も同じだ。三人一緒に近くに行き、木蓮と葛は亜莉香の後ろに少しでも隠れる。
ピヴワヌは立ったまま腕を組み、片膝をついたウイが顔だけ亜莉香に向ける。
「もう何日も、目を覚ましていないのね?」
「そうです」
「声をかけても返事はない。怪我もしていない。このまま心を閉ざして、目覚めないつもりかもね。これじゃあ、人間の医者に見せても意味がない」
途中でヒナに視線を戻し、ウイは深いため息をついた。
「目を覚まさせる方法は?」
「私は医者じゃない。けど、この子に関して何かあると、かっちゃんが困るの。かっちゃんがいれば何か聞けるけど、連絡来てないからなー」
語尾を伸ばしたウイの、まるでヒナを知っているような言い方に違和感を覚えた。それから繰り返される、かっちゃん、の単語。
亜莉香の疑問は、ピヴワヌの質問が答えになった。
「自分の主の行方ぐらい、探せんのか?」
「無理。精霊より逃げ早いって、あり得ないよね?」
「知るか」
「でも、今日は街に帰って来ているかもしれない。年に一度の祭りだし、ここ最近は領主の家を気にしていたから、何か仕掛けることを考えていそう」
ふむふむ、と何やら考え込むウイの言葉が、亜莉香の心に引っかかった。
年に一度の祭り。街の至る所にあった風船。
思い浮かぶ祭りは一つで、それが行われるのは鳥待月。一年の始まりから、四番目の月。桜の花を見ていないから考えないようにしたかったが、もう目を背けられない。
「あの…ウイさん。全く関係のないことを聞いてもいいですか?」
遠慮がちな亜莉香の声に、ウイは笑顔で振り返った。
「何?」
「今日って、いつですか?」
「鳥待月の半ば。風船祭り当日。それ以外に、なんて答えればいいかな?」
聞き返された質問に、顔が引きつった。
今の亜莉香の心情は、ピヴワヌにしか分からない。春だとは思っていたが、それはつまり、二カ月近く、トウゴやフルーヴに音沙汰なしの状態だ。
偽物の灯が居たのも二か月前の話で、トシヤと会ってない期間も同じ。
二か月も経っているなんて聞いてない。亜莉香にとっては数週間。意識を失っていた時間を含めないと、感覚的にはもっと短い。二か月もあれば、灯が居なくてもトシヤの隣に別の女性が現れてもおかしくない。元々、街の人達に好かれていたトシヤだ。好意を寄せる人がいても不思議じゃないし、今の亜莉香は貰った簪もない。
こんなに長い間、連絡をしなかったことはなかった。
少なくともガランスに来てからは、トシヤを含む人達に何も言わずに姿を消したことはない。見放されないかとか、偽物の灯とは別の意味で忘れられていないかとか。
次々と押し寄せる不安に亜莉香はしゃがみ、どうしよう、と項垂れた。




