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翌朝、長老の家の中に探していたものはあった。
シノープルへと続く扉で、話に聞いていた通り壊れていた姿見。大きくひび割れて、一つだけ小さな欠片がない。残った割れた欠片が映す景色が一つ一つ違い、数秒ごとに移ろう景色は様々だ。
道端で咲く花々、空高く舞い上がる烏。広大な畑に植えられた作物や、花が咲いたばかりの果実園。どの景色にも、人の姿は映らない。
姿鏡を覗き込んでいた亜莉香に、後ろから声をかける人がいた。
「面白いものはあったかな?」
部屋の隅の椅子に腰かけ、一部始終を見ていた長老は言った。朝早くから黄瀬に案内された家は、長老と奥さんが二人で暮らしていた。どちらも随分と年老いて、何もかも悟ったように出迎えてくれた。
奥の部屋にいるのは亜莉香とピヴワヌ、それから長老だけ。
「この景色は全てシノープルの街のどこか、なのですよね?」
「そうだ。元々シノープルの領主の家と繋がっていた。ひっそりとした物置で、誰にも気付かれなかったのだが」
その先は黄瀬に教えてもらっている。
壊れてしまった姿見に視線を戻そうとした亜莉香と違い、隣にいたピヴワヌは訊ねた。
「この里に戻ってくることは、本当に難しいのだな?」
「繋がっている先は数分ごとに変わる。道標がなければ、その短い時間を見つけるのは精霊殿でも難しいだろう。ひび割れた隙間から出入りするにしても、子供や小柄な女性でなければ、通れない道になってしまった」
ゆっくりと、姿見を見た長老は悲しそうに言った。
直せればいいのにと思っても、亜莉香には術がない。扉を直す時間をかける時間も、使える魔法もない。
何も言えずにいた亜莉香に、長老は慰めるような眼差しを向けた。
「人の子が気に病むことではない。この里のことなど気にするな。冬が永遠に続こうが、人がいなくなろうが、それを背負うべきは人の子ではない」
さて、と言いながら、立ち上がった。椅子の脇に置いていた杖を片手に歩き出す。亜莉香の目の前、姿見を正面から見ると愛おしそうに撫でる。
「里のことは里の者が手を下す。外へと続く扉を直すにしても、冬を終わらせるにしても。人の子よ、出会い頭に怖がらせて申し訳なかった」
振り返った長老に頭を下げられ、驚いた声が出た。
「謝らないで下さい。急に現れた私が悪かったのです」
慌てて首を横に振り、それに、と落ち着いて言葉を重ねる。
「黄瀬に色々と助けてもらいました。寝泊まりする場所や食事を用意してもらったり、里のことを教えてもらったり。たった数日でしたが、忘れられない時間に感謝こそあれ、謝罪は要りません」
「そうか」
顔を上げた長老の表情が和らぎ、亜莉香は安心した。
別れが訪れる時に、気まずい空気は嫌だ。謝罪も同情も、お互いに失くす。
部屋が静かになったかと思えば、家中に響き渡る子供の声がした。
元気いっぱいの女の子の声に話しかけるのは、席を外していた黄瀬だ。勢いよく部屋の扉が開いた。足で扉を開けた黄瀬は両脇に子供を抱え、心底疲れた表情で呟く。
「うるせぇ」
「僕は静かです。兄貴」
「私だって静かじゃない!」
されるがまま抱えられている男の子と違って、女の子は喚きながら喋った。あからさまに女の子の声の音量が大きくて、そっと男の子は耳を塞ぐ。
二人とも白っぽい髪を持ち、ピヴワヌより幼い。
女の子の方は、白にほんの少しの茶色を混ぜたような色。猫のように丸い瞳は、左右の色が違う。爛々と輝かせている右が緑で、もう片目が深い黄色。可愛らしく華やかな花柄の着物に紺の帯を巻き、赤い鼻緒の下駄を履く。
対して男の子は地味だ。女の子のように白っぽい髪ではあるものの、白に一滴の黒が混ざった色。瞳の色は肌より少し濃い色で、灰色の無地の着物に、黒の帯。黒い鼻緒の下駄を履いて、亜莉香を見た。
「こんにちは。お姉さん」
「こんにちは?」
「精霊様もこんにちは。つる草の葛と書いて、葛と言います」
抱えられているにも関わらず、頭を下げた男の子は礼儀正しい。
「ちょっと葛!私より先に挨拶しないでよ!」
「関係ないよ。目上の人には礼儀を尽くせと、僕は教わった」
「目上じゃない!たった数十年しか生きていない人間なんて、私達より年下よ!私達の方が倍の時間は生きているの!」
言い返した女の子の言葉で、見た目に騙されていたことを知る。そんな気はしていたが、どちらも七歳前後のように見えて、実際の年齢は違うようだ。
ビシッと亜莉香を指差して、女の子が叫ぶ。
「さあ、名乗るがいいわ」
「いや、さっき俺が教えたよな。亜莉香にはさんを付け、精霊殿はピヴワヌ様と呼ぶように。木蓮、忘れたのか?」
葛だけ床に足を付けることになり、黄瀬が空いた手で拳を作る。笑っているが怒りを隠しきれない顔に、怒られている女の子は頬を膨らませる。
膨らんだ感情の吐口は、黄瀬ではなく亜莉香に変わった。
息を思いっきり吸ったかと思えば、亜莉香に向かって口を開く。
「何よ、その…可愛くない格好して!全然似合ってないのよ!」
「あれ、俺の母親の形見な。それ以上悪く言うなら、今度こそ俺の拳が頭に落ちるぞ?」
「幼気な子供の頭を叩かないで!!」
「自分で幼気言うな」
黄瀬の重たい一撃によって、女の子は黙った。
正確に言えば黄瀬に抱えられたまま頭を押さえて、痛みを必死に耐えている。痛くないと繰り返す泣き声は、聞かなかったふりをして良さそうだ。
深いため息をついた黄瀬は、女の子を指差した。
「この野蛮人は木蓮。一般的な五画の木に、蓮の花の蓮。それで、木蓮。木蓮と葛の二人だけが、里の外に出たことがないわけだ」




