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真っ直ぐに里に帰りたかった亜莉香の意見は、黄瀬の勢いに負けた。
ここまで来たら、最後に太一に語ってもらいたいのだと、泣きつかれた。本を閉じるのを阻まれ、提案者である黄瀬は最後まで太一になることを望んだ。亜莉香には十分過ぎる時間だったのに満足しない黄瀬の姿は、もう既にない。
亜莉香と肩にいるピヴワヌが立つのは、黄瀬の家の玄関前。
指示されたのは家の中に入り、二階へ向かう。亜莉香が借りている部屋に行けば太一がいると言われ、部屋に入ったら何も言わなくていいとまで指示された。
その手前で何を喋ろうが、問題はない。
二階へと続く階段を上りながら、ピヴワヌは話し出す。
「こんな所に来ずに、さっさと帰りたい」
「そうですね。今頃、どれくらいの日数が過ぎているのか…想像も出来ないです」
「一ヶ月以上過ぎている可能性もあるぞ。お主が戻って来た時、ばばあが勝手に雪を見て判断しただけだ。儂がちゃんと確認していれば」
後悔するピヴワヌが小さな手で、亜莉香の肩を叩く。痛くはないが気持ちは伝わり、ピヴワヌの感情は亜莉香に移った。
「いえ。私がもっと早く戻っていれば、こんなことにはならなかったのに」
「お主のせいでもあるまい。あれか、外と閉鎖された里だから、水鏡も通じなかったのか?儂が来られたのは主が呼んだからで、ネモフィルも契約している透の元へは帰れても、里には戻って来られんかもしれんな。なんせ永遠に冬の里だ」
笑い声を出しても、ピヴワヌの顔は笑ってない。
「ずっと冬だと…桜が見られませんね。毎年お花見を楽しみにしていたのですが」
「春を考えたら、酒を飲みたくなるではないか。桜と月を眺めながら、シンヤの所で夜桜を見ようと思っていたのに」
「そんなことを考えていたのですか?」
「春キャベツの肉包み、菜の花ご飯。土鍋で作る桜鯛の鯛めし、筍の刺身に焼き物、煮物もいいな。話すだけで、腹が減ってきた」
「私は大量の苺を煮詰めてジャムにして、贅沢なタルトが食べたいです。牛乳と合わせて飲み物でも、定番の苺大福でも。生の苺を、どら焼きに挟んでも美味しいですよね」
黄瀬がいないのをいいことに、お互い好き勝手に言った。
食べ物の話をしたのは悪かった。お腹も減り、春が恋しくなる。
「帰ったら、沢山のご飯を作りますね」
「当たり前だ。食べられなかった分、腹が膨れるまで食べるぞ」
「精霊って、食べなくても問題はないのに?」
それについては何も言われず、どちらかともなく笑った。笑い声が、春への希望が、亜莉香の心を軽くする。帰ろうと思う気持ちが増して、辿り着いた部屋の前で足を止めた。
扉の先にある部屋は、亜莉香が借りて寝泊まりしている部屋だ。
千年前ではなく、亜莉香が生きている時代で。
礼儀として、扉を叩いてから部屋に入った。返事はなく、指示された通り部屋に入る。
間取りは変わらない。
緩やかな傾斜のある、天井の低い部屋。たった一つしかない丸い窓から見える、晴れ渡る青空と、山々の鮮やかな深緑の緑。部屋の中を明るく照らすのは、開いた窓から降り注ぐ太陽の光だけで、照明は付いてない。
その部屋の中心に、ぽつんと椅子があった。
ゆりかごのように前後に揺れ、黄瀬が深く腰掛けている。部屋の入口からでは斜め後ろの姿しか見えず、膝の上に大きな無地の毛布を乗せ、小さな寝息が聞こえた。
扉を閉めた音で、黄瀬の寝息が止まった。
「また、来たのかい?」
ゆっくりと優しい声は、黄瀬の声だ。
けれども話しているのは、太一。
長い年月が過ぎても、その表情を見なくても、黄瀬の身体で太一が話す。若い時とは違い棘のない口調になり、深く息を吐く。
「君も懲りない。何度来ても、私が語れることは少ないのに来る。どうせ一言も喋らないのなら、立っていないで座ったらどうだい?」
振り返りはしないのに、まるで見えているように言った。
この場所でも、太一には亜莉香ではない人物に見えているに違いない。それが誰なのか分かりもしないが、言われた通り喋らずに、壁に寄ると、膝を抱えて座り込んだ。
開いている窓の外から、賑やかな人々の声がする。
走り追いかける子供。怒って転ばぬように言う大人。会話までは聞こえなくても女性達が集まり始まった井戸端会議に、畑仕事を邪魔されて怒る男性、愉快に笑う老人。その声に混ざって鳥の音も、風の音も、春の訪れを告げる幾つもの音が部屋に響く。
部屋の中に流れる空気は温かく、静かで柔らかい。
「良い日だな」
誰にでもない言葉を零し、窓の外に目を向けた。
「こんな日が来るとは思わなかった」
懐かしそうに太一は言った。見た目は黄瀬の身体で若くても、声や雰囲気から老いを感じる。動作一つ一つがゆっくりで、苦しそうに咳き込んだ。
思わず亜莉香は立ち上がりそうになったが、ピヴワヌには止められた。
黙って見守れば咳は収まり、肩の力を抜いた太一は言う。
「怒っているかい?」
急な質問に、返事は出来なかった。
「幼い君を守るために、里を囲う結界を作ったこと。精霊達に見守られ、何の変化もない日々を過ごさせていること。母親のように、ルグトリスからも王家からも隠れて暮らす里の中で、普通の生活を過ごして欲しかったのは、私の身勝手な考えだと…君は前に言ったね」
とても悲しそうに聞こえた。
それでも、と太一は続ける。
「私を恨んでもいいから、どうか笑って生きて欲しい。里の外に出る鍵は、この部屋にある。その鍵さえ見つければ、君は外に出られる。今とは違う世界が広がるかもしれない。今の私には――君を止められるだけの力はない」
太一が語りかけている相手は、奏と里の女性の間に生まれた子供、またその子供かもしれない。千年前の子供を守るために、隠れ里が生まれた。その子供の血は受け継がれ、里の守りも引き継がれ、存在するのが隠れ里。
全ては千年前、太一が里に訪れて始まったのだろう。
少し間が空いてから、また太一は話し出した。
「もしも外に出るなら、鍵を失くしてはいけないよ。その鍵は君以外、里の人間を守るための鍵でもある。この里は、どんな場所より安全だ。この里の中にいれば、恐れるものは何もない。この里を初めて訪れた時、それは美しいと思った。人々が花降る里と呼ぶ意味が、よく分かる。そんな里の平和を壊す真似だけは、しないで欲しい」
長々と喋って、呼吸を繰り返す。
「長い、長い時間がかかった」
今にも泣きそうな声は切なげで、亜莉香の胸が締め付けられた。
太一の命の灯が今にも消えそうで、怖くなる。
「妻にも、共に戦った戦友にも先立たれた。君は覚えているかい?昔よく遊んでくれた久高という男。あいつは私の先輩だった。騎士として生きる前、その見習いをしていた頃の先輩。困ったことに騎士をやめた時、私の跡を追って里に来た。住みつくとは思わなかったが、あの男が居て楽しかったな」
思い出話を始めた声に、少しだけ生気が戻る。
亜莉香の知らない時間で、太一の過ごした時間がある。あの悲劇を乗り越え、生きていた時間がある。当たり前の話だ。
その時には久高も傍に居たのかと、もう会えない人物を想えば懐かしい。
「久高がいなければ、妻を娶ることはなかった。勝手に結婚相手を連れて来られて迷惑もしたが、私には勿体ない女性だった。君の母も、素晴らしい女性だったね。多くの人に恵まれ、私は幸せだ。幸せだったよ」
段々と小さく消えた言葉を最後に、太一は窓の外から顔を背けた。視線を手元に戻した後に、頭を椅子に預けてしまう。
太一の語りが終わった。
不意に話し出しはしないか十分に待ってから、亜莉香は立ち上がる。
右手に持っていた本を胸の前で抱え直した。家の中で靴を履いたままだったのは、黄瀬の許可があってこそで、足音を立てないよう注意して歩く。
横顔から瞳を閉じていたのを確認したので、太一の前に回った。
膝の上に合わせていた手に、本を触れさせようとして、ふと声がした。
「君は今、幸せですか?」
それは亜莉香に向けての言葉じゃない。
何を言っても受け入れてくれそうな眼差しは優しく、温かさを感じる。答えなくてはいけない気がして、腰を落として目線を合わせた。
「幸せを、探している途中です」
太一が僅かに見開いた目に、髪の短い少女が映った。
亜莉香より年下の、ぼさぼさの髪を肩より短く切っている少女。男の子のような格好で、力強い意思を感じる瞳。黄瀬の瞳から色までは判別できないが、その少女に似た人を、亜莉香は知っていた。
無意識に口角を上げ、言霊を宿して紡ぐ。
「きっと…きっと、幸せになります。私も、皆も。だからもう、何も心配しなくて大丈夫です。貴方の意思を受け継ぐ人も、ちゃんといる――」
話をしながら、開いたままの本を太一の手に乗せた。
「そうですよね?黄瀬」
「…そうだね」
表情が、話し方が変わった。
肯定した黄瀬は微笑んで、光り出した本を大切に撫でる。音もなく浮き上がった文字の羅列が、一気にページを埋め尽くす。太一の生きた日々を、人生を綴った本はようやく完成したようにも見えた。
何もしない亜莉香とピヴワヌに見守られ、黄瀬が裏表紙に手を伸ばす。
魔導書を閉じた途端に、周りの景色は砕けた。




